2 / 12

第2話

◇  エリプス=エリッセに着くと真っ先にダントプントは解放された。解放された、というよりも排他したようだった。ぼくも行く!と連れて行かれるダントプントに付き添った。船は暫くこの街に留まるらしく、リーネアもまた船から降りることになった。船員の花道をゆっくり下りて、街に大きな海賊船が着いたことに不安や戸惑いを浮かべた街の人々への表明にリーネアは動員された。すでに海賊は、内側から改心した元海賊と雇われた漁師や無理矢理同乗させられた知識人ばかりに塗り替えられていた。  真っ白い姿に華奢な肉体、美しい顔立ちの中性的な人物が丁重に扱われる様を見て、街の人々の怪訝と困惑の様子はいくらか緩和した。後は船長が国家の証明書でも掲げるつもりだろう。リーネアは街に消えたダントプントを追う。大きく拓かれた船着場を抜けると、海に面した石畳の広場に出る。あまり人気(ひとけ)はなかった。真ん中に突っ立って、ダントプントの姿を探す。こうしている間にも距離が開いていくことにいても立ってもいられなくなり、潮風の吹くほうへ背を押された。高い建物と高い建物の間に架かった渡り廊下の柱と柱のアーチ状の空間を潜る直前でカスタネットの軽快な音が響いた。過ぎてしまってから、大道芸人風の者がひとり、広場の片隅にいたことを認めた。カスタネットが遠くでまた鳴った。どこか建物に入ってしまったか。街にやって来た大型船に怯えて家に閉じ籠るか、船着場を見に行くかでほぼ二分した街中は数えるほどしか人がいなかった。  真っ白い肌に真っ白な髪だけでなく、華奢だが少年的な肉感の少ない張った肩を露出させたキャミソールワンピースが靡く姿は目立った。頓着しない船員たちから与えられたものだった。通り抜けて行く民家の窓から人影が見える。 「ダント~」  石畳に躓いて、広がった裾に気を取られ転ぶ。血の気の失せた肌から、だがやはり赤い血が滲んだ。船員たちの間で人間と同じ生活を送っていた。身体が人と同じような変わっていっていた。いつもならば多少のぶつけた感覚があるだけだった。衝撃で、何をしていたの忘れてしまった。大股を開いて空を見上げていると、カスタネットの音は近付いてきていた。タンタン…タンタン…と小気味良く鳴ってあっさりと余韻は消え失せる。女性物の衣服を思わせながら異性装というわけでもない格好をした褐色の肌に銀髪を輝かせた男が指に引っ掛けたカスタネットを耳の横で鳴らして歩いていた。両手首や両足首に幾重にも嵌めた金色の細い腕輪がやはり女性を思わせたが体格も背丈も男性と思われた。胸が大きく開いたフリルだらけの開襟シャツを着ていた。引き締まった腰から下は、片側だけにロングスカート状の布を巻き、頭の飾りと同じ素材のシースルーの布で筋肉質な脚を包んでいる。長く弛んだ金糸の腰巻だのフリンジのあしらわれた腰布だの、金細工だのがカスタネットが鳴るたび揺れた。石畳に尻餅を着いたままリーネアは踊り子らしき男を眺める。曲がり角に消えるまで。 「ダント~どこ行っちゃったの~?」  大声で喚いてから深く溜息を吐いた。こうしている間にもダントプントは街から出て行ってしまうかも知れない。すぐに立ち上がり、また捜索しなければならなかった。だがリーネアは大股を開いたまま、後ろに両手を着いたままでいた。諦めたわけではない。空を見上げる。金色の瞳が光りはじめ、瞳孔の奥で炎が揺らめく。身体の芯が燃え盛るように熱くなり、眼球が真上へ引っ張られる。鼻の奥が痛んで鼻血が出る。口が開いたまま閉じられず、唾液が真っ白いキャミソールワンピースにシミをつくる。手足は動かない。身体の制御が利かなくなっている間、リーネアの頭の中には街を鳥瞰した光景が描かれていた。ダントプントを目指して鳥が急降下していくように。ダントプントまでの道程が入ってきて、脳裏に浮かんだことはぷつりと途切れた。近くにいる。口元を拭った。ぼたぼたと石畳に鼻を噴いてキャミソールにも血が付いてしまった。人間の身体へと変わっていくには随分と時間を要した。止め方が分からず鼻を摘まんだままダントプントの後を追う。薄っすらとダントプントが歩いていく光景がまだ残っている。見失う前に急いだ。 「ダント~!待って!」  少量の荷物を持ったダントプントの背中を発見して、跳びついた。 「…っ!…貴方は…」  少し驚きはしたようたが背にリーネアを貼り付けたままダントプントは歩き続ける。 「どこ行くの?」 「…さぁ。何も決まっていませんね」 「ほんとに辞めちゃうの?」 「はい。今後とも彼等をよろしくお願いします」  ダントプントはリーネアの体重を苦にもしていないらしかった。振り落としはしないが、支える気もないようだ。 「やだ。ダントについていくんだもん」 「…お断りします」  脚を腰に絡めて、両腕をダントプントの両肩に乗せると左右から口角を抓る。手に触れた火傷の痕が残る皮膚はざらついていた。 「生意気~!」  厚い掌がリーネアの細く真っ白な腕を掴んで放させる。タンタン…とカスタネットの音が近付き、2人の前を横切った。ふわりと淡い甘みに包まれた清涼感と香辛料を思わせる匂いの混じった香りが漂う。カスタネットを叩く男はダントプントとリーネアに気付いて、にこりと笑った。紅い瞳が印象的だった。大きな縫合痕が額から斜めに頬まで走った、人懐こい顔立ち。 「今日の夜、広場で踊るから来てネ!」  成長期を終えた男の声ではあるが、あどけなさが残っている。カスタネットを鳴らして爽やかさを振り撒く好青年は立ち去っていく。ダントプントは動かなかった。リーネアに首や耳を触られても、好青年が立っていたところを見つめたままだった。 「ダント?」  呼ぶと、ダントは誰もいない真正面から顔を逸らした。慌てた動作で眼鏡を指で押す。 「とにかく、貴方は船に戻ったらどうなんですか」 「やだ」  あの好青年が纏っていた香りがまだ鼻に留まっている感じがあった。ダントプントは俯いたまま歩き、耳が赤くなっているのがよく見えた。 「夜、あのお兄さん観に行こうよ」 「遠慮しておきます」  自身の普段の目線より高くなりリーネアは街を見渡した。ワンピースの裾が腿にかかり、真っ白い脚のほとんどが露出していた。船着場から離れていくと人気(ひとけ)が多くなっていき、リーネアは好奇の目を浴びた。そしてリーネアから、彼を背負うダントプントへと移る。大きな溜息を吐いて、「分かりました」とこぼした。 「まずは降りてください。一緒には居ますから。貴方は目立ちます」 「ぼくだけじゃないでしょ?」  ダントプントが立ち止まったため、リーネアは腕を放さないままへ足を着ける。ダントプントはリーネアを見て眉を顰めた。リーネアは顔を向けられると、口角がつり上がった。 「鼻血出したんですか…?」  厚い掌がリーネアの額に触れた。それから頬と首筋も確認する。何ともいえない難しい顔をされた。それから形を確かめるように肩にも触れる。 「服を買いましょう。汚れていますし、夜は冷えますからね」  ダントプントはまた歩き始めたがリーネアは止まった。風邪などひかない。 「要らないよ」 「その下着同然の姿で周りを彷徨(うろつ)かれると私が困るのですが」 「…でもぼく、お金持ってない…」  数歩先のダントプントが振り返って戻ってきた。 「分かっていますよ。子供に期待などしていません」  幼年期を知っている相手に子供扱いされると思わなかった。口を結ぶのを見るとダントプントは高く見下ろしている鋭い眼差しを弱めることもなく言い添える。 「乗船中はお世話になりましたからね、餞別です」 「餞別?別れないよ?」  呆れを隠さず「言っててください」と言ってリーネアの背中をぶっきらぼうに押して歩かせた。  小さな服屋に入るとダントプントは店主にリーネアを預け、店内の隅の椅子に座っていた。店主はリーネアを可愛がり、あれこれと服を選びはじめる。試着するたびにダントプントの意見を聞くが、どれを着ても大して興味が無さそうだった。薄紅色の開襟シャツにカットオフのスウェットシャツに決まり、それからブーツと靴下、ボトムスとニット帽も見繕った。合計すると高額だったがダントプントは大した躊躇いも見せずに支払う。稼ぎがいいようには見えなかった。着替えたままのリーネアはダントプントを見上げていた。 「ダント」 「はい?」 「ありがと」  ダントプントの鋭い瞳がリーネアを横目で見下ろした。掌に指を絡めても拒まれはしなかった。 「ちゃんと働いて返すからね」 「とっとと出港するでしょう。それに貴方を働かせようだなんて思っていませんからね」 「いいから!それまで待ってて!」 「いつになるんですかね。宿泊費のほうが高くつんじゃないですか」  頬を膨らませる。握ったのはリーネアだったはずだが、いつの間にかダントプントに手を引かれる。船着場に向かっていることにまだ気付かなかった。 「冗談ですからね。本当に何も期待していませんから。妙な真似して稼ごうなどとは考えないように」  目の前に広く海が広がり、広場に出た時、ふと何か思い詰めた様子でそう言った。リーネアがその真意を探ったところで、曲がった方向から船着場に向かっていることを知った。 「ダント?」 「ダントプントさん?」  ダントプントを振り返ってしがみついたのと同時に滑らかな声が同じ人を呼んだ。リーネアが気に食わないでいるコックだった。陽射しを浴びた栗色のウェーブした髪はダントプントの艶やかな髪とはまた違う美しさがあった。 「君は…ああ、いや…」  狼狽えていた。コックから顔を逸らし、腰にしがみついたリーネアを見下ろす。リーネアを振り解こうとしているのか、間を持たせているのか、新しい衣類を撫で翠の瞳は石畳よりずっと地下深くを眼差しているようだった。 「宿取りたいんですけど、3人部屋しか空いてなくて。3人1組だと料金変わらないらしくて…最後なんですし、よかったらご一緒しませんか。他の人と相部屋というのも気が引けましてねん?」  厚い掌が、巻き付いたままのスウェットシャツとその下の開襟シャツ越しの腕を撫でる。リーネアに対する意思疎通ではなく、手癖らしい。リーネアはコックを観察していた。耳に融け入るような美声と砕けた話し方がやはり気に食わない。 「それとも、もう宿予約済んでます?」 「踊り子のお兄さん、観に行くんじゃないの?」  それはお断りしました、とぴしゃりと言われる。コックの提案には乗らせたくなかったが、船着場に連れて行かれるのも避けたい。 「何か先約が…?」 「…いや、分かった」  街にダントプントを引き留めることに成功した瞬間だった。コックが案内すると言い出して、リーネアはダントプントを放した。それを遠慮による別行動だと受け取ったのか、袖を掴まれる。まるで、「貴方も来るんですよ」と言わんばかりに引っ張られ、コックへとついて行く。 「やっとまともな飯にありつけますね」 「君の作った食事だって悪くなかったさ」 「またまたご冗談を~。ラスト3日間なんて悲惨だったでしょ~ん?」  歩幅が違うため、リーネアが遅れると逃走するとでも思ったのか腕を引き寄せられる。頼まれても放す気はなかったがダントプントはリーネアの真っ白の骨張った指を力強く握った。余程2人きりになりたくないらしかった。コックは数歩速く歩くたびに振り返って2人を待つが、彼の認識では待っているのは1人なのだろう。 「ダント、大丈夫?」  手が汗ばみ、青褪めた顔が冷や汗に照り、そして乱れた呼吸をしたダントプントに気付いて足を止めた。(なお)すつもりで繋がれていない手を伸ばそうするがダントプントは身を傾けて逸らした。 「海上生活に慣れすぎて陸上に酔いましたかね」  震えた血色の悪い唇が引き攣って笑う。 「そんな話は聞いたことがない」 「読書家で勤勉な貴方が言うんだ、間違いない」  体調不良か、もしくはあのコックが原因かと思われたがおそらくは後者らしかった。だかコックの悪意によるものか否かはリーネアには分かりかねた。緩い坂を上がっていく。景観条例か義務なのか、全て同じくらいの高さの同じような外観の建物が並び、必ずといっていいほど緑が飾られていた。壁に蔦が伸び広がってもいて、そればかりは統一出来ないらしかった。  着いた先は大きな十字路に面した宿だ。陽当たりのよい部屋だった。コックがそこで初めてリーネアに気付いたらしく、好きなベッドを選ぶように言ったため、窓際のベッドを選んだ。ベッドは2つと1つに分かれて置かれていた。もう1つベッドが置けたであろうし、置いてあったらしく絨毯の色がまだ濃いスペースは踏むと床が鳴り、それが3人部屋である理由だったようだ。リーネアの選んだ隣のベッドをダントプントが、対面のベッドをコックが使うことになった。コックが部屋を空けると、ダントプントはベッドに腰掛けたまま虚ろだった。 「ダント」 「……はい」 「ほんとにほんとに、返すから。待っててね」  返事はないと思われたが随分と遅れてから「だからそれは…」と小さく口にして皆まで言われず消え失せた。 「やっぱ具合悪い?」 「…いいえ」 「あのコックさんのこと苦手なんだ?」 「まさか!」  面白いほどにはっきりとダントプントは喚いたのかと思ったほど激しく否定した。リーネアが黙っていると、取り乱したことを自覚したようでばつが悪そうに俯いた。それがリーネアにとっては息苦しかった。声を荒げられるのは愉快だったが、あのコックのことというのが引っ掛かる。それから疲労が窺えた。誰の目も気にせず休んでほしい。ここは時折揺れる木板の上ではないのだ。 「ぼく、ちょっと出るよ。いい子で待っているんだよ」 「…待ってください。貴方ともあろうお人が1人で外出しないでください」 「それならオレがご一緒しますよん?」  バニラともココナッツともいえないミルキーな甘さと微かなほろ苦さを纏った香りが弾けた。リーネアが開けようとしたドアが引かれる。耳の中で熱を帯びて溶けていくような声に固まった。コック自らがリーネアに接近するとは思わなかった。ダントプントは眉だけを訝しげに動かす。 「お疲れでしょん?」  リーネアのことなど見もせずコックは肩を親しそうに抱き寄せる。ダントプントは困惑したように目を逸らした。拒否でなければ肯定だとでも思っているのかコックの中では決まったことらしくドアの外へと促される。 「急にどうしたの。一体全体どういう風の吹き回し?」  一度だけ空色の瞳と目が合ったが瞬時に逸らされた。 「僕の名前はウィンキール。ご存知ですかな?姫様」  恭しくも投げやりな辞儀をするが目も見はしない。 「ウィンキール?ふぅん。よろしく、コックさん」  微笑みを浮かべるがあくまで顔面の筋肉の動きでしかなかった。 「どちらに向かうおつもりでん、姫様…」 「仕事見つけるの。この服一式買ってもらっちゃったから、返さなきゃ」 「なるほど、殊勝なお心がけで」  ウィンキールと名乗ったコックとは思えない身形(みなり)の色男はリーネアを置いて先に歩いてしまう。それから立ち止まって振り返った。 「僕がここにいる間お世話になるレストランの手伝いというのはいかがですん?」 「そのほうが子守りが楽ってわけ?」 「ご名答」  隠しもせずウィンキールは言った。察したことをありがたがっているような節さえある。 「分かった。そうするよ」 「それは良かった」  宿を出て、少し歩いた先にあるレストランへ向かう。街の中は花の香りがした。陽射しは強かったが建物の影に入るとひんやりとした涼しさに包まれる。 「ダント、なんで船降りるのさ?」 「船長選挙に敗れたからでしょうねぇ」 「それって降りなきゃいけないの?」 「いや、そういうわけでもないと思いますよ。ばつが悪かったんでしょん。あの人、意地っ張りなとこありますからねん」  ウィンキールは淡々としていた。ダントプントに何か特別な情を寄せているようなのは明らかだったが、大したこともなさそうだった。 「ダントさんと随分お仲がよろしいようで?」 「うん。子供の頃から知ってるからね」 「なるほど……さすが神の子」  リーネアはウィンキールを睨んだ。 「何それ」 「ガキの頃文献で読んだことあるんですよん」  取るに足らないことだとばかりに、敵意を向けたリーネアを躱す。レストランの裏口に回る。紅い旗が印象的な垢抜けた店だった。厨房から入り、ウィンキールの顔見知りらしき店主に挨拶していた。 「こちらは僕の妹分です」  リーネアの肩を抱いて店主の前に突き出した。えっ、とウィンキールの顔を見上げる。店主は目元を柔らかくしてリーネアを見下ろした。 「冗談です。僕たち水軍の大切な姫様なのですが、訳あってここで働かせたいのです。どうですか」  店主はうんうんと頷いた。是非ともうちで働いてくれ。それが答えだった。ウィンキールはリーネアの肩を抱き寄せると礼を言う。リーネアも小さく礼を述べる。店主は真っ白な腕を取って眺め、うんうん頷くのが癖なのかひとり何かを理解したふうだった。水仕事は手が荒れますからの、呼び込みやってもらいましょうね。温和な顔で店主は言った。ふと見上げたウィンキールは馬鹿にするような表情でにやにやとしていた。 「ぼく、頑張るから」  店主は和やかに笑った。 ◇  暗くなりはじめると交代の時間が来て、リーネアに合わせてウィンキールまでもが共に宿へと帰ってきたが、ダントプントの姿は無かった。 「ダント~?」  荷物は置きっ放しだった。リーネアは大した驚きもなかった。だがウィンキールは固まり、顔が強張っていた。靴音を鳴らして部屋を飛び出す。バニラのようなココナッツのような甘いけれども落ち着きのある匂いが風に乗り、リーネアの白い毛を揺らす。歩きながら後を追う。近場を散歩でもしているのだろう。もう子供ではない。子供の頃にでさえ彼は大概落ち着いていた。階段を下りると宿の出入り口でダントプントとウィンキールは鉢合わせたらしく2人並んで引き返してくる。 「…すみません、少し外に出ていました」  階段脇に立ったままでいるリーネアの横を通り過ぎた時ダントプントは謝った。ウィンキールはまるでダントプントを部屋に連行するように添っていた。下りてきたばかりの階段を再び上る。真新しいブーツが軋んだ。部屋の中に戻るとウィンキールは黙り込んだまま顔を顰めてダントプントをまるで監視するかのような目を向けていた。ダントプントはベッドに座っている。小難しい視線に耐えているのか、俯いていた。 「広場行こうよ。踊り子のお兄さん観たい」  どちらからの返答もなかった。ダントプントにだけは温和な顔を向けていたウィンキールの顔が凍てつき、ダントプントは顔を逸らした。 「話聞いてた?」 「…ええ、行きましょう。行きましょうとも」  ダントプントは膝を叩いて立ち上がった。リーネアはダントプントの腕を掴んだ。 「姫様」  ウィンキールの媚び(へつら)いも嘲笑もない愛想笑いもない冷えた顔のままリーネアを呼んだ。彼の頭の中からはすでに消えているものだと思っていた。 「なぁに」 「くれぐれも、ダントさんを頼むよ」 「うん?うん」  ダントプントに引かれて宿を出る。1階にも2階にもオレンジの明かりが灯っている。そのため空は暗いが街は明るかった。ダントプントと並んだ陰を見つめる。遠くで陽気な演奏が聞こえる。子供達が広場の方へ駆けっていった。 「痴話喧嘩?」 「…そんなんじゃありませんよ」 「ほんとに?」 「ええ」  カスタネットが管楽器の中に混じった。各々に音を出し、曲の形を成していないとところを見ると練習中らしい。ひろは 「でもなんかコックさん怒ってなかった?」  ダントプントを見上げて歩くと躓いた。厚い掌に肩を支えられる。 「気を付けてください」 「うん、ごめん」  広場の入口のようになっている高い建物の渡り廊下の下を通った。広場は広場を囲う木々の幹にランプが吊るされ、眩しいほどだった。隅には舞台が設けられ、その上で華美な衣装に身を包んだ青年が片側の腰から下がった布をはためかせる。子供達が前例に座り、その周りを大人たちが囲んでいた。 「彼は…少し心配性なんですよ。きっと」  人垣に混じる。リーネアはダントプントの真横に腕を掴んだままくっついて舞台を見上げた。隣に人が増え、父親と思しき男が男の子を抱き上げて舞台を見せる。ダントプントがその姿を見ていた。眼鏡や頬にオレンジの灯が照っている。リーネアは自身の白い細腕を見て、申し訳ない思いがした。 「リーネア様」  初めて呼ばれたような気がした。身体が浮き上がる。ダントの顔が近付いた。 「ダント?」 「見えますか」  リーネアは痙攣したように頷いた。下ろせと肩を柔らかく叩くが届かなかったらしい。微かな笑みを浮かべた。 「それならよかった」 「重いじゃんさ」 「いいえ、特には」  舞台の上に、フリルやフリンジで着飾った青年が現れた。歓声が上がる。羽根とレースの付いた大きな扇子を軽やかに回し、衣装を弛ませながら身を翻す。リーネアは、爽やかな笑顔を振りまく青年をオレンジの光を輝かせた眸で見つめるダントプントを見ていた。腹の奥が引き絞られるような、痛みとは決していえないくせ苦しいような痛みがあった。舞台には青年ひとりしか上がっていないが、どこか背景に大きな舞踏家たちを侍らせているような迫力がある。管楽器の穏やかな曲が止み、青年の緩やかな踊りもまた止まった。宙を揺蕩うスカートや頭の布もまたゆっくりと停止を目指す。大きな扇子を楽団に渡すと、間を置かず、弦楽器が激しく掻き鳴らされた。楽器を置いた一部の楽団員は手叩きする。青年はその手叩きに合わせ、激しい足踏みを繰り返す。タン、タンと軽快な音が踏み鳴らされた。羽織っていた、端から端までフリンジのついた薄布を両手で摘まみ、空気を含んで舞う。片手が薄布を放し、薄布は羽撃くように回り、舞台袖へ飛んでいく。重そうな片側のスカートを掴んで上体を捻り、青年は踊った。青年は背中に翼を持っているように軽やかに宙を跳んだり、しなやかに脚を回し、腰を捻った。滑らかに流れていく四肢にその場にいた者の多くの視線が釘付けになった。拍手が巻き起こり、静寂。そしてまた拍手。ダントプントは立ち尽くしていた。リーネアもまた青年から目が放せないでいた。演奏が終わり、踊り子の青年に振り回されていた裾が落ち着いてもまだ意識はどこか遠いところにあった。エリプス=エリッセの臨海広場にいたことなどまるで忘れていた。銀髪の青年は舞台の中心で恭しく辞儀をする。拍手が遠く聞こえ、一切を終えるまでリーネアとダントプントはそこに立っていた。拍手することも忘れた。ダントプントは青年を凝視し、リーネアは揺らめく衣装を眺めていた。人懐こく燦々とした笑みを浮かべはするが一言も発することなく踊り子は舞台から降りていった。観客は興奮した様子を見せ、散り散りなっていく。リーネアを抱き上げたままのダントプントは立ち尽くしたままでいた。リーネアは呼び戻そうなどとは思わなかった。踊り子の消えた舞台を同じように冷めていく頭で見渡した。楽団が落ち着いた曲を演奏し始める。火照った身体に夜風が冷たいのか、ダントプントはくしゃみをした。 「大丈夫?」  真っ白な手が少し熱っぽい肌に無邪気に触れた。 「…帰りましょうか」 「うん」  石畳の地面へと下ろされる。落ち着いた曲が終わると、また別の曲がはじまった。箱型の楽器が叩かれる。カラカラとカスタネットの音が演奏に混じってダントプントは不意にリーネアから顔を逸らした。だが奏者は楽団の者だった。聞き慣れない言語で男声が短く謡う。大きな弦楽器が心地良く、その上に、余韻の短い弦楽器が乗る。熱情に突き動かされたような曲調が激しく緩急を知った肉体で舞う銀髪の青年を思わせた。 「すごかったなぁ」  宿に着くまでにあれこれとリーネアは感想を述べたがダントプントは相槌をうち、頷くだけだった。適当にやり過ごしているわけではいらしいのは、どこか遠くを見つめて物思いに耽った顔を見ればすぐに分かった。だがウィンキールが宿の入口で出迎えると夢から覚めたらしかった。リーネアの横にいたダントプントはウィンキールに手を取られ、2人は部屋へと2歩3歩先に向かっていく。  湯を浴びて部屋の明かりが消された。リーネアにとって暇な夜がやってくる。窓の奥の明るかった街もまた光を失って、月の光が射し込み室内は青白くなった。隣では忙しなくベッドが軋んだ。衣摺れの音もする。寝返りばかりうっている。リーネアは掛け布を抱いて、窓の外を眺めていた。そのうち起きることにしたらしいダントプントは部屋を出て行ってしまった。扉が静かにしまった。しかし蝶番のぶつかる音は大きく聞こえた。どこへ行くのだろうと思いながらも追わないでいた。ダントプントは大人なのだ。止まることはあるかも知れないが、終わることはない胸の鼓動がどこか重くなる。 「姫様」  ウィンキールは普段の調子でリーネアを呼んだ。 「寝てるって普通思わない?」 「神の子は寝ないって聞いてるんですがね」 「何それ」  リーネアも起き上がる。音もなくウィンキールは扉の前に立っていた。 「寝て待っていてくださいねん」 「1人にさせてあげたらいいじゃんさ。若いんだし、夜遊びくらいしたいでしょ」  暗い中でも、途端にウィンキールの表情に怒りが灯ったのが分かった。 「冗談じゃない」 「月の光に浮かび上がる街を肴に一杯ってのも乙でしょ」  舌打ちが聞こえた。何がそこまで機嫌を損ねたのか分からなかった。扉は開かれて、室内からまたひとつ気配が消えた。

ともだちにシェアしよう!