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第11話

◇  長い大雨と雷によって、ウィンキールが夜遊びに耽らせ、義兄を淫らに陥れた賭場とその周辺の民家は土砂に呑まれていた。瓦礫や土砂、死体を片付けていたが、赤く染まった空と荒れ狂った海を目の当たりにし、義兄を置いてきた街エリプス=エリッセへ急ぎ向かっていた。まだ美術館に荷物も置いてある。弱っていた怪物の少年も気になっていた。人の気配が消え、船員たちも彷徨いていない街は不気味で、もともとの本業は順調すぎるほどに進んだがこれという収穫もなかった。  街の中は紅い砂埃が吹き、広場を通りかかると、広場の奥に見える海に鋭利な頭部と翼のような鰭を広げた巨大な蛇が浮かんでいた。胴と同じほどの髭が目障りそうに靡いている。紅い瞳が広場に座り込む者を睨んでいた。美術館に置いてあった油絵のひとつに描かれていた、海蛇というには生々しさのない海蛇の絵だった。その"魔憑き"の海蛇が今にも喰わんとしている者が義兄であることに気付くと、全てを忘れてウィンキールは広場へ駆け込んだ。段々と近付くと義兄の足元に血塗れの四肢を投げ出した昔の仲間の姿を認めた。義兄の傍に辿り着くより先に、怪物は乱入者へ吼えた。威圧的な暴風にウェーブした栗色の髪が威嚇した猫の尾のように緊張した。両腕で顔を覆った。耳の後ろで生成の髪紐が羽撃く。目の前の義兄は、伐採された大木の如く、身を傾け、石畳に崩れ落ちる。ウィンキールは空色の双眸を見開く。何度も口付け吸い付いた首から赤い池が広がった。耳孔を突き破りそうな高音を伴った風が止む。 「義兄さ…」  嘲笑っているのか、尖った鼻先を上下に揺らして、海蛇は空を仰ぎ小さく咆える。鰭や髭が宙を掻く。赤い空が薄らいでいく。一歩、一歩、近付いた。石畳の石の傾き、歪みを靴越しに感じた気になった。固唾を飲む。義兄は黄金に輝く短剣で喉を突いていた。見ていられず、逸らした。栗色の毛先が視界の端で揺れた。顔面が縮む。  海蛇の周りを海面が穏やかに隆起する。クジラの潮吹きに囲まれているようだった。 「待てよ…」  動かない義兄の喉から短剣を引き抜いた。義兄の指が褐色の指に絡んでいる。どこもかしこも血だらけで、傷だらけだった。知人の半分崩れた死顔に空色の双眸はふわりと意識がどこかへ浮いた。 「怪物め…!」  脚が震えていた。義兄の血に汚れた剣先を"魔憑き"の海蛇へ向けた。怪物は噴き上がる海面からウィンキールを睨み、尖った鼻先が引いて止まる。短剣を支える手が戦慄している。胸の鼓動が大きく身体中に響いた。目障りな、踊ってばかりの元盗賊仲間がよく歌っていた耳障りな歌。大きな街にいればきっと会えると思うからサ、と言って袂を分かった。ボクは仇を、キミは義兄さんを。次会うときは、お互い知らない人だからネ。一方的に言われた、親しくもない、利害だけの関係で、代わりはいくらでもいたどうでもいい存在。今であってもどうでもいいのだった。義兄の指が繋がってさえいなければ。  義兄は思った以上に、魔憑きの子に惚れていた。海の化物に向けた切っ先を自身の胸に突き刺したのかと錯覚する痛みに、黄金の丸く短い柄から伸びる白刃が震えている。  短剣を握る掌が汗で滑った。海蛇の怪物は空を仰いで吠える。地面が大きく横に揺れ、風が波を連れて吹き荒れた。 ――盗人よ  忍び込んだ資産家の老人の身の回りは期待を裏ぎり、粗末だった。使用人もいなかった。薄汚れた布団に包まり、嗄れた声で呼ばれた。気配を消したつもりでいたが、見破られ、そして好意的に迎えられた。 ――盗人よ、ここに金目のものは無いのだ  顔も姿も暗がりで分からなかった。 ――これを持っていくといい、明日の糧には足りるだろうか…?  闇夜の中で、それは翠に光っていた。老人の細くなった腕が布団から出て、ウィンキールの手に乗せた。あまり打ち解けられなかった義兄が読み聞かせた本で空想した、森の奥の泉を思わせるガラス玉。ガラス玉だとウィンキールは思っていた。 ――盗人よ、下にある物を売るといい  わしも循環に混ざりたいのだ。静かに老人は言った。ウィンキールは綺麗に光るガラス玉に夢中になっていた。 ――孫に代わって、許してくれ。盗人よ…  決して重くも厚くもない日記帳を持ち上げるのもやっとのようだった。ただその一言が、翠の親指先端部ほどの大きさのガラス玉から意識を逸らした。老人は穏やかさを見せ、眠るように息を引き取った。病気で参っていたのか、屋敷の老人は狡猾で意地が悪いという噂も落ちた日記帳への関心も全て忘れて翠のガラス玉に見惚れていた。  石畳が砕け、地割れする音と振動で思い出話からウィンキールは目が覚めた。他のものは売り払い、あの老人の住む町とその近辺の施設に返したが、義兄の瞳を()た翠玉だけは売ることが出来ず、何よりウィンキールはガラス玉としか思えず質に入れることが出来なかった。  咄嗟に避けたが、数秒もしない前に自身のいた場所に海蛇の虹色に光を反す銀の鱗が駆けていく。石畳の中をミミズがのたうつように、蛇が歩むように、衣を縫う針糸のように怪物は潜り、突き出てはウィンキールを囲う。 「あんた、姫様…?」  ウィンキールの周りの石畳を崩壊させ、大波が囲う。太刀魚の嘴に似た鼻先の奥に潜む柘榴石を思わせる目がウィンキールを狙う。その反応がまるで肯定のようで、ウィンキールは膝を着いて、義兄の亡骸を抱き寄せる。傷だらけの踊り子と離してしまい、そのことに強いこだわりが生まれ、義兄を胸に抱えることがどうしても叶えられなかった。 「義兄のこと助けてくれ…って、これか?オレの罪が重過ぎた…?」  大きく息を吐いて、掠れ裏返りそうな喉を整え、混乱した頭を整理する。それでも何か別のことを言ってしまいそうだった。まるで関係の無いことを。娼婦を腕に眠った日に見る、不毛な夢の話など。太刀魚と蛇が合わさったような尖った頭部がウィンキールに接近する。号哭(ごうこく)と風圧。牙もない月夜の井戸の底を一瞬にして彷彿させた口が開く気配に固く目を瞑る。  カモメの鳴き声がした。義兄を見送れなかった海でもカモメの鳴き声がした。カモメになれたなら、海に小さく浮かぶ船に追い付けたのだ。村が焼かれた後は、物心つく前から見てきた村の者たちの仇へ頭を下げた。恥辱の中死んでいった母の横で無力さを恨みながら命を乞うた。昼夜休む間もなく働いて、食い扶持をなんとか繋いだ。カモメのようにはなれなかった。義兄は人を殺すだろう。略奪の中に身を置くかも知れない。殺されたらどうするのか。虐げられていたら。義兄は優しかった。誰よりも。同じように海へ出てみた。波に揉まれた。風に乗るカモメを見上げて、やはり思うのだった。カモメにはなれなかった。  焼けるような光が目蓋を殴る。柔らかな温もりが頬を撫で、睫毛の間から少しずつ白い羽根を認めた。石畳に舞い散る羽毛や羽根にまた夢を見ている気になった。真っ白な少年に隙を見せ、触れられた時の酩酊感に似ている。  カモメの鳴き声が聞こえたが、目の前にいたのはカモメではなかった。淡い光を纏った巨大なカラスだった。真っ白く羽毛が照り、ウィンキールは直視出来なかった。翼を広げ海蛇と対峙している。先に動いたのは海蛇だった。真っ白な巨鳥は翼を広げたまま、抵抗も見せずに海蛇を無防備な胸部に受け入れた。水飛沫が数日の雨のように穴だらけの石畳に降る。羽根が散り、羽毛が散る。鋭い爪が、太く長い蛇の胴を掴み、鱗が煌きながら剥がれた。フリルドレスじみた鰭が石畳を叩き、尾が怪鳥に絡み付く。組んず解れつ街を荒らし、破壊する。砂埃が舞い、瓦礫の山に飾られていく。二者は民家や建築物の骸を増やした。視界が曇り、首に掛けたまま忘れていた、ガラス玉の光に気付く。しかし手に取って眺める間もなく、風を切る音に義兄に触れた。腕に衝撃と痛みが走った。失くなったとすら思った。石の欠片に顔を背けながら、熱と痛みに襲われた腕を確認した。大きな傷があるだけで、失ってはいなかった。一呼吸、二呼吸置いてどぷりと赤い体液が傷口から漏れた。カモメの鳴き声と低い遠吠え。砂埃が晴れると鱗が剥がれ嘴に身を裂かれた海蛇が頭をもたげてウィンキールのほうを見ていた。頭をゆらゆらと上下に振る仕草は笑っているようにも見えたし、船についてくるイルカに餌を与えた時にも似ていた。喉を裂かれていてもまだ海蛇は起き上がり、弱々しくなった尾で瓦礫と化し海に浮かぶ広場の断片を叩く。水が飛んだ。紅い目がウィンキールのほうを見ていた。首が曲がり、そして真っ白な嘴に咬まれ、自由が利かずともじっと、不自由の中でウィンキールのほうを見ていた。娼婦の娘が着ていた安物のドレスに似た鰭が水や瓦礫や石畳の端を叩き、擦る。やっと這うことを覚えた乳児をあやす成猫の尾を、貿易商に扮した町で見たことがあった。その様がふと脳裏を過る。開いた褐色の指がその尾を握ろうとしているようだった。真っ白な巨鳥はまだなおも海蛇の首を噛んでいた。胸部には大きな穴が空き、奥の景色が嵌まり込んでいる。翠のガラス玉が軋む。 「姫様…?」  金の双眸はウィンキールの声に反応することなくただじっと海を見ていた。海蛇が再び暴れはじめ、嘴に身を削り取られながらウィンキールに迫った。何が起きたのか、唖然とした。飾りのような鰭が踊り子と義兄の亡骸を掠め取っていく。鱗が剥がれ、身を裂かれた乾いた枝切れが海を割って空へ向かう。真っ白な巨鳥も羽根を散らして飛び立った。高い慟哭が赤い空に滲んでいく。洗い流されて、見慣れた青空が伸び渡る。枯葉を踏んだ音に似て、翠のガラス玉の破片が足元に降る。暫く立ち尽くしていた。目の前に淡い光の柱が落ち、身を清められた踊り子と義兄の亡骸が漂いながらゆっくりと横たわる。羽根と鱗が少しして天気雨となった。また暫く立ち尽くして、少し泣いて、それから。  (あん)ちゃん、何してるん?傷が潮風に障るでしょうに?  浜辺にじっと座っていた。空は赤くなり、もうすぐで日が沈む。潮風が栗色の髪を揺らした。潮騒と遠くの喧騒をずっと聞いていた。薄らと星空が浮かんでいる。  ええ、まぁ、夕涼みですよ。  海に詳しげな町の男が気さくに話しかけた。よく日に焼け、汗ばんだ肩は汚れている。漁師だと思われた。見慣れた筋肉の付き方と、日の焼け方と、髪の傷み方。海に感化された笑み。  気を付けなよ、最近海、荒れてんだから。治安まで荒らされちゃ敵わないけどなぁ。  まるで空から降ってきたように岬に落ちている海賊船を指差して、薄汚れた格好の男は苦笑した。青年は一度男に目をくれただけで、また首を海へ向けた。波打った毛がそよぐ。ココナッツの香りが攫われていく。  そうですね。  まぁ、人手が要るから、ガラ悪いけど助かってんだ。  それはよかった。  苦笑を止めた男は、ぽかんと青年の赤く染まりゆく空色の双眸を覗き込む。海の様子を見て、それから足元見て、青年の爪先から脳天までを観察してから、僅かに眉を動かした。  (あん)ちゃん…ここで何してんです?  男はじっと海を見ている青年を訝った。空色はただ夕日を真横に受け、暮れなずむ空とも、凪いだ海ともいえない遠くを真っ直ぐ見ていた。空と海が混じっていく先を青年は知っていた。男もおそらくは。  …まぁ、小舟で旅立った恋人たちのお見送り、ですかね?  男はさらに眉の皺を深めた。青年は小さく頷いているようだった。潮騒を聴いているのか、適当に話を受け流しているのか。男はふん、と鼻を鳴らす。  ほら、明日は少し気温が上がるらしいですよ、頑張りましょん?  青年は一度だけ顔を歪めると、土埃に汚れた男を肩を柔らかく叩いた。  人々にただならぬ者の導きの意思が聞こえはじめたのは、大聖堂を築いたというエリプス=エリッセ崩落の目撃者が没した後だった。

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