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終-3:午前10時の旅立ち (37)

いつの間にか、タクシーの後部座席に人影が戻っていた。 「お待たせしました」 「おかえり」 「はい、コーヒー」 「ありがとう」 目を細めてカップを受け取り、理人さんが窓際へとスライドする。 足元のスペースには、さっきまではなかった大小さまざまな紙袋が詰め込まれていた。 「みなさんからの餞別ですか?」 「え?ああ……なんか航生が、俺が今日挨拶に寄るって触れ回ってたらしくて」 はにかむ理人さんの目の周りが、ほんのりと赤い。 俺はこっそりと笑った。 カフェラテを理人さんに預け、身体をひねってシートベルトを探す。 金具がカチリと音を立てると、理人さんの視線が揺れた。 「佐藤くんはさ、その……よかったの?」 「え、なにが?」 「やっぱりここから離れ難くなったりしぷひっ」 「ばあか……って言せようとしてるでしょ?」 「し、してにゃい!」 摘んだままの鼻をふにゃふにゃと動かし、理人さんが否定する。 「もう何度も言いましたし、分かってくれないならこれからも言い続けますけど、良いとか悪いとかじゃなくて俺は……俺が、理人さんと一緒にいたんです。理人さんがどうしてもひとりがいいって言うなら、今すぐ降りますけど」 「にゃ!?だ、だみぇ!」 「でしょ?」 ゆっくりと指を離すと、理人さんの控えめな小鼻が赤くなっていた。 解すように鼻頭を摩りながら、滲んでいた涙を瞬きで飛ばしている。 すると、僅かに湿った左手が俺の上の右手に乗った。 「……ばか」 俺は笑った。 確かに、俺は馬鹿だ。 そして、理人さんも馬鹿だ。 あの時『運命』だと思った出会いは、ちっとも運命なんかじゃなかった。 始まりは、美しかった。 少女漫画のように出会い、一瞬で恋に落ちた。 物語なら、そこから一気にハッピーエンド。 誓いの口づけを交わし、めでたしめでたし。 でも、俺たちが生きる現実の世界に『おとぎ話』は通用しない。 嫉妬の炎に呑み込まれ、お互いを傷つけた。 独りよがりで、すれ違う気持ちに気づけなかった。 時には、信じる気持ちも失いかけた。 この一年半を思い起こすと、数々の葛藤が蘇ってくる。 辛かった。 苦しかった。 それでも離れられなかったのは、離れたくなったのは……好きだったから。 好きで好きでたまらなかったから。 理人さんが隣にいる。 隣で笑っている。 俺を好きだと言ってくれる。 ただそれだけで、『辛い』と『苦しい』があっという間に上書きされてしまう。 そして残るのは、 嬉しい。 楽しい。 幸せ。 好き。 触れていただけだったの手を翻し、指と指を絡めた。 ほんの一瞬躊躇うように離れた指先が、きゅうっと手の甲に食い込む。 見つめ合ったふたつのアーモンド・アイに、もう迷いは見えなかった。 今日、俺たちは旅立つ。 新しい未来へと―― 「運転手さん、お願いします」

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