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第3話

 ダントプントは吸い込まれるように街の暗部へと踏み入ろうとしていた。ウィンキールは背後から近付き、無防備な腕を掴む。月の光は強く、瞬時に反撃を試みた手が止まる。深夜というほどの時間でもなかったが街は寝静まっている。とはいえ寄ったことのある村や町ではすでに夜更けとして扱うくらいだった。 「ああ、君か。すまない、夜盗か何かかと…」 「い~え?不躾に近付いたのはオレですからねん?」  ダントプントは掴まれたままの腕を放してもらえるものとして引いたが、ウィンキールは放さなかった。 「彼はどうした?」 「この上なく穏やかに寝ていますよん?」  ウィンキールの空色の瞳は月の光を浴びると妖しい色を帯びた。腕を掴む力が強まり、ダントプントは苦笑いを浮かべる。何か言わなければならない空気を感じ取ったらしく、逸らされない瞳から顔を逸らし口を開く。 「さっきの広場の催し物はすごかった。とても…」 「それで興奮が冷めず眠れなかったと?」  ウィンキールの声が低くなった。ダントプントは肩を震わせる。 「魔の憑いた狂人が娼婦の死体に産ませた子供なんて言われていますね。全く酷い噂だ」 「何の話だ」 「あの踊り子ですよ。観に行っていたでしょん?」  ダントプントは顔を強張らせる。ウィンキールは宿へとダントプントを掴んだまま戻っていく。 「その紅い瞳は淫魔をも凌駕した情熱を植え付けるなんて言いますけどね。まさか冷めない興奮というのは…」 「よせ。根も葉もない噂だろう」 「そうですねん」  でも。ウィンキールは立ち止まった。掴まれたままでいるダントプントもまたそれに倣った。向かい合う。背丈はウィンキールのほうがわずかに高かった。 「情熱を…興奮を植え付けるというのは本当のようですね?…もちろん、そういう意味で」  腕は放されたが、節くれだった指がダントプントの輪郭を捉えた。親指が下唇をなぞる。 「よせ…」 「根も葉もない噂だからですかん?それとも、自身で証明してしまいましたか」  ダントプントはウィンキールの優しい手から顔を背ける。肌に触れられたなら、身体を支配している熱に気付かれてしまいそうだ。そうでなくても既に知られているようだった。 「何を…馬鹿なことを…」  ウィンキールは冷笑した。 「馬鹿なことじゃないですよん?自然なことです」  ダントプントは黙った。肩を抱き寄せられると神経質げな眉が歪んだ。拒もうとしたが手がウィンキールに触れる前に止まった。 「誰かに見られたら…」 「誰も見てやしませんよ。尤も、誰かに男同士の語らいを見られて、一体全体何が困ると言うですん?」 「どわわ!」  ダントプントは突然会話に入ってきた驚いた声に肝をつぶしてウィンキールを突き飛ばした。驚嘆の声と鈍い音がしたほうを注視すると銀髪が月光に炙られた踊り子がいた。石畳の上に寝ていたが身を起こした。広場で見た衣装ではなく平服だ。紅い瞳が猫のように奥まで深く輝かせる。 「…っ」 「大丈夫ですかん?」  ダントプントは言葉を失う。口調こそは砕けているが声は低い。青年に言ったものかと思われた。踊り子の青年を見つめていると視界を阻まれる。 「戻りましょう」  銀髪の青年の姿はウィンキールの身体の奥に消えた。だが歌が聞こえた。透き通った裏声でリズムを刻む。同じ音調が繰り返されたり、わずかな高低が加わったりなどした。ウィンキールの存在を忘れてダントプントは肉体を失くし耳だけになった気がした。だがウィンキールの声は通り抜けていく。  La… La… La…    青年の凛とした裏声が街を包む。まるで月を青年が操っているようだった。  ha ha ha…  甘く媚びるようでいて、他者を突き放し繊細ながら芯があった。  ca… ca…ca…,ca… ca… ca…  知らない言語がそのままの調子で唄われた。 「行きますよん」  肩を抱かれ直され、ダントプントはされるままに宿へと押し戻される。ウィンキールは忌々しげに唱う青年を振り返った。  足音が近付いてくるとリーネアは言われた通りに寝たふりをしていた。半乾きの髪に枕が蒸れている。 「あの踊り子の歌に聴き入っちゃったんですねん?」  扉が開いてウィンキールは小声で話す。ダントプントはベッドに腰を下ろす。 「そんなことは…」 「ああ。揶揄ったつもりはないんですよん?」  ウィンキールは扉の前に立ったきりだ。ベッドへ近付こうともせず、ダントプントの看守と化していた。 「彼は街が飼っている魔憑きの子ですからねん。魅せられたって仕方ないですよん」  低い笛の音に似た梟の鳴き声が小さく聞こえた。ダントプントは居るのか居ないのか分からないほど静かにしていた。 「でも深追いは勧めません」  あの踊り子の話をしているのだとリーネアは気付いていた。「魔憑きの子」と言って思い浮かぶのは、血が滲んだかと見紛う双眸に、銀を流し込まれた清らかな川のような髪。 「見るものを誑かしているもんですから」 「だからそういうのでは…」  ウィンキールの態度が気に入らず、リーネアは自身の白い首に浮かぶ喉仏に指を当てる。「姫様」と呼ばれていたが、身体は男体として育っている。リーネアの性自認もまた男であった。呂律の回らない、寝起き特有の低く嗄れた声を出す。 「う~るさいよ。早く寝たら…」 「起こしてしまってすみませんねぇ?」  悪怯(わるび)れもせずウィンキールは肩を竦める。 「おやすみなさい」  ダントプントの声がした。 「うん」  広場で抱き上げられた感触を思い出す。隣の親子と思しき2人組。掛け布の中で細く真っ白な腕で身体を抱く。不思議と、目を瞑っていたい感覚に襲われる。リーネアの少し上で、荒んだ頬とガラスを照らし真っ直ぐ舞台を見つめていた双眸に身体の真ん中がほんのりと温かくなった。これが眠気なのかとリーネアは思って、頭は考えることも思い出すことも放棄してしまった。 ◇  レストラン前で呼び込みをやっているとふと歌声が聞こえた。  La… La… La… 伸びてゆくよ…  hoo… woo… hoo… 歌は続くよ…  a ha a ha a ha a ha ―歌 ―の歌  聞き慣れない言語だった。だがリーネアは意味が分かった。しかし発音は出来なかった。綴りも分からない。無伴奏合唱の練習をしているらしく、店の前からよく見える枸椽(くえん)の木の脇で女声と見紛うほど高く歌っている。青年は悩ましげに髪を掻いて紙束を難しそうに眺める。そうしている間にもリーネアは通りがかる人々をレストランへ呼び込んだ。この街の者たちはリーネアに友好的だった。だがすぐ先で歌の練習をしている、昨晩は広場を沸かせた踊り子の青年にはまるで目もくれなかった。まるでいないもののようだった。平服と舞衣装ではまるで雰囲気が違ったが銀髪に紅い瞳と手術痕が顔面に走っている者はそういない。  loo… yo… loo…yo… loo…ya pa  ca di ca, ca di li ca, ca di ca, ca di li ca ―の歌  リーネアが1日の勤めを終える頃にもまだ青年は練習を続けていた。溜息を吐いて楽譜と思しき束を丸めた。黙り込んでどこか見つめている。ウィンキールと合流して宿へ帰る頃にはすでにそこにはいなかった。だがタンバリンの音が聞こえ、それはあの青年が出しているのだと見ずとも分かった。赤みを帯びた空を見上げる。ウィンキールは立ち止まったリーネアを待つが口を開くことはない。ダントプントとレストランの者以外に振り撒く愛想は無いらしい。宿の廊下で船員たちとすれ違って、すでに話が行き届いているらしく何か訊かれることもなく挨拶を交わして別れた。ダントプントに用があったようだ。買ってもらったばかりの服を褒められ、すぐさまダントプントに会いたくなった。船員たちととウィンキールが話し込んでいたが構わず部屋に駆け込む。 「ダント~帰ったよ!」  室内は涼しい外に比べて蒸し、新しい苦味のある匂いが充満していた。皺だらけのシーツの上にダントプントは半裸で横たわっている。リーネアの登場に驚いたのか突然身を起こしたが、顔を歪めて腰を摩った。 「やだな~ダント、ぎっくり腰?まだ若いのに~」  無言のまま投げ捨てられた衣類を着る背後へ回る。シャツを羽織る瞬間にダントプントの飾り気はないが素朴ながらも優しい匂いがした。引き締まった腰の曲線を目でなぞる。 「もしかして昨日ぼくのことずっと抱っこしてたから?」  ダントプントはやはり何も言わなかった。背後によりベッドへ乗り上げる。 「ごめん…」 「…違いますよ」  白い手が触れる前に、気配を察したのかダントプントは立ち上がった。しかしすぐに腰を庇う。 「(なお)す」  肩越しに、熱っぽく潤んだ瞳がリーネアを見下ろした。 「結構です」 「痛かったら言ってね」  窓の奥でタンバリンの音がする。この宿の前を通ったらしい。扉からウィンキールが現れ、挑戦的な笑みを浮かべてダントプントを見ていた。 「…っ」  ダントプントは顔を逸らした。悔しさに唇を噛んでいるのがリーネアからはよく見えた。 「ただいま帰りましたよん」 「…ご苦労だったな」  タンバリンの音が無邪気に通り過ぎていく。いやらしさはないくせ微かな甘やかさを含み、快く街へ溶けていく爽やかで活発な声が夜の広場へ誘う。カスタネットやタンバリンがよく似合っていた。高く響く透き通った歌声はあの青年には似合わなかった。沈黙が流れ、ウィンキールは長い睫毛に覆われた目を眇め、俯くダントプントを眈々と狙っている野犬に似ていた。 「ね、ね。ダントが買ってくれた服、船員さんたち褒めてくれたよ。似合うってさ。ありがと、ダント。返せるように頑張るね!」  タンバリンの音は消えていく。ウィンキールの嫌味な笑みは深まったが、しかしその直後笑みが消えた。顔を逸らしたままでいるダントプントへ歩み寄り、両腕に触れた。リーネアはそれを見上げる。 「…放せ…」 「何を期待しているんですかん?」  2人の距離は会話するには近かった。密着するほどの近さで、ウィンキールの声は甘ったるさを帯びる。 「何も期待など……それに…」 「姫様は健気に頑張っているのに、騙すんです?」 「ぼく?」  ダントプントはするすると床に落ちていく。だがウィンキールはその身体を難無く抱き留めた。長く形の良いウィンキールの指がダントプントの引き締まった腰や臀部を労り這う。 「やっぱ腰痛いんじゃん…」  支えられながらベッドに座らされ、リーネアは真っ白な手で痛みに触れる。ダントプントは震えていた。怯えた目をリーネアに向ける。 「やめ、て…くれ…」 「どうしようかな~?」 「言わな、いで…くれ…」  2人の秘密の話を暴露される危機にあるらしかった。黒髪の奥の濡れた翠玉がまた別の潤みを持った。 「…っ」  唇を噛み、拳を震わせている。屈辱か、それか羞恥か、もしくは責苦か、ウィンキールによって明かされる隠し事に備えている。 「言いませんよん?僕はまだ貴方と一緒にいたいですからね?」  特に残念という気も起きなかった。躊躇いながらダントプントはリーネアへ首を軋ませるように顔を向けた。 「すみません…ただ、本当に服の代金は受け取れません」 「う~ん。分かった。じゃああの踊り子のお兄さんの投げ銭にするから、ダント、また一緒に観に行ってくれる?」 「…っ」  黙られるのは慣れた。踊り子に対する眼差しを見ても悪い話だとは思えなかった。 「抱っこねだらないから…」  癒した腰にまた触れようとすると避けられる。 「あれは私が勝手にやっただけです」  潤みの引いて、緊張が解れたらしい顔を見つめて詰め寄る。その分、身を引かれてしまった。 「他の方と行った方が楽しいでしょう。何も私でなくとも…」 「ダントがいいの!」  ダントプントは俯き、ウィンキールは無表情で見下ろしている。 「決まりね!決まりなんだもん。決まりだよ」 「くれぐれも、ダントプントさんを頼みますよん、姫様」  リーネアのほうになど目もくれず、血走った眼をダントプントに注いだまま呟くようにウィンキールは言った。 「神の子」 「姫様呼びも妥協してたのに…ってゆうか何それ?」  ダントプントは疲れていたのか寝てしまった。腹を痛がり魘されているため、臍の辺りに触れると、眉間の皺が和らいだ。安らかな寝顔呼吸を少しの間楽しんでいたが、寝返りをうったのを区切りとし、ダントプントから目を離した。散歩に出て行こうとするとまるで部屋の番付きでもしているかのように立つウィンキールに呼び止められる。 「何故ダントさんにこだわるんですかん?」 「…ダントには明るくて人懐こくて、ちょっと頭悪そうな活発な子が似合うと思うんだけど、どう?」  視界が大きく回った。背中に衝撃が加わった。胸倉を掴まれる。表情のない冷たい色男の顔がリーネアを見下ろす。敵意は久々だった。神経質そうな爪に黄金の瞳が瞠られる。頬が吊り上がる。頭の中を何度も叩かれているような感覚がした。真っ白な指先から真っ白な鋭い爪が伸びた。 ――敵ならば殺せ!  命令されている。荒れ狂いながら鳴り響いている。真っ白な鱗を持つだけの爬虫類とそう変わらない雰囲気を漂わせるリーネアにウィンキールはまるで臆した様子がなかった。 「化物め」  吐き捨てられた言葉に、一瞬視界が真っ赤になった。だが何も傷付けてはいない。まだダントプントがリーネアよりずっと小さい頃に言われたことを思い出す。すると途端に爪は元に戻り、頭の中の警鐘にも似た殴打は止む。吊り上がった頬も均されていく。 「いいんだよ、かわいいから。ほら、ぼく…かわいいでしょ?小憎らしいくらいに」  舌打ちが聞こえた。  外へ出て、通りを歩く。もうすぐで空は濃紺に呑まれる。疎らに飾られた緑の奥に明かりが灯っている。キッチンの窓が並ぶ小道を抜けていると、魚の出汁が効いているスープや焼けた香草と肉、小麦の匂いがした。住宅地を出て広場裏のすぐ脇には海水が打つ歩道を歩いた。遠くに山の斜面が見え、疎らに生えたレモンの木々が見えた。麓に点々と小さな村が見えた。険しい岩肌に波が打ち付け、白く爆ぜていた。両手の親指と人差し指で、絵画が嵌められているような額縁の形を作ると、指で囲われた空間に収めてみる。広場の脇に伸びるこの道を、そのまま広場に向かって進むと、建物の裏口脇に置かれた木箱の上に銀髪の青年が座り海を眺めていた。リーネアが近付いても、気付く様子はない。紅い瞳を細めて、緋色が呑まれていく海の果てをじっと見つめている。 「おにいさん」 「どわわ!」  飛ぶかと思うほど身体を跳ねさせて、木箱が軋んだ。 「海沿いは危ないって言われてるデショ?帰ろうネ」  銀髪の青年は平服から手巾(ハンカチーフ)を取り出すと、リーネアの鼻に当てた。 「あげるヨ。貰い物だから気にしないデ」  柔らかな繊維が鼻の下を拭う。レモンと同じ色をした糸で縁取られた綿が赤く染まる。鼻血が出ていた。 「だから早く帰ろうナ。ママかパパか、お兄ちゃんと観においでネ!」  ニット帽の上に手を置かれる。硬い掌をしていた。 「おにいさんも危ないよ。海の機嫌なんてすぐに変わっちゃうんだから」  海に向けていた、ダントプントと同じ種類の眼差しが幾分優しくなって、微笑む。 「そうだネ!じゃあ広場まで一緒に行こうヨ!」  銀髪の青年はひょいと木箱から下りて、リーネアの小さな手を取った。小麦色の掌で指先を挟まれる。 「手、冷たいネ…手の冷たい子は厳しさを知ってる優しい子なんだってボクの父ちゃんが言ってたんダ」  両の掌で真っ白な手に体温を分けられる。だがリーネアには分からなかった。手を繋がれて広場の脇へ出る。 「昨日は来てくれてありがとナ!」  広場の中程で銀髪の青年はリーネアの正面に回り、目線を合わせて屈み込む。 「分かったの?」 「うん、舞台から見えてたヨ。嬉しかったナ」 「ぼくたちそんな目立ってたかな?」 「観に来てくれた人みんな覚えてるからボク!あ、でも別に手を抜いてるとかじゃないヨ!」  へへへと銀髪の青年は朗らかに笑った。舞台の上に立っている時よりも幼く無防備だ。 「お兄ちゃんにもよろしくネ!」 「うん。また観に行くよ」 「楽しみにしててナ」  笑うとさらにあどけなかった。潮風が銀の毛先を揺らす。何もかもが穏やかだった。血の滲んだみたいな瞳もまるで桜桃(さくらんぼ)だった。 「じゃあね」 「気を付けて」  銀髪の青年が手を振った。  宿に戻り、階段を上がった最奥の部屋を借りていたが、廊下にウィンキールはいなかった。扉を開けると暗くも青い室内に廊下の光が射し込む。ダントプントが眠るベッドに腰掛けているウィンキールは全くリーネアが戻ってきたことに意識を持たなかった。掛け布を抱き込み、背を丸める姿を熱心に眺めていた。今にも食べてしまうのではないかと思うほどだった。握ったままの手巾を広げて、窓に透かす。小さな汚れが不思議だった。身体から出たものだ。 「う、…ん…」  ダントプントが呻いて寝返りをうつ。神経質な彼は人の気配を感じてしまうと寝づらいようだった。ウィンキールは気付いているのかいないのか、獲物を探し出し、捕らえんとしている。長い指がダントプントの火傷痕に覆われた頬に触れる。呼吸が一度乱れ、またシーツが鳴った。ウィンキールは手を引いた。リーネアが振り向くと、眼鏡の無い素顔が見えた。眉間の皺は寄ったままだが、幾分温和な印象があった。腕が顔を隠す。本人は寝ているが、見るなということらしかった。リーネアは再び窓へ手巾を透かす。湯を浴びる時に一緒に洗うことにした。レモンとその白い花、そして若い葉の3つのモチーフが小さく纏められて隅に刺繍されている。子供らしくもあり、少女が好みそうでもあり、女性が持ち歩いていそうでもあった。大人の男が持っているには不釣り合いだったが、その不釣り合いさとこの手巾の控えめながらも陽気な色合いがあの青年らしかった。  湯を浴びて廊下を歩く。ダントプントは眠ったままだったため今日は広場に行かなかった。濡れても真っ白いままの髪を拭きながら部屋の扉に手を掛ける。このやどにまで届いた広場の音楽が頭にこびりついて鼻歌で歌っていた。 『やめてくれ!よしてくれ…!』 『そんな身体で?そんな身体であの踊り子がいいって言うんです?』 『何故あの踊り子が出てくる?彼は関係ない…!』  錆びか塗装が剥げているのか黒ずんだ金色のドアノブから手を引いた。喧嘩にも思たが、ウィンキールは陰険さを隠しもしないが落ち着いている。リーネアはどうしようかと突っ立ったまま扉の木目と睨み合う。 『嘘です。分かりますよ。姫様に広場へ誘われた時、どんなカオしてたか自覚もない?』  雲行きが怪しくなった。だがウィンキールの髪色よりも青みの強い扉の木目が留(と)め立てしてみえた。 『オレの気持ち、気付いてますよね?だって貴方は何だって受け入れてくれる…それでもずっと手も出さず見守ってきたオレの苦しみが、分かりますか?』 『知らない…何も君からは…言われてなんて…』 『おや、言わせたいんです?』 『やめろ…いい…言うな…何も…もうやめてくれ、うんざりだ…』  ダントプントの言葉は震えていた。湯を浴びたばかりの身体がふっと下から一瞬の風に煽られたような気がして、銀髪の青年から体温を指摘されたことを思い出す。 『もう誰とも寝ない…手引きしたのは君なんだろう…?やめてくれ…!』 『下手に娼婦でも買われたり、男娼にでもなられたら困りますからね?尤も、貴方が女を抱けるだなんて微塵も思っていませんが…』 『やめろ!聞きたくない!』  リーネアはドアノブを捻った。悲痛さを帯びた声が止む。 「いや~、いい湯だったな。船内の狭い浴槽じゃあね~?」  室内は暗いままだった。広場の演奏が流れていく。 「それは意見書を出すべき案件ですねぇ?」  嫌味な色を持ってウィンキールは投げやりに口にした。クレシエンテ号には、リーネアのためだけに、国の発明家が作った造水器と呼ばれる器具が取り付けられ、少量ならば海水を真水にすることが出来た。リーネアの飲み水も身を清める水もそれから作られていた。 「ダント大丈夫?結構寝ちゃってたけど夜寝られる?」 「…ええ。ご心配なく」  ウィンキールのいるほうから身体を背け、壁のほうへ向けてベッドに座っている。 「守神が猿芝居なんてやめてくださいよん?聞いてましたよねん?さっきの話」  ダントプントがリーネアを見た。2人の視線を背に浴びたままリーネアは石鹸で洗った手巾を目の前に広げ、窓の奥の光に透かす。小さな汚れは綺麗に落ちていて、あの汚れは幻覚にすら思えた。 「あの踊り子がいいって話?」 「なっ…」  ウィンキールの何かの誘導の入口に乗ったくせ、話を振った本人はあからさまに顔を顰める。ダントプントは青暗い室内で顔を真っ赤にした。 「あの踊り子やっぱりいいよね。踊ってる時もいいけどぼくは舞台から降りてる時の子供っぽい顔のほうが好きだな」  手巾を見上げる。良くも悪くも2人にとっては的外れな返答だったらしい。 「では、僕は行きますよ」  ウィンキールは苛々していた。部屋から出て行ってしまったが、浴場か賭場かまたどこか娯楽のある場所だろう。 「…ッ」  ダントプントはリーネアの小さな背を狼狽えながら見ていた。 「仲悪いの?」 「…いいえ…」 「ふぅん」  濡れた手巾を引っ掛けられそうなところを探して乾かす。 「あの…先程の話ですが…聞いていたなら、忘れてください」 「うん、分かった。でもダントが思い出せって言うなら思い出すね」  ベッドに寝転がる。首を曲げて項垂れた広い背中を確認する。広場の演奏が終わった。吐息まで聞こえそうな静寂が訪れる。 「そうしてください…」  沈んだ声だった。窓から射し込む光には届かず、リーネアの視界にはきちんと映っているくせ、青い暗闇に溶けていきそうだ。 「ダント」 「…はい?」 「よかった、いた」  けたけた笑ってシーツを蹴る。また演奏が始まった。 「なんですか…」 「なんでもない。暗闇に溶けちゃったかと思った」 「…貴方も、射し込む光で透けそうですよ」  肩越しにダントプントは横顔を向ける。会話はなくなった。緩やかな演奏が流れて、静かに終わっていく。沈黙が心地良かった。初めてダントプントを認識した小さな時分から随分と静かだった。弱ったカラスに喚き立てることもなかった。 「明日の夕方、付き合ってよ」 「…夕方ですか?…何か用事でも?」 「うん!」 「…分かりました」  消え入りそうな了承だったがリーネアは、笑って、また不思議と柔らかな感触に包まれて瞼が閉じてしまった。 ◇  日が暮れはじめ、リーネアは急ぎ足で宿に戻った。ダントプントと出掛けるのだ!けれど、窓付近だけが赤みを帯びた、暗い室内だった。誰もいない。 「ダント?」  遅れてやってきたウィンキールは入口で立ち止まったリーネアを追い越して部屋に入った。ダントプントが不在であることに大した関心はないようだった。ベッドサイドチェストに置いた、畳んでおいた手巾(ハンカチーフ)を手に取る。返しに行きたかった。目を伏せる。1人でも行けた。だがリーネアはダントプントと共に行きたかったのだ。 「ダントさんなら、多分郊外の賭場にいますよん?」  部屋の出入り口付近が余程好きなのかウィンキールはよくそこに立っていた。壁に寄りかかって長い脚を交差させ、腕を組んで相手を観察していることを隠しもしないのだ。 「約束、忘れてるのかな」  怒りはない。落胆もない。分かっていることだ。ダントプントに内容は告げておらず、もともと好意を抱かれていないのだ。忘れられても仕方がない。 「迎えに行ってみたらどうですん?なんなら案内しますよん?」 「いいよ。ダントに必要なのはぼくといる時間じゃないんだよ」  手巾を摘んで肩を竦める。畳んだ小さな布はひらりと広がった。 「意外と、貴方の癒しの力を必要としているかも知れませんよん?」 「だったら言うでしょ、よっぽどならね」 「あの意地っ張りなお兄様が素直に言うワケないと思いますけどねぇ?」 「ぼくは甘やかさないよ。本当のお願いなら口にしなきゃ」  レモンと花と葉の刺繍を眺める。 「慚愧(ざんき)唱名(しょうみょう)加持(かじ)心願(しんがん)みたいに?」 「は?何?それ」  ウィンキールは鼻で笑い、リーネアもまた目元を眇めて口角を上げる。 「神の子なら義兄(にい)さんを助けてよ」  壁から背が離れ、衣服や髪や生成りのリボンまでが音を立てる。しなやかな華奢ではないくせしなやかに均整のとれた痩身がリーネアに向く。(へりくだ)りも嘲りもない、真剣な、対等な立場にある者と対している態度だった。 「身に覚えがないね」 「神の子なら何だって分かるだろ?」 「知ろうと思わなきゃ分からないよ。それにぼく、今は人間の子供だから。見てわかるでしょ、かわいいかわいい美少年でしかないじゃん」  空色の瞳がリーネアを睨む。 「悪事を働いた人間に差し伸べる手はないと。救ってほしいのはオレじゃないんだけどな?」 「そんなこと言って。やだなぁ、こういう人。その例のお義兄さんを助けたらコックさんを救うことになっちゃうんじゃん」 「隣人(たにん)を救うため善良であれとは、よく言ったもんだ」 「ははは、やだな。どこの教義(ルール)かな。やめてよ。ぼくにそんな狂人結社染みた話、しないでよ」  刺繍を飽きもせず眺めた。汚れた箇所をもう一度確認する。 「…なるほど。姫様が否定しても、あんたはオレにとっちゃ守神以上に神様だ。進むべき道が決まりました…感謝しますよん?」  ウィンキールはまるで痙攣を起こしたかのように笑って、肩を落としながら部屋を出ていった。リーネアは刺繍から目を離し、窓のずっと遠くへ目を凝らしていた。

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