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第5話

 ダントプントは静かにベッドに座り続け、何度かリーネアを確認して何か問いたげだったが結局何も訊かずに揃えた膝に俯いてしまう。リーネアはダントプントのすぐ傍で仰向けになっていた。飽くことなく広く厚い背中を眺める。その視線がむず痒いのか、ダントプントがまた振り返った。 「彼は、どうしたんですか…?」 「彼…?っていうとおにいさん?それとも"2番目のお兄様"?」  ダントプントは曲げたままの首を戻そうとしたが、留まってリーネアを向いたまま、あのコックのことです…と小声で言った。 「ダントがいないなら帰ってこないってさ」 「貴方にこんなことを訊くのは間違っていますが…その…怒っていましたか…?」 「怒って……ないんじゃないかな。でもお酒臭かった。あとあれは草焚いてアガっちゃうやつの匂い。あと多分女の人の匂いだね、あれは」 「そ…うですか」  落ち着きなく翠の瞳を彷徨わせていた。 「それよりさ、踊り子のおにいさんのとこ泊まったの?おうちどんなとこ?」  ダントプントは焦った様子で荒れた唇を舐めた。思い詰めて定まった翠の行く先は煤けた絨毯だ。リーネアの問いなど聞いていないようだった。唇を(しき)りに気にした。この地は少し乾燥している。 「ダント?」 「っ…、ああ、すみません…何でした?」 「ううん。何でもない。ちゃんと休めた?もう寝る?」 「大丈夫です。心配おかけしましたね」  リーネアは起き上がってダントプントの翠玉を捉えた。ダントプントもまたリーネアの猫のような煌めいた金眼を捉えていたが、負けを認めたかのように逸らされていく。 「心配なんてしてないよ。だってあのおにいさんだもん。ちょっと変だけどいい人だったね」  ゆっくり首を縦に振るのを見て、胸の辺りに何か沁みて広がる心地がしリーネアはダントプントの背中にしがみついた。この肉体に触れていなければ、胸の滲んでいく感覚が治まらない気がした。 「どうしました」 「ううん。ダントが帰ってきてくれてよかったなぁって。でもさ、ダントは大丈夫なの?コックさんと一緒にいられる?」 「はい。すみません。俺が貴方を引っ張ってきたのに…彼と2人きりでいると何を話していいのか分からなくてなってしまって…」  ダントプントはリーネアを突き離すことなく、しがみついていることを赦していた。だからその腕を放すのだった。 「何か話さないといけないの?ぼくはダントとなら、静かな時間も退屈しない」 「貴方と俺の間には何も無いからですよ…」  呆れたように諦めたように溜息混じりの声が消えていく。長く濃い睫毛を眺めているとリーネアは暴れだしたい気分だった。しかしそれはダントプントを傷付け、脅したいものではなく。 「じゃあそれなら、何も無いほうがいいや」  ベッドから降り、腰掛けているダントプントの真正面に立つ。何度も舐められ、()まれたために荒れている唇へ指を伸ばす。 「乾燥してるね、ここは。海の上より?」  口元を拭う仕草にリーネアは何かがまた頭の中で暴れ出しそうな気がした。しかしやはりそれもダントプントに対する攻撃的なものではなかった。全力で外へと駆け出し、何かたとえばあの踊り子が歌っていた歌を大声で叫んで街中を駆け回りたいような。(なお)された唇を短く切り揃えられた爪がなぞっていく。首を絞められたような気分になるというのに見ないでいられずリーネアはその指先が口角にたどり着いくまで追っていた。 「俺が帰ってきたと、明日会ったら伝えてくれますか」 「うん」 「それから…俺が破った約束、今からでも埋め合わせさせていただけませんか」  窺うように長い睫毛の奥で翠がリーネアの前に揺らめく。触れたばかりの潤った唇が照っていた。 「ダントぉ。いいんだよ。ぼくはね、君の真面目なところとてもダントだなって思うけど、それで自分のこと蔑ろにしてるのはさ、なんか胸がキュッてなる」 「ですが…」 「場所が変わって慣れない人と一緒の夜、ちゃんと休めたと思えないけど?」 「…これでも長くあの船に乗っているんです」 「それにあのおにいさんと一緒だしね」  他意はなかったが、ダントプントは口を開いたり閉じたり忙しかった。 「彼が言っていたことは、その…あまり本気にしなくて、いいんですよ」 「なにそれ?」 「……あの、踊り子の…話ですよ…」 「ごめん、忘れちゃった」  肩を竦めてリーネアは自身のベッドへ乗った。忘れてくださいと言われた話題があったような気がしたが、思い出せたのはそこまでだった。 「今日は隣にダントがいる。それでぼくはいいんだよ。終わった約束なんてどうだって。あの時くれたパンでぼくはこれからのことも全部埋め合わされた気でいるんだから」 「また訳の分からないことを…」  ベッドに横になってダントプントの項垂れた後ろ姿をまた違った角度から見ていた。 ◇  隣の寝息を聞きながらリーネアはベッドから背を剥がした。やっと寝落ちたらしい。それまでは真っ暗な部屋でじっとベッドに腰掛けたまま項垂れていた。  外を出歩くには暗かったが月明かりは強かった。乱れた掛け布を直したかったが近付くと目覚めてしまうことを知っていた。人っ子ひとりいない通りの真ん中に立ち星が輝く天を仰ぐ。リーネアの瞳が光り、瞳子(どうし)の奥で炎が上がる。眼球が真上へ引っ張られながら白目を剥き、身体を熱く射抜かれたような感覚に苛まれる。小さな灯りがよく目立つ街を見上げた光景が脳内に描かれて、急降下していく。葡萄の絵が彫られた小さな看板が掛けられた民家の屋根を突き破り、栗色の髪をした男がベッドの上で女を揺さぶっている。ぷつりとその光景が途切れ、石畳に鼻血が落ちる。衣類についていないかリーネアは鼻を押さえながら確認した。ウィンキールのいる民家を探しに色町へと進んでいった。鼻血が止まると鼻の下を乱暴に拭った。大きくカーブした道で葡萄の絵の看板を探す。2階の部屋はどこも薄明かりが点き、おそらく今の時間帯は小さなこの区画が大きな街のどこよりも明るいようだ。葡萄が描かれた薄い金属板をやっと見つける。 「コックさん!」  扉を叩く。静まり返った街に大きく響いた。裏側に付いているらしい呼び鈴が鳴る。 「コックさぁん。コックさん!コックさんん~」  扉を叩き続ける。奥から物音がした。鈴が鳴る。風を感じ、リーネアのニット帽の下の白い毛が小さく揺れる。バニラの甘い香りがした。そして煙草の酸味を含んだ苦味のある匂いが襲う。鼻の奥を突き刺さすような匂いは酒だ。空色の双眸が虚ろにリーネアの真上を通過した。扉が閉められそうになってリーネアは割り込んだ。重くなった木板に、栗色の癖毛をだらんと垂らした半裸の男は視線を下に移す。肩からウェーブした毛束が落ちる。レストランでよく漂っていたコーヒーの匂いもした。だが少し種類の違うものだ。焦点の定まらない空色がリーネアを黙って見ている。唇に挟んだ葉巻を摘んで、煙が抜けていく。  ちょっと、だぁれ?  女の声がした。普段から身形に隙のないウィンキールの新しい姿をリーネアもまた黙って眺める。ウィンキールに隠れてしまっている沈黙した来客を女は覗こうと身体を揺らす。  ちょっと、聞いてるの?友達? 「ああ。妹…」  低く嗄れた声が煙を吐きながら怠そうに言った。 「コックさぁん」  白い顎を掴まれ、揺さぶられた。空色の瞳は飛び回る羽虫を追っているような、いつでも殺せるといった無関心さを持っていた。 「妹。妹さ…それ以外に何がある?娘か?残念ながらオレは育ちが遅かったんだ…」  自身の体重も支えられないほどのようでドア枠や壁に寄りかかり、呂律は回らずどこを見ているかも分からなかった。  あんた妹なんていたの? 「オレに兄妹なんていたか?いなかったさ…」  ニット帽越しに頭を掴まれ、扉に引き入れられる。首の骨を折るような勢いで、リーネアは転びそうになった。薄着の女がリーネアに近付いた。大きく開いた胸元や首に沢山の小さく赤い痣が浮かぶ。わぁ、かわいい!全然似てないんだ。女はリーネアを眺める。 「コックさん…」  女はコックさん?と気怠そうなウィンキールを見た。 「コックさんだと思ってるのさ、気が触れてるんだよ。そうだ、気の触れた一家なんだ…」 「帰るよ、ほら」  リーネアはウィンキールの手を掴もうとしたが避けられてしまった。ウィンキールは頭を押さえて、酒とコーヒーと煙草の匂いを漂わせる。バニラの甘い香りが消えていくが確かにその中に混じっていた。 「女を知らないのさ。気が触れてるんだから…」  壁に凭れ、くっくっ…とウィンキールはひとりで笑った。波打った長い髪が揺れる。 「コックさん…?」 「オレはコックか?違うな?じゃあなんだ…この前までは国立図書館の司書だったな?その前は?貿易商の組合員だ。その前の前は…?オレはなんだ?コックか?」  ごめんね、酔っ払ってるから。  女はリーネアの肩に触れた。リーネアはうん、と頷いて女の痣ひとつひとつに触れた。突然触れられたことに怒るでもなく女は愛想が良かった。いくつもの小さな痣が消えていく。 「かわいいかわいいお姫様…」  ウィンキールは押し殺しきれていない笑い声ををやめ、女といるリーネアに近付いた。 「こいつはな、化け物のお姫様なんだよ。気が触れてるんだ。盗賊と淫売の妹なんだよ、気が触れて当然だ。ああ、淫売はお前もだった」  ウィンキールはまた笑った。 「娼婦ほど優しい人間はいないな?娼婦ほど優しい人間はいない」  近くにあった大きなテーブルに置かれた酒瓶を呷って2階へと上がっていってしまう。女の表情は固まっていたが、リーネアはウィンキールを追った。リーネアに背を向け、履いていた物を脱ぐところだった。全て露わになった引き締まった肉体が、シーツの乱れて皺が寄ったベッドへ横たわる。 「…金か。あるぞ」  枕にブラウンの髪が広がり、リーネアは虚ろな顔の見える位置で床に座った。今すぐにでも寝るつもりらしく、瞼が閉じる。甘えたような溶けた声で問われ、リーネアは首を傾げた。 「金?なんの?」 「賤しい人間どもの薄汚い生臭交尾(なまぐさセックス)でもしていったらいい…」  寝返りをうって、リーネアに後姿を見せた。物音を立てないように立ち上がり、その無防備な裸体を見下ろした。白い指を伸ばす。しかし、触れる寸前で、鍛えられた腕に弾かれた。女が2階へ戻ってきた。リーネアと寝てしまったウィンキールを交互に見てからリーネアにどうするのか暗黙の選択を迫る。 「生臭交尾って何?」 「そいつの相手してやってくれ…」  女は眉を顰めた。女の相手は出来ないんだけど。女はウィンキールを睨む。 「脱がしてみれば分かるさ…」 「生臭交尾、今日はやめとくよ。ダント帰ってきたから呼び戻しにきたのに、明日にしておけばよかったな~」  そう告げるとベッドが大きく軋んで、ココナッツの匂いに混じった酒だの煙草だのコーヒーだの香りがした。顔面に纏わりつく長い髪を掻き上げて、ベッドから下りると衣類を着始め、掴めるだけの硬貨をベッドへ投げ捨てた。小さな金属は音を立てシーツに散らばったり床に落ちたりした。非難の声も構わず、ウィンキールは部屋を飛び出していく。擦り切れた絨毯に落ちたままの生成色のリボンを拾い上げ、リーネアもついていった。 「おねえさん…じゃあね、おやすみ!」  女はウィンキールが出て行くまで目で追った後、次にはリーネアをまた目で追った。  ふらふらとした足取りのウィンキールは歩いて追えた。小さな公園に入っていき、石像に手を着いて、口元に手を当てた。近付いて肩に手を置こうとするとやはり払われた。 「酔うの、気持ち悪いでしょ」 「酔うために飲んでるんですからねぇ…?」  振り返ったウィンキールは深い息を繰り返し、真っ白な顔をしていた。空色の双眸は何度もリーネアに焦点を合わせようとするが虚空へ戻ってしまっていた。 「ねぇ」 「…なんですか、ありがたい説教でもしてくれるんですかん?」 「コックさんってただの雇われた人じゃないよね。前は軍人さん?潜入監査の人?」  口元に手を当て下を向いているが、吐こうとしても何も出てこないらしかった。 「…なんだと思いますん?」 「例の義兄さんを追ってきちゃった迷子」  ウェーブした長い髪がカーテンのようにリーネアから表情を隠した。栗色の毛先が揺れるたびに甘い匂いが淡く漂った。 「これでもね、信じてたんですよん?」 「何を?」 「何を…って…神ですよ、神。これからきっと義兄(あに)が犯す罪を赦してほしいと願ったりもしましたね」  ぐふ、と噎せてウィンキールは膝を折る。呼吸を乱して吐き出そうとしているが、やはり何も吐きはしなかった。 「でもコックさんさ…」 「その通りですよん、オレは賊です。卑下も揶揄もない」  額を押さえて顔を上げる。呼吸はまだ整っていなかった。吐気はあるが吐けないらしく頻りに息を詰まらせた。 「皮肉にも義兄のいた海はろくな情報が入ってきやしませんからね。義兄はオレがどんな悪者に身を堕としてるかも知らないんですよん?」 「この街にも何か、いいものある?」 「ええ、ありましたねん。どうします、姫様。オレを捕らえます?」  濡れた唇を拭う。自身の酒臭さにまた酔っているように思われた。普段から海上生活で酒には慣れているはずだったが、かなり酔っているところから強いものを大量に摂取したようだ。返事はしないでいた。 「略奪されたやつにしか分からないものってあるんですよん?貴方には分からない分野かも知れませけどねぇ?略奪する側に回りたくなるんですよ。奪われた時に怪物を植え付けられるんです」  髪を結ぼうと後ろへ束ねたが、リボンを忘れたことに気付いたウィンキールへ拾ったリボンを渡す。 「喋りすぎましたねん?深酒はこれだからいけない…」 「あと煙草(えんそう)燃やすのとコーヒーもやめたら。それから裸の女の人も」 「娼婦はやめたら死人が転がるんじゃないですかん。まぁやめますよ。ひとりじゃ寝られないなんて歳でもないですからねぇ?」  リーネアはウィンキールを見ていた。言ってしまってからばつが悪そうに口元をまた拭った。真っ直ぐに歩けず、出歩いている人の全くいない道を左右に大きく揺れたり、民家の壁に激突しながら宿へと戻る。公園を抜けた辺りから遠くで星空に吸い込まれるような歌声が聞こえた。段々と近付いてきていた。歌声が近付き、先を危うげに歩くウィンキールもまた歌声に吸い寄せられている。歌が近付いて、透き通った裏声が歌う異言語が聞き取れるほどにまでなると、ウィンキールは踵を返しリーネアと対峙した。 「なっ…」  地面を蹴って、酔っ払いはリーネアの目の前に迫ると一瞬にして口元を覆って後ろから抱き竦め、歌声と民家の壁を隔てた。 『何も喋るな』  バニラの香りとその他異臭に包まれる。リーネアは頷いた。 「大丈夫だヨ。きっと見つかるんだから」  歌声がやんだ。歌声の主は1人でなかったらしい。リーネアの口元を覆う冷たい手が震えている。 「ええ…でも…俺が寝てしまったから…目を離さなければよかったんです。…ごめんなさい。また君に迷惑をかけてしまう」 「ううん、全然迷惑なんてかけられてないヨ。それにボク…不謹慎だけど、…またあなたに会えて嬉しい、から。ごめん、ごめんなさい。あなたはこんなにも大変なのに」  ダントプントの声にリーネアの身動ぎ、背後から強い力で押さえ込まれる。 「ありがとう…ございます」  沈んだ声に、リーネアはすぐにでも姿を現したかったが叶わなかった。 「ダントお兄さん。顔を上げて。前を向いて。またあのおまじない、してもいい?」  ウィンキールの震えて汗ばんだ、冷たい掌がリーネアから離れた。 「ダントさん?」  リーネアよりはやくウィンキールは壁から出ていった。 「…っ君は…すまない。リーネア様を探して…」  ウィンキールの後からリーネアも出て行くとダントプントは言葉を切った。 「リーネアさん!」  枸椽の木が1本植えられた花壇に座っていたダントプントの足元に跪き、手を取るヒュインが立ち上がった。 「帰りましょん?」 「……こちらは、」  先程まで呂律の回っていなかった低い声はしっかりしていた。ダントプントはヒュインを紹介しようとしていたが、ヒュインが、「いいんですヨ」と笑い、それから「じゃあまた明後日」とさらに輝かしい笑みを咲かせて去っていく。リーネアの真横を通り過ぎ、おやすみなさいネと朗らかに残した。爽やかな柑橘の香りとともに。ヒュインの小さくなっていく背を暫く見ていた。それからダントプントへ向き直ったが、ウィンキールに腕を掴まれ引かれていく。何度もダントプントはリーネアを振り返って確認する。2人は無言だった。ウィンキールは真っ直ぐ歩いていた。  宿の部屋の扉を潜ると、ウィンキールが乱暴にダントプントを投げ捨てるようにベッドへ突き飛ばした。リーネアは静かに扉を閉める。 「また明後日ですって?一体何をするんでしょうねぇ?」  倒れたダントプントへ馬乗りになり、ベッドが険しい音を立てた。 「…乱暴は、よせ…」  ウィンキールは衣類を脱ぎだす。怯えきった目がリーネアを見て、閉じられていく。 「神様が見ているから?」 「彼の前で…そんな…出来るわけない…」 「意味なんて分かっちゃいませんよ」  リーネアは扉のすぐ傍、ウィンキールがよく居た場所に立ち尽くす。 「分かりませんよ。化け物なんかには。ねぇ、そうでしょう…?」  肌を晒していく腕をダントプントは掴んだ。上半身裸のウィンキールは首が折れたようにがくりとリーネアを振り返って訊ねる。 「化け物…?口が過ぎるぞ…んっ、ん…」 「化け物ですよ。でなきゃ怪物だ…」  指を口に挿し込まれダントプントの声は呑み込まされた。 「貴方にはどう見えます?汚いですか。行く先に生産性のないセックスは。冒涜的ですか。愚弄された気分ですか。神々の意に反していますか」  厚い胸板を撫で回されて、ウィンキールの問いの奥でダントプントは小さく鳴いた。 「ぼく、何のことだか…それって、ぼくが決めること、なの…?」  壁に背を預けて、両腕で身体を抱く。空色のぎらついた眼差しに縛り付けられた気分になった。ダントプントの口腔を弄ぶ水音が暗い部屋を支配する。 「貴方の意思を知りたいんですよ、姫様」 「あっ…ぁ…ぅ、」 「ダント…?」  リーネアはウィンキールの空色から逃れたくなった。壁伝いに背が滑る。か細い声と水音に、耳の裏がわんわんとうるさくなった。 「分かんない…」  考えようとしたが耳鳴りに阻まれる。背中が濡れたような、湿気を持ち始める。一部は暑く蒸れているというのに指先は動かず、膝は今にも砕けそうだった。やっと絞り出せた言葉にウィンキールは興味を失ったらしく、呻く獲物だけに集中した。  大きく背を丸め2人の唇が重なった。だがダントプントによってすぐに拒まれる。 「ぅ、…ん、ンっ、だめ、だ…」 「オレはずっとね、我慢してたんです。一線だけは越えないように、ってね。嬲られて輪姦(マワ)されて、劣情に苛まれるあんたを見ても、我慢してたんですよ」 「言う、な…」  リーネアは煤けた絨毯に尻をつけて、ベッドの上のやり取りを呆然と眺めていた。窓ガラスが無色透明なものによって軽快に殴られる。ダントプントもウィンキールも、そしてリーネアも全く取るに足らないことだった。月の光は呑まれ、無音にも似た落ち着いた雨音に包まれていく。 「あっ、あぐぅ、……っく!」 「見せてやりたかったな、姫様に。この下のお口で撞球に耽る姿を」  リーネアはぐったりと床に座り込んで、肩に頭を預けていた。脳裏は真っ白く塗り潰されていた。だがウィンキールの言葉を拾うと、まるでその場にいたかのように、撞球台の上に手足を拘束されたダントプントが乗せられている様がありありと浮かんだ。長い棒に括り付けられた両手は抵抗を許さず、大股を開かされ膝裏にも長い棒を通された下半身は臀部を大きく晒していた。勃ち上がった陰茎のすぐ真下に女性器と見紛うほど大きな襞がついている。蠢いて、内部の肉が露出し数字の描かれた球を吐き出す。布の張られた台の上に球は落ち、何らかの液体に塗れているために照っていた。またひとつ、球が落ちる。歓声が上がった。面白がった者たちがダントプントの臀部を撫で、それから吐き出した球を捲れた後孔へ押し込んでいく。1つ2つを難無く受け入れ、3つめが入り、4つめでダントプントが呻くと無理矢理に押し込み、だが弾かれて球は台の上を転がった。身を痙攣らせ、腹をうねらせて2つの球を吐いていく。残りの1つが出せず、無骨な男の手が花弁に呑まれていった。腹の内部を男の大きな手が掻き混ぜて、ダントプントは大きく悶えて意識を手放す。男たちの声がやかましかった。 「あっ、あっ…ぁひ、ひ…」  妄想とも思えた虚構の中でも聞いた喘鳴に意識を引き戻される。 「こんな…売春婦みたいな…」 「あっ、ぅあ、あ…あ…」 「聡明なお顔の下に、こんな淫らな唇があるだなんて誰が想像出来るんでしょうね?」  ぐち、ぐちゃ…くちゅん…  外の大雨とは全く違う音だった。ウィンキールの手首までが、妄想だと信じていた脳裏に留まる光景と同じ花弁に呑まれていた。組み敷かれた人間ががくがくと震えているためにベッドが小刻みに悲鳴を上げる。 「あの男にも見せたんですか、こんなやらしい下のお口を。あの態度は何もなかったと思っていいんですかね?貴方を愛しちゃくれないですよ、あの踊り子は」  涎を垂らしながらダントプントはウィンキールの手に縋った。叱られて親の機嫌をとろうとする幼子のようだった。ひっ、ひっと痙攣するたびに翠が歪む。糸が切れた操り人形のようにリーネアはぐしゃりとしした体勢でそれらを見つめた。力が入らなかった。立とうとする気も意味も見出せず、腹部の内側を暴かれていく昔馴染みの肉体を視界に留めていた。靄がかかり、霧の奥へと引き込まれ、霞んだ。  また脳裏にリーネアの与り知らない光景が浮かんだ。暗い路地を壁伝いに身を引き摺って歩くダントプントに、銀髪のみすぼらしい平服の好青年が行く先を塞いだ。昨晩のことだ。昨晩、リーネアがウィンキールの元に行った時のことだった。  リーネアの瞳は暗闇のネコやフクロウのように円く光る。ベッドの上のダントプントと同じく口から涎を垂らし、鼻血が溢れ、目頭と眦から真っ赤な涙が流れ出た。大雨の音が耳鳴りへと変わる。  リーネアの頭の中には、色町に隣接した通りが広がった。みすぼらしい銀髪の青年を避けながら進んでいくダントプントの行く道を塞いだ。  ダントお兄さん…?  みすぼらしい身形の踊り子の確認に、目元を覆ってしゃくるダントプントは何の反応も示さず、その脇を通ろうとした。  泣かないで、お兄さん。  尚もダントプントは粗末な出で立ちの踊り子の脇を取ろうとするが、阻まれた。粗末な衣類に静かに咽ぶ青年は抱き留められる。  離して…っくださ…無理です…っ、帰してくださ…  暴れる身体を踊り子の筋肉のついた細腕が包む込む。  うん、離すヨ。おうち、帰ろうネ。もう無理なら何もしなくていいんだから、だからもう泣かないで。  踊り子は何か液体の乾いたらしきものが付着した黒髪を撫でる。  泣かないで。もう怖くないヨ。ボクが祈るからネ。  みすぼらしい布の中で抑え込まれた嗚咽が木霊した。石畳に膝を着く前に、踊り子のしなやかな身体が、自身よりわずかながらに逞しい肉体を支える。  お兄さんに温かき光をくださいまし…  屈み込んで涙を溢すダントプントの手を取る。手首に大きな痣や擦り傷があり踊り子は清朗な顔を幼くさせた。身を震わせ泣く姿に微笑んで、指に唇を落とす。手の甲と、それから手首の不穏な傷にもキスをした。 「あっ…あ…ん、っぁ!」  ベッドが軋んだ。視界の霞が晴れていくが、大雨の音なのか耳鳴りの音なのか分からない騒音は剥がれることがなかった。ダントプントの息も絶え絶えな様子を思わせる声に、リーネア自身の乱れた喘ぎが混じった。子供たちの投げた石に打たれた時の感覚によく似ていた。あの頃は草の上だった。衣類を身に纏うこともなかった。真っ黒な羽毛に反感を買ったものだった。 「もう"ふつう"じゃ満足出来ないんじゃないんですか?」 「い…やだっ、やめ゛、あぐっ…」  割り開かれた大輪の花のあった箇所はウィンキールの手首をすでに呑み込みきり、肘まで呑もうとして花弁を隠していた。 「あ゛っぎっ……ぁぐ、く…ぅ…ッ」  がくっ、がくっと跳ねる。押さえ込まれ、隣の部屋に構うことのない叫びと物音に一度は雨音が消えた。 「ねぇ、もう"ふつう"じゃないんだから、オレの陰茎(これ)、受け入れちゃくれませんか?」  荒れた息遣い雨音に包まれた部屋でウィンキールの声だけが支配した。一瞬の静寂だった。 「やぁ!やめ…っく、ちで、許っ…」 「無茶ですよ…」 「い、や…だ、め、やめ…お前とはッぁぁぐっ!」 「傷付くなぁ?どれだけ我慢したと思ってるんですか…他の男どもに抱かれてヨガり狂うあんたの淫乱な姿見て、奥までがんがん突かれてイきまくるあんたのだらしない声聞いてさ…!」  肘まで届きはしなかったが、手首を難無く呑み込み途中までの腕を抜かれ、ダントプントの身体は陸に上げられた魚と化してベッドを苛んだ。 「姫様、見ててくださいよ。これがオレが決めた(いきかた)です」 「い゛ぁ゛あぁ゛…見、るなァ、ぁ、あぁあァ、…!」  貫かれたダントプントの裸体がびくびく痙攣し、下半身の重なったウィンキールの生唾を飲む音が聞こえ、リーネアは再び壁に身を委ねた。

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