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第1話
子供たちがしきりに野原へ石を投げていたため、少年は小石の行く先を目で追った。目の開かない子猫が2匹いた。その近くにカラスが迫る。大きな嘴が子猫を狙い、小石に怯む様子もない。子供たちを見てもいなかった。少年は歩きながらそれらを見ていた。投げられる石が大きくなり、宙に放たれたひとつが艶やかに照るカラスの体へと当たった。少年は通り過ぎるまでは眺めていたが通り過ぎてしまうと意識は子猫を守るためカラスに石を投げる子供たちからパン屋へと移った。パン屋に寄って、それから青果商店に寄らねばならなかった。血の繋がらない弟が熱に浮かされていた。母親は付きっきりで看病し、父親は仕事に出掛けていった。
小石の音が鈍くなり、背後でばさばさと羽ばたく音がして、カラスが後ろから視界に入って、消えていく。子供たちの歓声が遠くで聞こえた。パン屋に入ってバタールを数本買い、切らしたままでいたジャムも買う。それから青果店に向かって少しの間、イチゴを眺めたが渡された金では足りず、弟の求めた青リンゴとオレンジを1個ずつ買った。また先程まで子供たちのいた場所を通る。子供たちはそこにはおらず、野原の中の子猫を囲んで賑やかに話していた。少年はその集団を横目で見ながら帰宅する。買ってきた物をリビングのテーブルに置いて、自室に戻る。机の上に置かれた本を持ってまた外へと飛び出した。
これからは少年は、少年自身の時間に浸るのだった。子猫に群がる同じ年の頃の子供たちがいたことも忘れて、本を抱えて走った。村の外れに住む老人の家へと急いだ。
少年は老人から本を借りて読んでいた。分からないところの説明やさらに深い理解を求めて足繁く通っていた。足の悪い老人の手伝いを兼ねて、様々なことを考え、教えられ、語り合った。朝は母を手伝い昼から夜まで老人のもとにいたが、弟が風邪をこじらせている間は昼を少し過ぎるまで家のことをやっていた。ベルを3度鳴らすのが訪問の合図だった。老人の家に飛び込んで、杖を着きながらゆっくり出迎える老人と挨拶を交わす。真っ白く伸びた眉が両目をほとんど隠し、真っ白な髭に覆われた口元がもごもごと動いた。村の子供たちと打ち解けられないでいた少年に、散歩していた老人が声を掛けたのが始まりだった。読み書きもこの老人から教えられた。リビングへと促される。壁には古びて焼けた海図が貼られていた。毎日のようにその海図を眺めた。空が暗くなり、老人に帰宅するよう言われるまで本の話をして、次に借りる本に迷っていた。老人にゆったりした見送りを背に受けて、家へと帰る。野原の脇に建った民家の窓から光を受けた地面に丸みを帯びた陰が落ち、そして動いている。魚や野菜や果物を漬けておくための石にも思うた。艶やかに照って、それがカラスであることに気付いた。カラスは少年を見上げて逃げようとした。だがぎこちない。ふらふらとしながら跳ねて視界を横切っていく。まるで少年に道を譲るかのようだった。そして野原に消えていく様を見ていた。姿を消すまでも行かず、少年が立ち去るのを待っているらしかった。カラスがいたところには地域で親しまれた野良猫に与えるエサ箱が置かれていたが、何も入ってはいなかった。少年は家へと帰った。
◇
騒がしい外を窓の桟に肘をついて眺めていた。長く真っ白な髪に窓の奥の炎が赤々と揺らめいている。リーネアは繋がれた村人たちが連れて行かれる光景を左から右、左から右へと何度も眼球が動いた。村人を連行していた者が背後から斬られた。村人、賊、それからまた別の勢力がこの小さな村にいるらしかった。リーネアのいた民家の扉が蹴破られる。窓の桟に腕を置いたまま振り向いた。賊か、逃れた村人か、それともまた別の勢力の人間か。
「ここは危ない。逃げよう」
室内は真っ暗いが外の明かりを借りて赤みがかっていた。まだ10代前半から後半に移る頃の若々しさを感じさせる身体つきの少年がリーネアへそう叫んだ。部屋には踏み入らず、手を差し伸べられる。大きな音がして、炎の中で家屋が崩れていった。
「早く」
少年が近付いてきて、窓の赤い光に照らされる。顔に大きな火傷の痕が見えた。リーネアがその容貌に言葉を失ったことも気にせず、少年はリーネアの細い腕を掴んだ。
「避難場所に連れて行く」
苛々とした調子で少年は言った。リーネアは黙って、先を歩く姿を舐め回すように観察した。家々が放つ熱気がリーネアの真っ白な皮膚をちりちりと炙った。そう離れていない、火の気もない建物へ連れて行かれ扉が開いて押し込まれた。村人たちが先にいて、皆戸惑っていた。リーネアは押し込まれたままに室内へ足を踏み入れると、憤怒の形相をした村人へ突き返される。足を滑らせて、少年の前へと転んだ。
お前が災いを呼んだんだ!
大きな怒鳴り声が響いた。リーネアは無言のまま立ち上がる。少年の顔付きが変わって、リーネアと怒鳴った村人とを見遣った。
お前を突き出して、やる!
リーネアは怒鳴る村人や戸惑いや不安や緊張にさらに緊迫感を上塗りされて押し黙っている村人たちに背を向けたまま突っ立っていた。少年は周りを見渡して、再びリーネアの細い手首を握って外へと連れ出した。
「隣の村まで送りたいけど…」
リーネアの顔には泥が塗られていた。美しい顔は災いを呼ぶ。家主はそう言って、リーネアの顔に泥を塗ると倉庫にリーネアを隠し、連れて行かれた。室内には居なかった。少年は避難場所になった民家の周りにいた仲間らしき者に声をかけた。少年よりも年上ばかりが目立ったが、少年のほうが立場は上らしかった。少年と入れ違って、別の者がやってくる。少年の後姿をじっと見つめていた。
◇
リーネアは角材で組まれた柵の中で座っていた。船は揺れ、たまに床が傾き、木板に沿って滑ったりもした。円形の窓から外が 見える。船尾側に設けられた部屋であるため、船の後ろを数人が見回っているのが見えた。
軟禁部屋の扉が乱暴に開かれ、柵で隔てられた隣の個室に男が放り込まれる。連行してきた者は黙々と乱暴に鍵を掛け、リーネアを一瞥することもなく出て行った。柵の奥で横たわる男を眺めていると、むくりと起き上がった。
「こんちは」
リーネアは声を掛けた。男は青年といった年頃だった。ガラスを両目の前で細い金具に引っ掛け、両耳で支えていた。眼鏡だ。知識人の金持ちの息子を連れ去ってきたものだと思っていた。眼鏡の奥は、火傷の痕が顔を走っていった。顔の右半分を殆ど覆い、左半分には僅かに伸びていた。
「…こんにちは」
筋肉質な体躯に似合わない神経質げで端整な顔立ちが訝しみながらリーネアに向いた。
「隣人のリーネアでっす!よろしく~」
「…次の着港までお世話になります」
黒髪に翠の瞳が印象的な男だった。簡潔な挨拶を終えると青年はリーネアから顔を背けてしまった。
「おにいさん、名前何てゆうの?」
リーネアは青年とを隔てる角張った柵の間に顔を挟んだ。大きな火傷の痕のある顔がリーネアを一瞥してまた顔を逸らす。
「ダントプント」
「ダントプント」
教えられたそばから読んでみる。ダントプントと名を教えた青年はもうリーネアのほうを向かなかった。返事もしない。
「どうしてここに連れて来られたんだよ?」
「…船長選に惨敗したからです」
リーネアが乗っているのは海賊船だった。真っ白な肌に真っ白な髪、眉毛や睫毛まで真っ白く、瞳はぎらぎらとした黄金の瞳の美少年であるリーネアを守神として保護し、船に軟禁していた。柵の中には閉じ込められているが衣食住は優先され、外に出る自由な時間も与えられていた。特に不満も無くリーネアは海賊船の揺れに身を任せていた。
「船長選負けると軟禁されんの?」
ダントプントは答えなかった。膝を抱えて背を向けている。座りながら寝ているにはしては姿勢が良い。
「ダント寝てる?」
「…寝ていません」
「ダントぉ」
リーネアは柵に顔を嵌め、ダントプントから目を放さなかった。
「ぼくのこと覚えてないのぉ?」
顔を挟む角材に両手をついて、リーネアは訊ねた。ダントプントの姿を何度も船内で見掛けたことはあったが、話し掛ける機会はなかった。忙しそうにしていて、名前を聞くことも出来ずにいた。他の者にも聞かず、いずれは自身で訊くつもりでついにその日が来た。
「…覚えているも何も…。お顔は幾度か見たことがありますが、話すのは初めてでしょう」
「うそだぁ」
見向きもせず答えられ、リーネアは大袈裟に後ろへ転びかけ、腕を着くと天井を仰いだ。
「焼き討ちされてた村で助けてくれたじゃぁん」
やはり反応は薄かった。
「…すみません。思い当たる節がありませんね」
「なんで!」
「なんで!、とおっしゃられましても」
悪怯れた様子もなかった。
「隣の村まで送るって言って、別の人寄越したじゃん。覚えてないのぉ?」
ダントプントは人差し指で頬を掻く。そして黙った。
「思い出した?ね、思い出した?」
「確か…15、6の娘でしたね」
膝を崩し胡座をかく後姿をじっと見つめる。リーネアはまた柵を掴んだ。
「そうそう。それ、ぼく!」
「ご冗談を。10年の歳月が経っていますからね」
「うん。小さい頃のダントめちゃくちゃかわいかったな~。それにかっこよかった。眼鏡はいつから掛けてるの?まさか海賊だったとはね~」
ダントプントは、さっとリーネアを振り返って、また後姿だけを見せた。眉間に皺を寄せ、不審なものに対している眼差しだった。
「ダントぉ」
ダントプントはもう何も答えなかった。リーネアは暫く格子と格子の間に顔を挟んでいたが首を引いて床に寝転ぶ。
「せっかくまた会えたのにぃ。ダントが好きなこと話そうよ。本持ってたし、本が好きなのかな?」
「…いつの話です」
ダントプントは躊躇いがちにリーネアを気にした。
「怪我した時にパンくれたじゃん」
返答を誤ったらしく、やっと掴み掛けた相手の興味を手放してしまった。船は揺れ、軟禁部屋は凪いだ海原よりも静かだった。リーネアはダントプントとの声を何度も蘇らせた。声変わり前の高い声、そして今の低い声。
「ねぇ」
返事はない。
「ダントぉ。ぼく守神だよ?そんな態度でいいのかな~?」
「…なんですか」
背後から見える耳や輪郭、頬のラインを視線でなぞる。反応があるだけよかった。
「着港までってどういうこと?」
「…足洗うんです。こんな船生活とはおさらばというわけです」
「なんで?長いでしょ?10年くらいやってるよね?」
ダントプントはまた黙ってしまった。しきりに、ダントぉ、ダント~?と呼んだがまるで彫像だった。飽きずに身体の曲線を辿った。小さな頃から知っている。今の年齢の半分にもなっていたかった少女に見紛うほどかわいかった少年が今では引き締まった筋肉と張った肩を持ち、しっかりとした体躯へと成長している。身長も、外見から推定される年齢も抜かれている。
「ダントいないなら、ぼくも船降りる」
再来する沈黙。無視を決め込んだらしかった。船は揺れ続け、壁の向こうで会話が聞こえた。乗組員は気のいい輩が多かった。
このクレシエンテ号は、他の海賊を殲滅することを目的に国家公認の海賊だった。他の海賊にのみ略奪を許され、奪った物品は国に納めた後、報酬として配分される。海賊ではあったが国に雇われてしまったことで、海賊とは名乗れなくなってはいたが皆、海賊を自称し続けていた。
リーネアの知っている限り、ダントプントは海に寄ってはいたが内陸の村の子供であったはずだ。父親が近場の漁村まで出ていた漁師であったから、その流れで海賊にさせられたのかも知れない。国家に承認された時、海を知る者は半分は漁師として残されたがもう半分は公認された海賊―水軍になることを強制されていたからだ。海賊であった輩は水軍と正式には改められ、他の海賊の略奪や焼き討ちの際は救助に駆け付け、水難事故に対応したりなどもした。海賊ではいられなくなったことに嫌気が差し船を降りて行った者もいた。職が無いため海賊になり、報酬が与えられることに喜ぶ者もいた。職と家族があったが強制的に船に乗せられた者もいた。リーネアは幾度かそういった者たちに相談されたことがある。守神として道を示す存在だと崇められていた。
「もしかしてヘソ曲げてるの」
ダントプントの応答の有無を待つ前に軟禁部屋の扉が開いた。ウェーブした豊かなブラウンの長い髪を生成色のリボンで括った色男。クレシエンテ号のコックだ。両手に料理を持ってしなやかな長い脚で扉を開けたらしかった。青空のグラデーションをそのまま閉じ込めた瞳がダントプントに注がれた。リーネアのほうを見ることもない。
「もうそんな時間なんだ」
リーネアが沈黙を破るとコックはやっと空色の瞳を向けた。無言のまま外から格子のドアを開き、料理の盛られたトレイを置いてすぐに閉めた。コックはダントプントにも同じようにトレイを置いていく。
「…すまないな」
「い~え」
自身を見もしないダントプントに軽い調子で答えて、それから熱っぽい眼差しを送っていた。
「エリプス=エリッセで降りるんでしょん?」
コックは立ち去らない。軟派な態度でダントプントに話しかける。リーネアはコックを睨んだ。だがコックはまるでリーネアなど見えていなかった。出会った者たちは真っ白な姿を忌み嫌うか、崇拝の対象とするかの二極に分かれていたため、まるで無いもののように扱われるというのは慣れずにいた。普段ならば船員が運んでくるが、たまにやって来るこのコックが苦手だ。船内を散策する時に見かけても寡黙な印象しかなかった。
「ああ。世話になったな。どれも美味かった」
「い~え。そう言われると嬉しいですよん」
コックは切れ長の目を眇めて、全く振り向きもしないダントプントを眺めている。
「オレもエリプス=エリッセで降りようかな~」
次に停まるエリプス=エリッセは海に広く接した大きな街だった。
「料理の才を、陸上で活かすのもありかも知れないな」
リーネアは頬を膨らませる。ダントプントの柔らかな声音が向けられているのは気に食わないコックなのだ。
「嫌だなぁ~、その時はコックなんて仕事辞めてますよん」
コックは煌びやかな笑みを浮かべた。リーネアが船内をほっつき歩いて見かける時は常に無愛想だ。挨拶をすれば返しはするが、愛想笑いひとつ浮かべもしない。リーネアは紹介された船員は名も顔も覚えていた。このコックの顔は厨房の船員に会いがてら何度も見てはいたが、名を知らないでいた。
「それは惜しいな」
ダントプントの静かな声が小さく響いた。コックはにこりとまた輝かしい笑みを浮かべて立ち去っていく。リーネアはまるで透明人間になった心地でいた。
トレイの上の食事は船員が普段食べている固いビスケットだけのものよりもずっとよい。焼き魚はたまたま今日漁れたのだろう。それから乾燥肉と野菜の酢漬けだ。いつもより簡素で食材が尽きているらしかった。だがもうそろそろエリプス=エリッセに着く。襲撃した海賊から降った者の話によるとこのクレシエンテ号の食生活は良いものであったらしい。虫のわいていない飯は久々だと話していた。国からの援助と承認があるため漁村があり次第、ある物ならば不自由なく買い揃えられた。何より底をついていようともリーネアが求めれば優先的に回された。
「あのコックさんとど~ゆ~知り合い?」
問うたが返事を期待してはいなかった。他の船員よりもさらに貧相なトレイの上の食事に見向きもしない。だがリーネアにもある焼き魚の半分が乗せられている。今日は大漁だったか、あのコックの態度を見れば或いは。
「…同じ船に乗り合わせただけの関係です」
遅れた返答にリーネアは何を訊いたのか忘れていた。降った元海賊は十分美味いと言っていた、リーネアにとってはあまり美味しくはないビスケットを齧る。リーネアは物を食べないでも済んでいた。人に化けるために出された物をそのまま食す。目の前の格子の奥で背を向け何かじっと考えている青年の年齢が今の半分にもなっていなかった頃は、まだ飢えという感覚があった。
「相手はそうでもないみたいだけど?」
「…何をおっしゃりたいのです?」
ガラスの奥の鋭い眼差しがキッとリーネアを素早く射抜いた。ビスケットを噛んで、野菜の酢漬けを齧る。音が軟禁部屋に響いた。口を動かしながらすぐに目を逸らさない翠色の瞳とかち合ったままでいた。リーネアの気に喰わないコックの話題であることがやはり気に入らなかったが、それでもダントプントの感情が動いている。緊張、戸惑い、焦燥を隠した威嚇と怒り。リーネアはビスケットを構わず齧り続けた。乾いた音が軟禁部屋を支配する。
「何をそんなに怒ってるの。腹減ってるんじゃない、君」
「…失礼」
咳払いをしてダントプントは再びリーネアから顔を逸らした。食事に手をつける様子もない。
「あのコックさん、ほんとに辞めちゃうのかな」
「…何故私に訊くのです」
「だって今この場所にいるの君とぼくだけじゃん」
リーネアが全て食べ終わってもダントプントへ口にしなかった。じっと胡座をかいたり、また膝を抱えたりしてリーネアへ背を向けたままでいた。
◇
船員が昼間干していた布団をリーネアの元へ運んできた。船内には狭い寝室があるにはあり、室内のハンモックなどもあったが船員たちは雑魚寝ばかりしている。だがリーネアは柔らかく天日干しされた布団を使えた。船員はダントプントを呼び出して、ダントプントは無言のまま軟禁部屋から出て行ってしまった。睡眠をとる必要がないリーネアは布団の中には入ったものの目を開けたままでいた。隣に人間が入って来なければ長い夜はじっと布団の上にいただろう。夜が更け、船が揺れる。降ったり、加わったばかりで船に慣れず酔いの酷い船員がリーネアの元に来ることも暫く減った。
青白い光が円い窓から差し込んだ。布団やリーネアの髪や肌を白く浮かび上がらせる。軟禁部屋に酒の香りを乗せた風が入ってきた。扉が開いてリーネアは身体を起こした。月の光に照らされた空間に大きな陰が落ちた。来室者はリーネアを起こしてしまったのだと思ったらしく、開扉した後すぐに入ろうとしなかった。2人いた。片方はウェーブのかかった長い髪とリボンの陰で分かった。もう1人はウェーブのかかった頭ひとつ分下がっている。ぐったりとしている。ウェーブのかかった頭のほうが、起き上がったリーネアに気付いたらしかった。あの気に入らないコックであることは、入ってきた時にすぐに分かった。もうひとりがダントプントであることも。コックは無言のまま物音だけを立てて、ゆっくりとリーネアの隣の柵へと近付いていく。ダントプントは疲労困憊といったふうで意識はあるらしく支えながらゆっくり歩いていたが体重の半分ほどをコックに預けているようだった。壁に凭せかけられて、コックとダントプントもまた青白い光に照らされた。リーネアは向かい合う青年の影絵を眺めた。
「すまない…ありがとう。重かっただろう?」
「い~え?それじゃあ、おやすみないませ?」
コックは屈み込み、壁に背を預け床に崩れ落ちそうなダントプントの髪へと手を伸ばした。ダントプントは拒むこともしない。
「ああ、おやすみ…」
ダントプントが掠れた声でそう言うと、コックは立ち上がると去っていく。ダントプントの深い呼吸が聞こえた。何度か咳き込み、壁から背を離すと、床へと大の字に転がった。それからまた深い呼吸が繰り返される。草原のような匂いと嗅ぎ慣れた磯とはまた違う潮の匂いが微かに鼻に届いた。船員が漂わせる汗の匂いも混じっているような気がした。リーネアは青白い光の中にいるダントプントを見つめながら一晩中布団の上にいた。少しでも動いて音を立ててしまったらダントプントは姿勢を正してしまいそうで、息苦しそうに大きく上下する腹や胸が、リーネアの身動きを封じた。喘鳴に似た呼吸が段々と緩やかな寝息に変わっていくとリーネアは布団から立ち上がり、柵の外へ出た。守神を監禁するわけにはいかないらしく鍵は掛けられていない。海上ではあるが逃げるつもりもなかった。隣の柵へと移動して、外側に付いた鍵を解いた。金具の軋む音がするがダントプントは眠ったままだ。青白い光に包まれた姿を眺める。それから身を屈めてさらに近付いて、眼鏡の奥の火傷痕に触れようとして手を止めた。脈を測るように首筋に指先を挿し込む。そして腹を撫でるように置かれた手首を巻くように走る擦れた傷に触れた。赤みを帯び皮が擦り剥けた肌が治っていく。皺が寄った布越しの腹にも触れた。寝息だけが聞こえた。寝返りを打って、眼鏡が床に当たったらしく、ごつりと音がした。頭を傾けて髪が微かに鳴った。大きくなった身体を見下ろす。飽きるまで目で辿っていたらおそらく夜が明けてしまう。リーネアはまた布団の上に戻ってそこから穏やかに眠る姿を眺めた。穏やかな村で見た少年時代の面影を重ねた。わずかに届いた月光が黒髪を白く灼いている。焼け滅ぼされる村でみた面影もまだはっきりと覚えている。初めて触れた肉感の緊張に汗ばんだ手も鮮明に思い出せた。長い夜だったはずだが、ダントプントを横にしし、安らかな寝息を聞いているとすぐに夜が明けてしまった。
「おはよ」
「…おはようございます」
ダントプントは気怠げに起き上がった。寝起きの低い声だが嗄れてはいなかった。ダントプントは相変わらずリーネアへ背を向ける。軟禁部屋の外で威勢のいい声が上がって、体操の時間であることを告げた。リーネアも何となく希望者だけが集う朝体操に出た。日に照らされた水面が眩しい。まだ薄い灰色で空は覆われていた。船首側へ向かう途中で、ウェーブした髪を生成のリボンで結った男とすれ違う。夜更けにダントプントを運んできた、優雅さはあるがどこか嫌味なコックだった。軟禁部屋へと向かっていく。気にはなったが、気のいい船員に話しかけられそのまま体操の集団と合流した。交わされる話によればエリプス=エリッセはもうすぐらしかった。例の優雅で陰険なコックたっての願いでエリプス=エリッセに寄ることになっていたらしい。話を聞きながら体操する船員たちを木箱に座って眺めていた。体操の掛け声が止むと皆散り散りになっていく。リーネアもまた軟禁部屋に戻っていった。あのコックは帰ったのだろうか。ドアを開けると柵の向こうに栗色の波打った髪が見えた。ダントプントがその奥にいた。2人が重なっているように見えて目を凝らす。見間違いではなかった。ドアを開き放したまま立ち尽くす。ダントプントが先にリーネアに気付いたらしかった。コックは振り返る。空色の瞳が向くだけでリーネアに対してそれ以外は何も反応は示さなかった。3人は、数十秒だったかもしれないし数分だったかもしれない沈黙に身を置いた。船が揺れ、それが区切りとなって後ろ手に扉を閉めると自分の居場所に入る。布団を畳み、船員がまた干しやすいように出入り口の側に置いた。隣の柵を見られなかった。
壁際に追い込まれたダントプントとコックは、濡れた瞳で見つめ合ってからしなやかな2つの身体を離す。黒髪を抱いて、何か言ってコックは退室していく。リーネアの存在は彼の中には無いも同然らしかった。ダントプントは扉の奥に消える背中から翠の潤んだ瞳を逸らし泳がせ、濡れて光る唇を拭った。リーネアはそれについて知らないふりをした。繁殖する人間同士の相性を唾液交換で測っている。そこに繁殖の能力や機能がなくとも、また別の側面や意味合いを色濃く残しているのだろう。ダントプントは壁に凭れたままだった。時折眠そうに目元を細めた。リーネアは隣の柵を見ないようにすることに必死だった。首が吸い寄せられるような気でいた。村でみた子供が、そしてまだ発達の余地を大いに残していた肉体が、健やかに育ち情欲を漂わせ肢体を投げ出している。長い脚と脚の間が布を押し上げている。荒い呼吸を整えている息遣いがリーネアの白い耳をくすぐった。
「ただ同じ船に乗り合わせただけの人と番 の真似事みたいなことするの?」
「……男所帯ですから」
「それだけ?」
「…貴方には関係の無いことです!」
自身の真っ白い爪先を見つめながらリーネアは訊ねた。触れてほしくなかった話題だったらしくダントプントは声を荒げた。
「関係無い?ほんとに言ってる?ぼく、君のお隣さんなんだけど?」
「…迷惑は、かけませんよ…」
「ふぅん」
軟禁部屋に雑用の船員が入ってきてリーネアに食事を、ダントプントには一杯の酒を運び、ついでに布団を持っていった。食事はビスケット数個と酢漬けだった。リーネアの元に回ってきた食事も簡素になっている。もうすぐでエリプス=エリッセに着くというが他の者たちは酒で済ませる気でいるらしい。酢漬けを齧る。食べる必要は無かった。だが黙り込んでいるダントプントを頭から消したくなった。
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