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第6話

 街のあちこちにある、石像とベンチと花壇があるだけの小さな公園に落ち着きを取り戻したダントプントは引かれていった。貧しげな服装の踊り子は隣に座らず、目の前に跪く。頻繁にそうするのか、踊り子の草臥れた衣は膝部分が擦れ、裾が汚れていた。  落ち着いた…カナ?おうちまで、ひとりで帰れる?  首を振られ、霜柱のような睫毛がぱちぱちと呑気に上下した。  じゃあボクが送るヨ。  結構です。帰りたくないから…  リーネアさんも同じこと言ってたナ…あ  踊り子は口元に手を当てた。俯いていた顔を上げ、子犬の面構えをした男の顔を見た。口を隠す仕草も最後の間の抜けた声もなければダントプントも聞き流していた。  ホントはネ、リーネアさんを送るつもりだったんダ…でもダントお兄さんのこと、放っておけなくて…  何故…俺なんかにそこまで…  踊り子は微笑むだけだった。紅い瞳と目が合うと、翠はふいと逸らす。踊り子は幼い子供のカオをして眉を下げたが、また何もなかったように笑んだ。  この街で誰か泣いてたら、誰だってそうするヨ。それに今、人を食べちゃう海賊さんがいるんだって……  随分と優しいんですね。  鼻声で、さらに嗄れていた。柔らかく夜の公園に溶けていく。踊り子は落ち着きをなくし、立ち上がったりまた跪いたり忙しなく動く。  や、さしくなんて、ない、ヨ!優しい子っていうのは、リーネアさんみたいな人のことをいうんだから!  ダントプントは焦っている踊り子を見て口元を緩めた。唇には血が滲んでいた。  リーネア様とは親しいんですか。  うん。鼻血出しててネ、ハンカチ貸したら、洗って返してくれたんダ。  踊り子は楽しそうに人懐こげな目元を眇め、声音を弾ませた。夜の深い時間帯ということも忘れさせ、晴れやかな昼を思わせる陽気さでリーネアの話をする。  いけませんね…ごめんなさい。血で汚してしまったのなら、新しい物を買って返さなければなりませんでした。  でも洗って返してくれたんダヨ!  いけませんよ、とダントプントは固く首を振る。  今度、お礼をさせてください。  え!いいんだヨ!気にしないでサ!  俺の気が済まないんです。  踊り子は立ち上がったままでいたがゆっくりと跪き直す。おそるおそる翠の双眸を覗き込む。  リーネアさんに、ボクと一緒にいたこと話さないデって言ったノ…。この目、気持ち悪がるから…って。でも、リーネアさんがネ…  先程よりも幾分どこか沈んだ、だが暗くはない調子でまたリーネアとのことを話す。紅い瞳の出自のこと、柘榴と桜桃のこと、その他のこと。  どうして俺が君を気持ち悪がるんです。君こそ…俺が気持ち悪くないんですか…だってこの顔ですよ…?  子犬は下唇を吸うように噛んだ。ダントプントの声が笑っているのか否か、途切れ、震え始める。顔に指を向け、その手もやはり震えていた。  暗闇で見えませんでしたか。  犬は膝や背、首を伸ばして血が滲み乾いた唇へキスした。  見えてるヨ。ダントお兄さんがどんなカオしてるかも見えてる。ボク、目、いいんダ。  踊り子は笑った。ダントプントが驚き、それを見て踊り子自身も何をしたか分かったらしくひとり狂ったように騒ぎはじめた。これは違くて。これは心願のキスで。リーネアさんにもしたんだヨ?頬だけど!親愛の挨拶デ!並べ立て、近くの民家に明かりが灯ると宥められた。 「あっ…アっ、ぅあっ、ん…ッ」 「…あなたと繋がってるってだけで…もう、イきそうですよ…」  大きく開いていた襞がウィンキールの雄茎を食い締めている。 「あ…ぁぐ…ぅ」 「もしかしてオレのだけじゃ足りませんでしたか?」  ダントプントはすでに言語を捨て、ただ呻き、唸り、時折嬌声を混じえるだけだった。 「あっ…ぁっ…あっ、あァ、」  大きく脚を開かされ、深く密着しベッドの木材が慟哭する。雨もまた止むことなく窓を叩く。 「ほら、オレの粗末なモノじゃイけないっていうならせめて前だけでもイってください?」  ウィンキールの左腕が激しく動いた。 「ぁ、ぁんッ、あっ、ァ、ぃっあっあっ…」  高い声が上がった。リーネアは目を瞑る。靄のかかった視界で真っ赤な涙液が滲んだ。白い頬を染めながら滴っていく。脳裏に描かれた、胸を締め付けるくせ苦しくはない感覚を与える姿とは違う目の前の出来事に赤い液体は増すばかりだった。 「イく…、イ、く…イく…出る…っぁ、ああ…」  左腕は勢いを失っていく。くちくち…っと魚卵を潰したような水音と衣摺れの音が微かに聞こえた。 「あんたにぞっこん参ってる姫様も、これじゃあ幻滅しますよ。ね、あなたはオレのところに堕ちてくるしかないんですよ…?」  波打った栗色の毛束が絡む左腕は勢いを失ってもまだ動いていた。果てた後にもまだ刺激を与えられているらしく捕食されている途中の獲物は身をのたうたせて喚く。 「っひ、あっァ、ぁひっ、ィッぎ…」 「このままここにも雨、降らせます?幾日ぶりですか?」 「あっ!やァっぁ、ひっぅあ、あ、あ、あっ…っ、!」  右手も左手に加勢し、ダントプントの腰が浮く。達したばかりの陰茎を強く擦られながら先端部を掌で抉られ続けた。回る長く形の良い指の間から飛沫が上がる。割れた腹筋へ飛び散り、溜まっていく。  ダントプントといる夜は短い気がした。嘘だった。錯覚だった。霧の奥の秘め事が赤黒く染まっていく。銀髪が瑞々しい憫然(びんぜん)たる恰好の子犬じみた青年との、晴れやかな花畑と小鳥の囀りに飛び回る蝶とがよく似合う舞台が消えてしまいそうだった。 「手で擦るから、中に出しますよ?」 「がっぁ、ァぁ…な、か…っ、なか…や…ァ、…ッ」  消えてしまいそうだったものが消えた。リーネアはまた目元から赤い液体を滴らせた。 ◇  雨はやまなかった。6度目の無理矢理な絶頂に泣き喚きながら気絶したダントプントの面倒を看ていたウィンキールによってリーネアも処置をされたが、部屋には居られず、宿の入り口の軒下で階段脇手摺りに座り石畳を打つ白い水飛沫を眺めていた。 「部屋、戻ってくれませんかね?」  煙草を紙で巻いた小さな筒を摘んでウィンキールはリーネアのもとへやってきた。紫煙が薫る。ざーっという雨音は耳鳴りにも思えた。 「煙草燃やす火遊び、やめるんじゃなかったの」 「やめるのは火遊びじゃなくて女遊びでしょう?」  カビ臭さに煙草の燃える匂いが重なった。無数の涙を流す空は深い青に変わっていっている。2人は黙ったまま違うものを見ていた。 「(なお)さないんですか」 「何を…」 「さあ?」  煙を吐くついでといったふうな投げ遣りに問われる。 「コックさんも、さっさとお宝盗みに行ったら?」 「お宝ねぇ?それはこの宿にありますから」 「…あったかなぁ。廊下にあった花瓶とか?階段脇の壺?ゴミ入ってたけど?」  リーネアはウィンキールのほうを見向きもしなかった。ウィンキールもまたリーネアの小さな背中に全く興味がないようだった。 「まぁ、化け物には分かりませんよ」 「うん。化け物には、分からないや」  煙が捲き上る細い吐息は、「そうでしょうね?」とでも言っている。 「どうですか。ご自分の目で見る欲にまみれた陋劣(ろうれつ)極まりない人間どもの生臭(なまぐさ)居住地は。イノシシだのクマだのの居場所を奪って、ネズミばっかり増やして、淫蕩に耽って…お怒りですか」  村人に世間話でもする態度にリーネアは雨から顔を逸らした。良家の子息には見間違えるほどに品のある立姿や優雅な物腰だ。怖ろしい人喰い海賊の一味または帯同している料理人とは思えなかった。 「随分と卑下するじゃん。ぼくらだって自然の一部だろ。こういう生存戦略(いきかた)なんだから、別に怒りはしないんじゃないかな」  目元が膨らんだような感覚があった。ダントプントも小さな公園のベンチに座り踊り子の前で目元を腫らしていた。全くリーネアはその場に居なかったけれど。 「ぼくら?ご冗談を。一体何を企んでるんですかん?貴方みたいな存在って結構色々な調和を乱すと思いませんか」 「それって自然界の人間のこと?やだなぁ。コックさん、自分が何のために生まれたか知ってるの?出てきた腹にでも訊いたの?母胎(ママ)は教えてくれた?」  据わった空色の目が近付いた。瞳孔周りを走る虹彩がはっきりと捉えられるほどだ。白い頭を掴まれていた。 「おめでたい神サマどもは、親は子を無条件に愛するものだと勘違いしてるみたいですけど、案外そうでもないんですよん?」  リーネアは何の返事もしなかった。空色の瞳が細まって、柔らかく薄い頬が上がった。地面に落ちた紙巻き煙草(たばこ)は弱い煙を上げた。 「ありがたいありがたいその神サマのお導きで養父母(おや)がいたことは感謝しますよ。それでもね、死なれたのと捨てられたのじゃ、全く違うんですからね、心持ちは。身勝手で素敵な義兄(あに)をくださった、ただ一点でオレは貴方みたいな怪物も、ひたすら黙ってる神だの罰だのも信じてるんです」 「理想が高いなぁ、コックさんは。手なんて差し伸べちゃくれないよ。人間が弱った生き物助けるのなんかただの投影なんだから。神々(やつら)が弱った人間を自分らと重ね合わせたりなんてすると思う?しないよ。()るとするなら全部気まぐれさ。コックさんは、多分誰より信心深いね。考え直してよ、人間だけの味方じゃないってことも、何かの味方でもないってことも」  肩を竦めるとウィンキールはリーネアの白い頭を鷲掴んでいた手を放した。背を向けられ明るくなるたびに白く現れる大雨のカーテンを共に見ていた。 「馬鹿らしい。何故ここに生きていて、空の花畑で遊んでいる奴等の話なんてしなきゃいけないんだか」 「俗物に溺れるって素敵(さいこー)」  リーネアは何の感慨もなくそう口にした。 「義兄(あに)を救ってくださいよ…」  雨音に消えそうで、しかし聞こえていた。朝日が眩しい。だが雨は降り続いている。 「義兄(あに)が救われるなら、オレは…」 「卑屈で馬鹿だな」  ウィンキールは足音も立てず宿へと入っていった。  部屋に戻ると呻く全裸のダントプントがいた。ウィンキールは浴場に行ったらしかった。寝息は呻きに変わり、そして魘される。傍に寄っても目覚めず、伏せった長く濃い睫毛が濡れ、火傷痕に覆われた頬が筋になって照った。胸や首に散った鬱血痕をひとつひとつ消していく。かさついて罅割れた唇をリーネアは撫でた。踊り子の快活な唇を知っている。戯れついた子犬の挨拶のようでもあったし、無自覚な欲望のようでもあった。 「う…っ……ぁ、…も…おね…ッむりで…」  眉根を寄せ、ダントプントは寝返りをうった。肩にも散った鬱血痕や歯型も消した。睫毛がまた光り、胸を張り裂けそうな気にさせる輝かしい水晶が滑っていく。飛び跳ねそうな心地を押さえて、真っ白く細い指で掬い取る。濡れたその指を自身の喉仏に当てる。 『ダントお兄さん』  踊り子の明朗な声が出る。 「…ぅ、ん、」  寄った眉が皺だけ残して緩んでいった。息遣いが凪ぐ。 『ダントお兄さん…』  強張っていた四肢が弛緩する。胸が膨らみ、そしてへこんでいく。切り揃えられた爪はさらに深く齧られ、皮や肉まで剥がしてしまったらしく少量ながらも血が滲んでいる。指にまで歯型があった。身を丸くしてシーツを握る大きな身体を、リーネアは穴が空いて風が吹き抜けそうな小さな胸に納めたくて仕方がなかった。 『おやすみなさいネ』  がっしりとしているくせ弱々しい肩に手を置く。その手を取られ、握られた。指を絡められる。ダントプントの敷かれた肩が凝りそうな体勢だった。指先から溶け合ってしまいそうな触れ方にリーネアは動けなくなる。ダントプントが寝返りをうつまでそこに立ち尽くす。指は離れていくことを惜しむが、それでもその肉体は仰向けになる。翻っている掛け布を直しても目覚めることはなかった。  その雨の朝、ウィンキールはレストランに来なかった。リーネアに店主は苦笑するだけだった。何か悩んでいたようだが大丈夫かい?と心配するだけで、普段の仕事に戻っていった。天気はいいくせ雨が強いため客の呼び込みはなく、注文と給仕に勤しんだ。大雨の降る街を威勢のいいタンバリンやカスタネットの軽やかな音が包み、時には通行人の顰蹙を買っていた。1日の勤めが終わる頃にずぶ濡れのウィンキールは厨房に現れた。ただ苦笑する店主に冷めた眼差しを向け、大金の入った封筒ともうひとつ薄い封を出して、リーネアの白い腕を乱暴に引き掴むと雨具も無い中、帰っていく。愛想笑いもなかった。酔っ払っていることはそれだけでなく匂いでも分かった。夕暮れの空のまま、雨が2人を打った。宿へと引っ張り込まれ、帰る途中のリーネアの言葉は全て無視された。階段を上がってすぐにダントプントの途切れの途切れの悲鳴が聞こえる。前を歩くウィンキールの足が止まり、手首を掴む掌は力を失った。そこには何かの意思があるように思えた。 「罰が欲しいんだ?」  リーネアはウィンキールを追い越して部屋へと入った。ベッドが軋み、雨とは違う蒸れた匂いが鼻を抜けていく。見慣れた船員たちがダントプントを喰らっていた。ベッドの上で船員の性器を咥え、喉を突かれている。背中から抱き竦められ腰に密着した船員は尻を叩きながら強く揺さぶる。他の船員たちもまた勃ち上がったものを扱いていた。 「その腫れ、(なお)してあげるから帰ってくれる?」  真っ白な手が群れた捕食者ひとりひとりの様々な体液に塗れた勃起に触れていく。たちまち男たちは情けない声を上げると白濁を吐き出し、腫れは萎んでいった。 「ごめんだけど、ダントプントはぼくの人身御供(いけにえ)だからさ、これ以上手、出すなら君たちも一緒に食べちゃうことになるんだけど、それでもいい?」  口にしたのはリーネアだった。しかし同時にリーネア自身も初めて知ったことだった。それなりに明るかった空が暗くなり、遠くで雷が鳴る。船員たちはすぐさま着替えて出て行った。雨がさらに強まって、そこに雷が加わっている。窓が風に怯んで泣いている。ベッドの上に落ちた裸体はシーツを鳴らして、林檎を落とした。咽ぶ音が雷鳴よりもリーネアを脅かした。根元を縛られた陰茎の下の後孔は大きく穴を開けたままで内部の肉を見せていた。閉じる様子もなく陰の中の内膜が誘うように蠢く。シーツに転がった林檎は照り付け、リーネアを嘲笑した。暗くなってしまった部屋が一瞬、閃光によって眩くなった。爆音が鳴り響いても、目の前で小刻みに震えた泣き声よりずっと些細なものだった。 「ダント…」  開いたままの括約筋から白濁した液体が流れ出ていた。内膜のうねりがよく見えた。秘められた場所ではなくなったそこに白い指を這わせる。 「あっ、あっあ!」  咆哮に似た声を上げ汚れた裸体は跳ねる。腰の、それもその襞周辺だけが大きく動いて上体まで振動させた。首を絞められたのかと心配になるほどに荒れた呼吸を繰り返して苦しがる。枕の上にばら撒かれた硬貨や紙幣に目が留まった。それはあくまでリーネアの直感でしかなかったが、あの船員たちが支払ったものではないように思われてならなかった。となると、他の者たちにもその前に。  雷光とともに頭の中もまた真っ白になって、代わる代わるダントプントを犯し、そして拘束した身体に女を乗せる光景が広がった。時期は分からない。男に抱かれる光景に至っては、見慣れた船内もあった。 「ねぇ、君を抱いた男たちに…君が抱かされた女たちに…みんなに雷、落としてあげようか」  柔肉に指を突き入れていく。生温かく潤い、絡み付いて奥へと引き絞った。 「っあ、ぅんっあ、あ…」  目を剥いて、涎を垂らす。内壁を撫でると、びくびく痙攣した。 「ねぇ、本当に、いいんだよ。ダントが望むなら、ぼくは秤に掛けるさ。秤に掛けなくたって、ダントが邪魔なら全部消すよ。あのコックさんがいけない?殺そうか?」 「ん、ンっ、だ…め…ッあっ、あ、ぁア、」  指を曲げ、異物感のある内部を押すと縛られた陰茎が粘液を滲ませた。指を抜くと、内膜まで捲れて大輪の花が咲いた。大きな薄紅の薔薇をリーネアは眺めた。 「ぅ…んぁあ…は…ウィンクは、ぁっ…ぅン…、何も……っ、俺が…ァ、」  両手を縛られていたらしく纏まった腕でダントプントは顔を隠した。またひとつ、煌めいた水晶が転がっていく。 「分かってるよ、大丈夫」  焼け爛れた皮膚の鼻先に唇を落とす。唾液で濡れた唇に吸い寄せられそうになった。 「ダント、でもね、君だって何も悪くないんだ。君が悪いというのなら、ぼくがみんなを大罪人にするよ。悪事と()めた大馬鹿野郎(ろくでなし)も消してあげる」  唇を落とした鼻先を薄桃色の舌でべろりと舐めたあと、それでは足らなくなり、涙に濡れて爛れ荒れた頬も大きく舐め上げた。 「善を以って救われるべきものが決まるなら、尚更ね…?」 ◇  雨は止まなかった。雷鳴だけがやみ、窓ガラスはずっと泣いている。 「最高ですよ…こんな名器が隠れていたなんて……ッ」  リーネアの斜向かいにあるベッドが(わめ)く。均整の取れた裸体を晒して、両手足を縛られた年上の男を犯していた。腰を押し付け、貪られる獲物の背に覆い被さると、緩く蠕動した。噛ませられた布は唾液と鼻水、そして涙で濡れている。 「水害が気になるなぁ…」  真横で行われる、子を成さないと分かりきった交尾を気に留めことなくリーネアは雨水の滝と化した窓を見つめてそう呟いた。 「だめ、出して…あ、あっ…」 「出したじゃないですか…っ今!」 「あ、あっあ…離しっ、」  身動きのとれない捕縛者は腰を掴まれ、捕食者はまた激しく律動する。女性器と見紛うほどの憎々しい薔薇は窮屈な排泄孔に戻されていたが、再び暴かれていた。 「あの男のところになんて行かせませんよ…?この身体でまた誑かすんですか…?この淫乱な穴で!」 「んっぁ、そん、な……あっァ、あっぁぁあアアアッ!」  明らかな異変を見せて腰が上下に揺れ、手足をばたつかせた。喉を引き裂いているような甲高い嬌声が突き抜け、ダントプントは内部で絶頂を迎えた。人間(ヒト)の抱接を横目にリーネアは部屋を出て行った。室内では曇っていた雨音が明瞭になる。雨天が珍しい地域だった。(あめ)に打たれて、その中に微かに潜んだ透き通った歌声を聴きながらレストランに向かった。店主は困ったように笑って、もうここでは働かないんだよ、とリーネアに言った。乾いたタオルを1枚掛けられて、裏口の扉は閉まっていく。  『どういう経緯でその服代稼いでたか分かったでしょう?貴方に貢ぐことで償った気になってるんですよ…』空虚な部屋で、あの男は背を向けて言った。『償うって、何を』リーネアはだらしのない男に問う。『何をって?身体を売った罪をですよ』栗色の髪を鍛えられた背中に広げて男は酒瓶を呷る。『罪?じゃあみんなに交尾させまくればいい?』リーネアの答えに波打った髪が揺れた。『語弊がありましたね。罪悪感ですよ、そればっかりは個人のものだ』飲んでも飲んでも男はなかなか酔わなかった。  雨に打たれながら歌声を追う。白い毛先からも新しい雨が石畳を打った。歌の主は広場前の通りを横切る高架橋の下にいた。みすぼらしい平服とは違い、いつもよりか少し小綺麗な格好をしていた。座り込んで、歌っている。無伴奏合唱の一部とは違い、主旋律を歌っているがやはり聞き慣れない言語だった。しかし意味だけは拾え、望郷の詞であることは分かった。空を見上げてはいるがその朗らかで暢気な顔立ちには不釣り合いな表情をしていた。 「おにいさん」  ぼうっと口だけ動いていたヒュインは大雨の中を歩くリーネアに気付いた。 「あ!リーネアさんダ。こんにちは、随分な天気だネ!っ…」  陽気な挨拶をするが、紅い瞳は泳いで晴れのよく似合う雰囲気までをも曇天にしていた。 「そうだね。ここって雨降らないの?水捌け最悪だね」  広場から見える海は荒れていた。波が石畳を越えて、それから引いていく。 「ここで何してるの?海の近くは雨の日危ないんだよ。知ってるでしょ」  ヒュインはリーネアを数秒きょとんとしたかおで見てから、にこりと笑った。 「そうだネ。帰ろうカナ。それがいいよネ。それがいいんダ…」  紅い瞳が緩く降りた銀の睫毛に歪んだ。ヒュインは濡れたリーネアに真っ赤な傘を渡した。貿易商で見たことがあったがあまり手に触れたことはない。 「もう濡れてるし、いいよ。おにいさんこそ、濡れちゃうよ」 「これ以上濡れたらいけない。練習用の物だし、もう本当に返さないでいいからネ。さようなら。元気でネ」  受け取らないリーネアの手に触れようとして、褐色の手は躊躇った。だが白い手を取って、傘を握らせる。素早く両手を背中へ隠し、リーネアから2歩ほど後退った。まるでもう会わないとでも言いたげな口振りが引っかかる。 「別にダントにフラれたって、ぼくには関係ないよ」  桜桃を溢しそうな瞳が見開いて、潤んだ。 「…っ、でも、悪いカナって…チミに近付いたら、気持ち悪い思いさせちゃうから…ごめんだけど、ほら、帰らなきゃいけないヨ。ね、お帰りったらサ」 「ふぅん。ダントのためならぼくのことはどうだっていいんだ?」 「…それは…でも…だって…」  握らされた傘より暗い色をした熟れた桜桃が転がる。 「いいんだよ、それで。それがいいよ。ぼくはそのことに…これはきっと悦びだな。そう、悦びを感じているんだから」  ヒュインは眉根を寄せた。下唇を吸うように噛んで、俯いた。 「ボクは自分が思うよりずっとずっと、つまらない、身勝手で生臭い、淫乱な男だったんだヨ」 「うん?」 「チミのダントお兄さんが好きなんダヨ…初めて会った時から…チミを見るとあのお兄さんと会えるんじゃないかなんて損得まで考えて、最低ダ!最低ダ!ボクは!」  高架橋を支える、広場への通りの中心に聳えた柱へヒュインは気が狂ったのか頭部を打ち付けた。 「最低ダ!ボクは!薄汚いんダ!なんて淫蕩で破廉恥で、恥知らずなんだ!」 「ちょっと、ちょっと!やめてよね。ダントのものがおにいさんの脳髄と血飛沫で汚れるなんてことがあっていいわけ?」  下唇を強く噛み締め、水の膜を張った双眸がリーネアに助けを乞う。 「あの素敵な人の足枷になるつもりは、全く無かったんだから…隠しておくべきだったんダ!消えて失くすべきだった!」 「ダントはさ、別におにいさんのことフったわけじゃないよ。風邪だね。こんな変な天気で、参っちゃったんだ」  まるで睨むような幼い顔をする。 「ダントがどれだけここに来たかったのか…………ううん、ぼくには分かりっこないね」  ウィンキールのよくやる笑みがリーネアにも感染っていた。ヒュインの紅い瞳はまた彷徨する。爽やかな柑橘の香りもどこかカビ臭くなりそうだった。 「あ~あ~。もうちょっと粘ってほしかっなぁ。こんな甲斐性なしか。あんなに神だの何だの言うくらいのお人なんだ、好いた人に会うためなら宿に乗り込むくらいはするものかと思ったよ。何を恐れてたの?みんなを愛したって1人は愛せないもんだね。仕方ないよね、そういうもんだ。皆々を愛せてもたった1人は愛せない。誰か1人を愛したって皆々をも愛せるのに。おにいさんは違うのさ。おっと、責めてるわけじゃないんだよ、ぼくが責めてるのはぼくのバカさと見る目の無さにさ」  リーネアは大仰に肩を竦める。ヒュインは俯いているだけだった。 「ねぇ、ダント、かわいいでしょ。昔からいい子なんだよ。真面目でさ、優しくて。でも孤独な子なんだ。きっと彼より孤独で飢えて苦しい子なんて沢山いるだろうね?でもさ、関係ないよ。だってぼくの目には映らなかったし、ぼくのこと助けてくれなかったしね」  鼻で笑った。これもウィンキールがよくやっていた。陰険な笑みがこぼれたが、引いていく。金色の瞳を輝かせて、銀髪を睨んだ。 「ねぇ、ダントを助けてよ」  俯いていた顔がわずかに持ち上がった。あどけない表情に、ぽっかりと口が開いている。 「ダントを、助けて?救ってよ」 「…ボクみたいな無力で罪深い存在に、一体何が助けられるっていうんダ…何も助けられないのサ…恵まれたものだと思っていたヨ…下劣な思い上がりだったんダ…浅ましい幻想だったんだナぁ……」 「だからさ!だからだよ!それ以外に何があるっていうのさ!おにいさんみたいなおめでたい信者(おにんぎょう)に!そのくだらなくて浅はかで、惨めで情けない偽善(りそうろん)で!賤しいお気楽ちゃんな幻想(きやすめ)で!助けてって、言ってるんだよ!」  両手を竦めたままで、リーネアは首をこてんと倒す。 「…っひどいヨ。ひどい人ダ、リーネアさんは、ひどい人ダ…ボクは本当に、あの人とは真摯に…でも…」  雨水の染みに侵食されていく石畳に両膝と両手を着いて、項垂れた銀髪が揺れた。リーネアはそれを見下ろしていたが可笑しくなって、腹が痙攣した。 「嘘言うなよ。でたらめ言うな。白痴と雌豚の(あい)の子め!そんな大した御落胤が真摯に何?何が出来るっていうのさ!恵まれない人でも助けた気になれたっていうの?」  銀髪に傘を投げ捨て、リーネアは雨の中を駆け出していった。

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