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第7話
宿に帰る途中で、踊り子とのやり取りを反芻してしまい、突然歩行をやめてしまった。叫ばずにはいられなくなり、リーネアは空に向かって雄叫びを上げた。雨が口に入り、目に入る。昼に向かう明るい空から無数に降り注ぐ雨に責められているようだったが、明らかに責め立てたのはリーネアだった。石畳に嵌め込まれた石を握った。膝を擦り付けて方向を変える。今することは宿に戻ることではないのだと思って、膝をばねのようにして走った。何を言ったのか、頭の中を流れては何度も戻ってくる。または流れては、戻ってくる。ごめん、ごめん。小さく呟きながらリーネアは宿までの道を半分以上来てしまったが広場前の高架橋の下へと引き返した。銀髪の好青年はすでにその場所にはいなかった。広場の奥の海が代わりに返事をするかのように大きな波を立て、広場の石畳まで潮が寄せ、白い飛沫と霧がふわりと上がった。宿に向かってしまった!一旦静まると沸き起こった新たな考えにリーネアはまた走った。
雨の中の赤い傘はよく目立った。目線の先でバスケットや花束を抱えた青年が宿へと入っていった。リーネアは走った。宿に入る頃には階段にもその後姿は見当たらず、慌てて階段を駆け上る。人違いならどれだけ良かったかと思った。己の軽率さにまた叫び出したくなった。足音も気にせず壁に激突しそうになりながらも角部屋に身を投げた。相変わらず寝るためだけに作られたベッドはうるさかった。林檎や甘橙 や葡萄や桃が床に転がり、花束と花弁もまた薄汚れた絨毯に散っていた。
「ごめ、なさっあ、ァっ、見な…でっ、ッあぁ!」
背後から顎を掴んで、ウィンキールは意地悪く、腫れた唇を奪った。
「ご、…ぁごめ…ぅん…っぁ、んく…っ」
小さく空いた2人の口腔の隙間で舌が絡まった。唾液の糸が滴り、途切れ、落ちていく。リーネアは傍観者仲間の立ち尽くす陰を目でなぞった。
「見…な…でっ、ぁ、ぁん、ん、っ…ァ、」
乱された黒髪が顔を隠し、前髪の奥で翠が光った。腰を揺さぶられ、そのたびに勢いのない茎もまた腹やその根元を叩いた。
「これがこの人の本性なんですよ!」
栗色の髪の毛が汗ばんだ肩や首に張り付いていた。下半身は密着したままで、そしてまた打ち付ける。高い声が上がって、シーツを引っ張っていた。
「ほら!見てもらったらいいじゃないですか!隅から隅まで…!」
嫌がり、ベッド柵にしがみついたダントプントの手を剥がし、両の膝裏を抱え込み、ウィンキールは自身の膝の上に乗せた。鬱血痕を浮かせた首回り、粘液を張り付かせ飛び散らせた胸や腹、萎えた陰茎、屹立を咥え込まされ捲れた粘膜が色気とは無縁な子犬の前に晒される。
「やめろ…!やめ…っ!やめろぉおお!」
ダントプントは顔真っ赤にして叫んだ。両手で顔を覆って、暴れて、震え、ごめんなさい、ごめんなさい、と小さく繰り返している。両胸の突起を摘まれ、ぷっくりと張った肉粒に背を曲げ、萎えた茎が収縮する。大きな子犬は動こうとしなかった。
「よかった」
この場には似合わない柔らかな声だった。ウィンキールの愉快げな表情が一瞬にして無へと変わる。大きく震えるダントプントのいる前に跪く。
「ボクとのこと、すっぽかしたんじゃなくてよかった」
子犬はダントプントを見上げ、そしてダントプントは両手の間から躊躇いがちに泣き腫らした翠の目を覗かせる。
「汗かくのも大事かもしれないケド、ちゃんと食べなきゃダメだヨ」
子犬の踊り子は立ち上がり、落とした果物の様子を見ながらバスケットに戻した。扉の前のリーネアに気付くと、何事もなかったように朗らかに笑む。
「ほら、皮の剥き方は知ってるカナ?包丁には気を付けるんだヨ?」
リーネアにバスケットを持たせた。
「待って、待って…待ってください…ヒュインくん…ぁん、」
「うん、待つヨ。いつでも、待ってるからサ!」
ヒュインの顔はリーネアにしか見えなかった。爽やかな清涼感のある甘い柑橘類と淡い香辛料の香りを残して宿を後にする。リーネアはまるでまだ目の前に踊り子が立っているかのように固まっていたが、絨毯に横たわったままの花束を拾うのでやっとだった。
「なんで…ど…して…俺は、そんなに君に…」
花束を見つめていた翠玉から静かに涙が滴った。薄桃と白の花だった。
「おっと、くだらないこと言わないでくださいよん?貴方のじれったくてもどかしい恋に終止符を打ってあげただけじゃないですかん。どのみちあの男はムリです」
「……俺は、ただ…ただ彼と…」
「野暮ですよ、今貴方を抱いてるのは誰です?今頃貴方の痴態を思い出してひとり虚しく自涜でもしてますよん?いつかのオレみたいにね?」
生々しい動きが再開した。ダントプントは手を噛み、唇を噛み、腕を噛み、意地でも声を上げなかったが、苦笑しどこか楽しんでいるウィンキールに口内を弄られとまた高く蕩けるような声を漏らした。リーネアは宿の主人から花瓶を借り、そして果物の半分を礼に渡し、もう半分のいくつかを剥いてもらった。盛り付けた皿をベッドサイドチェストに置くと、ウィンキールがリンゴを摘んで、ダントプントの口に捩じ込む。
「憎いな…貴方はさ、リンゴの1個や2個を、下のお口で丸呑みしてたんですよ。それが今じゃ化け物の力を借りて…こうして貴方の身体を使ってオレは果てられるんだから…!皮肉なものですよ!」
「あぐっ、あっ…あっぅ」
リンゴを齧っていたが、シーツを握っていた手の甲に齧り付く。大きく目を見張ってまだ潤んでいる目にまた水の膜が張る。
「ダント」
耐えられなくなって、呼んだ。血の滲んだ唇からリンゴの欠片が落ちる。しゃく、しゃく、と音がした。
「ごめん。治さなきゃよかったんだ。そうすれば、こんな目に遭わなかったよね…?」
唇に手を伸ばすと顔を背けられた。
「貴方は…尊い方だから……ぁぐぅッ」
突き上げられて、目を剥きながら舌を出す。粘性のある唾液を散らし、身を捩り引き攣らせた。突き上げられる勢いが増し、挿し込まれた根が半分まで抜かれて脈打つ。逆流した濁った液体が結合部から流れ出て、大きな根を伝っていった。
「深…い……深…ぁ…あアァ、」
小刻みに痙攣して擦り切れた声を出す。リーネアは目の前の汗ばんだ額に手を当てた。外野が殺気立ったが構わなかった。ダントプントの裸体は力を失い、倒れていく。リーネアが支える前に、ウィンキールの腕によって抱え込まれた。
「……これも気まぐれってやつですかん?」
「そうだよ」
陵辱者の腕を枕にして眠る、焼け爛れた頬を白い指が柔らかく押した。だがウィンキールがリーネアから遠ざけたために長くは触れていられなかった。
「行き着く先は子作りが、人間も最大の番 の証なの?」
「――だったら、よかったんですよん?惚れた腫れただなんてそんなのなくてもガキは作れます。まぁ、男と女の場合に限り、ですけどねん?でもそれの延長線 ならしてみてもいいじゃないですか。だって気持ちがいいんですから。天にも昇るような心地 で、殺すんですよ、何度も。それで、自分のものにした気になるんです。愛だの恋だの言ったって、結局動物ですからね。肉欲には敵いませんよ、どんな崇高なお考えをお持ちでもね?」
「ぼくさ、ガキは嫌いなんだ」
「何故です?無垢で純真で、無知で愚かで、彼方等 は大好きでしょう」
ダントプントの頭をゆっくりと枕に置いて、肢体を広げさせた。先程とは打って変わって壊れ物でも扱っているようだ。リーネアはシーツに転がったリンゴの欠片を口に放り込んだ。
「ガキなんて、トンボの羽根もいで、蟻の巣埋めて、カエル潰すくらいしか考えてないよ。あんな残酷なものはないね」
「無知ですからねぇ、ああ、無知なほうが都合が良かったんでしたっけねん?学んでいくんですよ、嫌でもね。整合性の取れないことばっかりしだすんですよ、欲にまみれてるくせ中途半端に抑圧するような知と学を得ますから」
皺まみれの汚れた掛け布を一度引っ張って大きく伸ばしてから無防備な肉体に掛ける。雨はまだ止んでいなかった。
「ねぇ。義兄 を救ってほしいって話さ、」
「そんなことも言いましたっけね。無かったことにしてください。多分救われたって、またオレがぶち壊すんですから。そんな可哀想な話はないですよ。救いなんて見せないでください?」
「うん、ぼくも限 無いなって思ったところ」
「だってオレは、恨んでるんですよん。こんなにも夢中にさせて。本当なら、器量はそこそこな気さくな嫁さんと子供2人、赤い屋根の白い家に住んでいたっていいんですから。それが今じゃ、ただの経歴詐称の大泥棒 です」
ウィンキールはリーネアの首に掛かっている雨水をたっぷり含んだタオルを奪って部屋から出て行った。
眠る顔を暫く眺めていた。胸で組まされた手を解いた。唇をなぞる。黒髪を撫で付け、その上から真っ白く丸い額を当てた。
踊り子の住処は資産家の息子の家の2階だった。2階とはいっても、家の外側からしか入れない、また民家の2階の部屋とは別の倉庫のような場所だった。粗末なテーブルと椅子、それから横長の木箱が寝床らしく掛け布が置いてあるだけだった。錆びた燭台に火を灯し、ダントプントの手を引いて椅子へと促した。踊り子はやはり目の前に跪く。
少し狭いかも知れないケド、ごめんネ。
踊り子はにこりと笑った。ダントプントもまた柔らかく微笑みを返す。
君の名前は、なんというんですか。
ボク?ボクはネ、ヒュイン。
ヒュインさん。
ヒュインは下唇を吸うように噛んだ。紅い眼を泳がせて唸った。
ちょっと、遠い感じがする。ヒュインって呼んでほしいナ。
じゃあ、ヒュインくん。よろしくおねがいします。
ダントプントは椅子から立ち上がるとヒュインの前に屈み、彼にされたように唇にキスした。離そうとした時にヒュインがその唇を追って、さらに押し当てた。唇が触れ合うだけの接吻だったが2人は固まった。数秒して小さく揺らいだ炎に、2人は同時に身を引いた。
なっ…親愛の…お近付きの挨拶です、よね…?
ダントプントは唇に指を当てた。踊り子を前にして目を逸らす。踊り子の青年も唇を両手で押さえて、開いた口を震わせ、そして何度も頷いた。
び、びっくりしちゃっテ…ごめ…っ、ああ、でも、挨拶だ、から…その…
いいえ、謝らないでください…俺のほうこそ…っ、慣れないことを…
2人は相手の顔色を窺うように目を合わせ、互いの中に何かを見たのか、またどちらからともなく唇を重ねた。文化の違いや挨拶の意味など捨て、溶け合うように舌を絡め、身を寄せ合った。薄い胸板の中でダントプントは微睡む。踊り子は鼓動に合わせて背を叩きながら、身を揺する。眠りに落ちた身体へ掛け布で包み、2人狭い床で眠る。しかし踊り子は親猫のような眼差しでダントプントを眺めるばかりで一睡もするとはなかった。
穏やかな寝息が真下で聞こえる。安らかにリーネアの白い毛先を揺らした。
「あの人に、凪ぐ…?」
荒れた肌に掌を当てた。聞いているのか否か、ダントプントは一面火傷に覆われた頬を隠すように首を曲げた。首に浮かぶ骨や黒髪のかかる耳に、産まれたばかりの子猫を見た時に似た渇きと飢えがリーネアを襲った。歯が痒くなり、それはこの皮膚で牙を研ぐしか治まりを知らない気さえした。歯を喰い縛り、肌を吸われた痕に指を当てる。ひとつひとつ消していく。また付けられるのだろう。
『おやすみなさいネ』
ざらついた感触の残る指で自身の喉を押し、踊り子のよく晴れた青空に響き渡る声を使って、同じよう調子でそう言うとリーネアも部屋を出ていった。
奥で波の轟く広場の門を買って出ている高架下でウィンキールは柱に屈みこんで寄り掛かっていた。衣服もリボンも濡れて色を変えていた。項垂れて石畳を流れていく雨水に空色を泳がせていた。
「オレの偽善じゃ、何も救われないんですよ」
ウィンキールはじっと真下の、死んで腹を晒す甲虫をひたすらに見ていた。
「救われないどころじゃないよ。君はそろそろ報いを受けるのさ」
真横に立つリーネアを見ることもない。リーネアは鼻血が落ちきれていない真っ白なワンピースを一枚身に纏い、雨水を吸って身体に張り付いている。
「…報い…」
「死後の苦界 じゃないよ?死後に苦界 なんてないんだし。第一、君にじゃない」
濡れた生成のリボンに結われた栗色の髪から頸が覗いている。ウェーブした毛先から水滴が落ちていく。
「君の偽善で飯を食えた子はいるさ。君の偽善で酒に呑まれて寒さの中安らかに眠ったじいさんもいる。君の偽善で乳も出せて買ったお包みの中にいる赤ちゃんもいるね。他にもさ。他にもだよ、ずっと。君は盗品だけれど、それでも何か善を成そうとした」
「ここで裁いてくれるんですか。ありがたいもんですよ。オレは、オレほど罪悪に満ちた人間はいないと思っているんですからねん?」
「それなら君は、自分の一番大切なものを失う覚悟はあるんだね?じゃなきゃ嘘だ。自覚が足らない」
リーネアがウィンキールを一瞥したのと同時にウィンキールもまたリーネアを見上げた。
「義兄 さんは…」
リーネアは眉を上げた。まだ雨水を泳ぐ空色を見つめた。
「死ぬね。人間はいつか死ぬんだから。儚いや」
「それならオレだって死にますよ。今死にます。今すぐにでも。あの海に飛び込んだって…」
「誰が、お酒弱い人に強いお酒盛ったの?」
リーネアはずぶ濡れたウィンキールの衣服に触れた。瞬きの間に乾いていく。
「しかも驚きだよね、直接吸収で。内臓に負担かけまくってるのはお酒だけじゃないんだもん。酒ばっかで栄養状態だって悪い。しかも乱交状態ときた。もう殺したいくらい恨んでるってところだね。おめでとう、君は望み通り恨んでる義兄を殺せるよ。じわじわと。じわじわじわじわね」
ウィンキールは膝を着いた。広場に波が打ち寄せた。半分ほどまで呑んで、それからまた返していく。
「病か?…何が、何が…」
「君の罪業じゃないの?」
石畳を拳が殴る。虫の死骸が雨水に流されていく。リーネアはその後頭部から目を逸らした。
「――とでもいうと思った?そんなもので人は病になんてならないよ。罪業なんて価値判断 さ」
肩を竦める。あの気に喰わないコックが膝を濡らし、拳を痛めている。だが何の感慨もなかった。
「もって1年。もうすぐ多分痛みも出てくるだろうし、その辺りはぼくも医者じゃないから」
「あんたは義兄さんのこと、好きじゃないのか…!何故、その力を持って、義兄さんを助けてくれない…!」
「君のなけなしの偽善を以って、義兄の望み通り、死なせてやるのさ。バカな弟を巻き込んだ負い目に、バカな弟に嵌められたフリをして、それどころか精一杯守ってた一線をバカな弟に越えられて、ぞっこん参った人に偽りどころか義理とはいえホントの兄弟と交合ってるところ見せられたらね…?」
やめてくれ。ウィンキールは言った。
「やめてくれ?ダントが何回それ言った?数えてあげようか。数えてあげるよ。口にしただけでも168回」
悪かったと思ってる。ウィンキールはがたがたと震えはじめた。寒いの?問うても何も聞こえていないようだった。
「気付かれてないとでも思ってたわけ!面白いな!コックさんって素敵(さいこー)。初めてコックさんが船に乗ったときからダントは気付いてたっていうのに!でも言わなかった!なんでだと思う?あんたがまるで初対面みたいに扱うから!まるでそれが罰みたいに!ダントは抱えることにしたのさ!」
リーネアも屈み込み、栗色の豊かな髪を鷲掴む。上を向かせると青白い唇が震えていた。
「まぁ、ぼくもずっと気付かなかったさ?知ろうとすら思わなかったからね?でもそのなけなしの偽善で!ぼくは探ったよ。義兄を救いたいんだろう?あんなことされてもまだ!……バカで愚かで恥知らずな弟が!後ろめたいことなく生きていくことを望んでるんだから!」
真っ白な細い腕が栗色の髪を石畳へと力強く擦り付けた。
「おめでたいよ君たち兄弟は!わはは!君たちこそまさに!この賤しい生臭社会で最も救われるべき人間たちだ!だからぼくは救うのさ!君は義兄を殺して、義兄は望み通り死なせてやるのさ!素晴らしいね?素晴らしいな?」
石畳に押し付けた頭を持ち上げた。虚ろな空色からも雨粒が滴っていた。リーネアはまたきゃははと笑って石畳に打ち付ける。
「助けてくれ、義兄さんを、助けてくれ…」
「助けてくれ?どの分際で…!今すぐあの海にでも飛び込めよ!」
砂利のついた頬を殴り付ける。髪を掴んだ手を振り払うとウェーブした髪が数本指に残った。
タンッ…
タンバリンが叩かれる音がして、リーネアは瞬く。指に絡まる栗色の毛と、石畳に頭を擦り付けるウィンキールの姿を金色の瞳を見開いた。
「コックさん…ぼく…」
「助けてくださいよ…義兄さんを…助けてくださいよ…海でも溶岩でも、平気でダイブしますよ…オレがもがき苦しんで死んでいく様、見ていてくださいよ…」
石畳に頭を付けたままウィンキールは繰り返した。
「助けるよ。うん。助ける。助けるに決まってるんだから…」
「それが聞けたらいいんですよ…ここに来たこと、感謝します。きっとどうせまた、オレは盗みを働くところだったんですから…」
頭を石畳から持ち上げることなくウィンキールはそう言った。
「やめてね、嘘だから。海に身を投げるだなんてバカだ。ダントはそれで苦しむし、ぼくはそればっかりはね…ぼくは、ぼくみたいな化け物の力を以ってしたって……コックさんが死んじゃったら、ぼくはダントがそれでどこか痛がって、泣いちゃうの、きっと治せないんだなぁ…」
リーネアは喋りながら何かを少しずつ掴んでいるようだった。ウィンキールに語りかけているのか、ひとり得心がいっているのかも分からないような調子だった。
「治すよ…治すんだから…大丈夫だ…だってぼくは化け物なんだし…」
小さな小さな大河と化している石畳に伏したままの男を背に、リーネアはぶつぶつと呟きながら宿へと戻った。街中であの踊り子の透き通った裏声の歌が響いていた。雨音の中に溶け入っている。あの踊り子が纏う陽気さも爽やかさもない。高く繊細に雨音に染み入る。
ボクをあなたのものにしてくないカナ…
腕の中で起き上がるダントプントに蕩けた声を出して言った。まだ寝惚けているダントプントは小さく笑んだ。力みのない弛緩した微笑みだったが、踊り子が唇をねだると眉を寄せた。
いけませんよ。君はこの街の素敵な華なんですから。こんな煤けた男は似合わないんです。
それでも構わず唇を求める子犬にダントプントは指を当てる。
でも、ボクは…
ありがとう。君は優しいから気を遣ってくれたんですね。本当にありがとう。嬉しいです。でも、そんなことを言わせてごめんなさい。
子犬は銀の眉を寄せて、下唇を甘く噛んだ。犬の腕から離れて、けれどダントプントはまた親しげに笑う。リーネアはこの顔を知らなかった。
宿の前まで来ているというのに宿に入ろうという気が起きなかった。足が動かなかった。2階の出窓を見上げるのが精一杯で、顔面を雨が打った。睫毛に雨粒が絡み、そして熱く目元を覆った。ダントプントが下瞼から溢していた、リーネアを落ち着かせないあの儚い水晶が止めどなく雨に混じっていく。踊り子の歌声に膝を着いてしまいそうだった。
◇
ダントプントの腹に手を触れる。拒否はされなかった。すべらかな皮膚を撫でていても、ただその腕を追っているだけでいた。
「ぼく、ダントの傍にいたいなぁ」
ダントプントは眉間に皺を寄せる。
「傍に…ずっとさ。ずっとだよ?ずっとなんだから」
「…そうもいきませんよ。貴方はほら…船を頼みますよ。みんな気のいい人ですから」
今度はリーネアが眉を顰めた。
「本当に?ダントに酷いことしたくせに?」
「…そのことは…貴方に不信感を与えてすみません。でもきっと俺が、みんなをおかしくさせたんです。…ええ、そうですよ、俺が誘ったんです、多分。おそらく…」
「そう言われたの?信じてるんだ!ダメだよ、信じないで」
腹を撫でていた手を放し、ベッドに座るその両肩を掴んだ。額に迫ると目を瞑り、身を引くだけでやはり拒みはしなかった。
「気が弱くなってるんだ」
風邪だといえば、剥いてもらったばかりの桃をベッドサイドチェストに置かれた皿から摘んでダントプントの口に放る。そして湯気を立ち上らせる皿を手にした。
「気が弱くなってるんだよ。無理が祟ったね」
体調を崩したらしいダントプントは夜中ずっと咳をしていた。治したつもりでいたが、まだ怠そうにベッドの上で座っていた。
「元気になったら、おにいさんと果たせなかった約束があるんでしょ?」
木製スプーンで溶き卵と魚卵のような粒状のパスティーナが揺蕩うブロードスープを掬う。ダントプントはされるがままに桃を飲み込んだばかりの口を開いた。蜜液に唇が照って、リーネアは一瞬、そこへスプーンを運ぶという動作を忘れてしまった。
「ウィンクは、どうしていますか」
「美術館を観に行くとか、なんとか」
雨はずっと降っていた。この雨の中に行くこともなかった。もともと雨が少なく、雨具を持つ習慣もないこの街のこの天気で美術館が開いているのかも怪しい。
「彼には教養がありますからね…将来は先生になるんでしょうか。貴方には彼の将来が見えますか?」
皿の底に沈むパスティーナを掬いながら問われる。雨の音が窓の奥で曇って聞こえたが、小さな皿の中でスープの滴る音が明快に耳に届いた。
「赤い屋根に白い家で、器量は並々の気丈なお嫁さんと子供が2人…かな」
「そうですか。なら、よかった。彼の意思なら何も言うことはありませんけどね、もし何か…不本意なものがあるなら、船、降りて欲しいと思っていたんですよ」
木製スプーンが口に運ばれていく。陽気な踊り子に貪られた唇をリーネアはじっと見ていた。
「船長選ってもしかしてさ、」
「…その話を掘り返しますか」
苦笑しながら木製スプーンをスープに沈める。口を開いたところで部屋の扉がノックされた。リーネアが出ると、ヒュインがそこに立っていた。オレンジのガーベラを一輪携えてリーネアに朗らかに笑いかけた。
「やぁやぁ、リーネアさん、こんにちわ」
いつもの粗末な平服で肩の辺りを濡らしていたが、この踊り子は赤の雨具を持っていた。
「こん、にちは。…おにいさんだけど?」
ダントプントを振り返る。スープを見つめながら頷いた。制限していた扉を大きく開けてヒュインを促す。
「ダントお兄さん」
ベッドの真横で跪く。片手で皿を支え、片手でスプーンを持っているため手を取り接吻することは叶わなかったが、銀髪は深々と古い辞儀をする。
「お加減はどうカナ」
「いいほうです。とても。リーネア様に良くしてもらってますから。恥ずかしいですね、こんな姿まで晒して…」
「そんなそんな。快方に向かってるならよかったヨ。治るまで毎日来るんだから。毎日来るヨ。毎日来るもん。いいネ?」
ダントプントが隈の浮かぶ目元を眇め、くすくすと笑うのをリーネアは胸部を抉り取られるような気をさせながら見ていた。
「いけませんよ、そんなの」
「行くヨ。行くんだもん。ダントお兄さんが元気になっても行くんだから」
ベッドの真横に腰を下ろし、シーツに両肘をついて首を傾けた。
「いけませんってば…困らせないでください」
「困ったらいいヨ…ボクのこと、ダントお兄さんがボクのことで頭いっぱいになるなら、ボクのことで困ってヨ…」
ヒュインは左右に頭を揺らす。ダントプントはスープの液面をじっと見下ろしている。
「何か足らなかったんダ、ボクの踊りはサ。形ばっかりで中身が無かったんだヨ。中身が…無かったんダ…」
ヒュインはシーツについていた腕に口元を埋める。
「ヒュインくん」
ダントプントがヒュインへ首を曲げると、リーネアは突然鉛玉をいくつも飲み込まされたようだった。翠の目が花開くように大きくなって、ヒュインの頭がわずかに持ち上がったのもさらにリーネアを落ち着かせなかった。
「とても素敵でした。形とか中身とか、俺にはよく分からないけれど…とても。君にきちんと言えることになるなんて思わなかった」
スプーンごと皿を支え、空いた手が銀髪に伸びていく。跳ねた毛はふわりとダントプントの指を受け入れる。
「あなたはミツバチのような人ダ…それでいてあなたは牡鹿で、ボクは野良犬…どうか軽蔑しないデ、見捨てないデ…」
髪を撫でる手を取ると掌を頬に当て、何度も唇を当てる。指の腹ひとつひとつにも押し当てた。ダントプントの顔を見上げると、ヒュインの手からその手が抜かれ、また銀髪を撫で付ける。
「それを君が言うの?」
やはり見たことのない微笑みと、聞いたことない声音をしていた。リーネアは唇を噛む。
「だってボクはこんなだから…きっと何もなかったんダ…空が綺麗、花が美しい、色付くレモンに微笑むばかりで…浅はかだったんだヨ。それが素晴らしいことだって信じて疑わなかったんダ…」
「素晴らしいことだと思います。何も無いんじゃないでしょう?それが日常になっているだけで。そのまま信じて疑わないで。空が荒れて、花が枯れて、実も生らないなんて、そんなの、君には似合わないから」
「じゃあ…じゃあその日常に、ダントお兄さんも迎えに行くヨ…」
躊躇いがちになったヒュインの声が消えていく。翠の瞳の飼い主は眉を下げて笑うだけだった。
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