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第10話

◇  触らないで!  (はた)かれる。リーネアの真っ黒く汚れた指先が宙に投げられる。子供に投げられた石が脚にぶつかった時よりも小さな痛みが鋭く身を裂くものへ変わっていく。 「触るな…もう俺に関わるのはよせ……」  石畳に座り込んだまま、嵌め込まれた石を数えてでもいるのかじっとしていた。しかしリーネアが触れた途端に稲妻に打たれたように動きはじめた。 「ダント、」 「俺が、娼婦の息子だから…?淫売の血を引いた俺が、貴方を誘い込んだ…?」  身を抱きながら、ダントプントは荒い息を吹き、リーネアの顔を見ずにそう続けた。 「それなら謝ります…、謝ります…ごめんなさい…貴方を誘って誑かして…申し訳ありません…」 「娼婦の息子って…何さ…君の母親は何も身を売ったわけじゃない…金なんて無かったさ。相応の金もまともなご飯もボロ布さえもなかった…誘い込んだと思ってるなら君の夢想(おもいこみ)だよ。誘い込んだと言われたのなら、奴等の自己弁護だ」  強く己が身を抱き締め、ダントプントは黙った。 「君はぼくにパンをくれた。ぼくは君に、意識を持っちゃったんだよ。君が痛いなら、ぼくはあの時の救いを以って君から痛みを取り除き…たかった」  ダントプントは俯いたまま再び停止している。水面を煌めかせ、波の音が広場に響く。この街どころか空の下にふたりしかいないような。 「覚えてないんだっけ?でも君は確かにぼくにパンをくれた…だからぼくは君を…でも、なのに、君はあの踊り子じゃなきゃダメなんでしょ?ぼくには何の痛みも取り除けやしないんだ!」  波の音ばかりが響いて、人の営みがまるで感じられなかった。人喰い海賊が着港している様子も無い。踊り子の催し物は一夜の夢のようなまま、大雨とともに流れていった。 「嘘だ…だってあれはカラスで…」  背を丸めるダントプントは掠れた声で訊ねる。 「そうだよ」  身動きひとつせず、穏やかさを取り戻した波が代わりに相槌を打つ。 「君が泣きながらあの仔猫を埋めたのも、ぼくは見てたんだ」  翌日の雨で、仔猫は死んでいた。晴れた野原の死骸に気付くこともなく子供たちは駆け回り、火傷痕のある子供だけがひっそりと林に踏み入って、湿った土に弔った。  ダントプントの目の前に屈み込む。波の音ばかりで、それ以外はみな息を潜めていた。張っていた糸を鋏でぶつりと裁断されたように喉の奥から爆発した。踊り子のピストルよりもずっと歯切れが悪く。 「なんでぼくじゃないの。なんでぼくじゃダントの何も癒せないの。なんでさ、なんでぼくじゃ何も出来ないの。ぼくで救われてよ。なんであの踊り子なの…?ぼくで痛いの飛んでいってよ。もうあの踊り子で泣かないでよ…痛いよ、痛いよダント…なんでぼくじゃ…」  両膝が石畳にぶつかり、骨まで響いた。空は晴れたが、リーネアの目はまた雨天を繰り返す。胸を断続的に握り込まれでもいるかのようにぼろりぼろり涙が溢れる。 「やっぱり俺が誘い込んだんじゃないですか。お許しください。貴方は尊い方だから、俺に何かお恵みをお与えくださらずにはいられなかったんですよね。こんなに貴方を苦しめるのならパンなど渡さなければよかった。ごめんなさい」  ダントプントがすっと立ち上がった。晴れた日の麗らかな涼しい森と咲いたばかりの花に似た香りが微風にまとわりついて流れていった。 「もし少しでも俺を良く思うなら、もう離れてください。貴方の(しがらみ)にはなりたくないんです。もう決着してください」  人になどなるな。人になれば(おまえ)なんぞ、簡単に迫害(ころ)されるぞ。  親を失い、大きな火傷を負った子供は一度は娘を預けられた船大工に保護された。船大工は資材を買いに向かう途中の小さな村で出会った子の無い夫婦に出会った。黒い髪に翠の瞳を持つ、人は好いが寡黙な男と、ブラウンの髪が印象的な溌剌とした女だった。船大工は妻の熱烈な歓迎を受け、火傷を負った孤児をこの夫妻に託すことにした。親を得た孤児が移り住むことになったこの小さな村は引っ越してくる者は少なかったが、ある日、足の悪い老人が越してきた。村の外れの、他の民家より少し大きな家に村の子供たちはひどく惹かれた様子ではあったが、老人は決して人を嫌っていたわけでもないようだったが関わりを持つことを好んでいないようだった。だが村の子供たちと馴染まない顔に大きな傷を負っている男児には自ら声をかけ、字の読み書きや地図の読み方、天気や星の読み方を教え、古い眼鏡を与えた。  火傷を負った孤児は健やかに育っていった。肩や腕や腹に負った火傷は痕も消えるほどだった。2つ年の違う弟もできた。2人は喧嘩をすることはなかったが打ち解けた様子もないまま、父の訃報を得るまで同じ屋根の下、住んだ。10にもならない孤児は未亡人は亭主を失った母と、父の死を理解出来ない弟を置いて家を出て行ってしまった。  村が賊の手によって大火に撒かれ時、この老人は生き延びた。死に物狂いで故郷へと帰り、その地で昔書き殴った雑記帳を手に、屋敷へ入り込んだ盗人に家財を分け与える約束をすると見ず知らずの者に看取られ死んでいった。 ◇  ヒュインは広場に繋がる建物裏の小道で海を眺めていた。土砂崩れを起こした山がよく見えた。木箱の乗った踊り子へリーネアは歩み寄る。潮風が銀髪を撫で、リーネアの白い髪も揺らした。擦り剥いた膝と肘が痛み、真っ黒く変色した両手足は痺れ、立つのもやっとだった。 「語りかけているのに、君にはもう何も聞こえないのかな」  海と空の境界から目を離すことなくリーネアに話しかけた。リーネアははっとして、石畳に崩れ落ちそうになる膝を手で押さえていた。 「これでも嬉しく思ってるんだよ。同類(ともだち)を得たこと」  声は届かなかった。 「おにいさんも、やっぱりダントに"ぞっこん参ってる"んだ」  潮騒が返事をする。 「怒りを受けたらさ、同じだけの悲しみを相手に与えなきゃね、満足しないんだよ。そういう本質があるんだ。じゃなきゃ負けなんだよ。負けは死だから。人間でみたらそうじゃないかも知れないけど、さ」 「ダントが死んだら、解決するの?」 「解決なんてもうしないよ。ただおれの…おれの意識に、決着する。決着すると思うんだ。きっと決着する…決着させるんだよ」  躊躇いがちにヒュインは胸を拳で叩いた。 「やだよ」  よろめき、壁伝いに歩きながらヒュインの元へ近寄った。 「ダントのこと好きになってよ…」 「おれがダントプントさんを好きになったら君は満足?君のその病気は治るの?」  木箱に飛び乗るだけの力が出ず、ヒュインの足元へ落ちるように腰を下ろした。 「ダントプントさんが、苦しむだけさ。そのほうがいいんだろうな。そのほうが、いいんだよ」  だってダントプントさんが海に出た原因って、おれなんだもの。  ヒュインの清風を思わせた声が乾風に似た。波の音が透ける。 「おかしいな。おれも君のはずなのに、おれには何も無いや…」  褐色の手を目の前に掲げて、紅い瞳は指先を眺める。 「新しい時代は君なのかな。おれの役目は終わったんだな。頼むよ。あの男のことは忘れるんだよ。長く生きてれば代わりなんていっぱい…いっぱい出来るんだから…きっと…似たような人に会えるんだから…そうだよ…」 「でも君ハ、お養父さんの代わリを見つけられル気が、しナいんデしょ…?ダントのコと、殺せなインだよね…?」  木箱に寄りかかりながらリーネアは遠く空と海の狭間を見た。黒く染まった肩に頭を預ける。 「有限の奴等だけの幻想に消えるなよ。君はそう言っているよ。もう本当に、何も聞こえない?」 「もう(ぼく)(こえ)(きみ)にも、届いてないよ」  目を開いていられなかった。潮騒は大きくなる。踊り子の無伴奏合唱が聞こえたがヒュインは歌ってなどいなかった。聞き覚えのない高い主旋律が聞こえる。女声と男声が伴奏を歌う。 「あの男が悲しめばいいのに…あの男が悲しんで怒って、悔しさに苦しめばいいのに…」  靄のかかった視界が陰る。歌と潮騒。かろうじて聞こえるヒュインの声。身体が浮いた。抱き上げられる。 「無視したら、お養父さん、ほんとに消えちゃいそうで、怖いよ。怖いよ、リーネアさん。…怖い」  身体半分が黒ずんでいくリーネアを抱え、ヒュインは狭い小道を抜け、人っ子ひとりいない街を歩く。怖い、怖い、嫌だよ、助けてよ、と繰り返す靄の奥の青年に手を伸ばそうとするが力が入らず、青年の揺籠から落ちて振り子と化す。 「君もこんな思いするの…?リーネアさん…もう嫌だよ。君はいけない。こんな重くて、痛いの、ダメだよ。あの男のことは、忘れよう?おれもそう願うから。おれもそう掛け合うから。もう関わるの、よそう?君には(おれ)、おれには(きみ)がいる、それでよかったんだよ。あの男のことは忘れよう?おれも忘れるから」  階段を上がっているらしかった。リーネアは深い呼吸ばかりで、声を出す力ももうなかった。広場を囲む大きな建物の中へ上がり、広場入口として象徴になってしまった渡り廊下を通っていく。崩れた山がさらによく望めた。 「もうすぐ死ぬんだよ。君を置いて死んでしまうんだから。我等(おれたち)にとっての一瞬じゃん。諦めよう…?」  ヒュインは美術館へ入った。何の管理もされていない、暗い館内には油絵が飾ってあった。銀髪に紅い瞳の子供が養豚場に眠る姿の絵。銀髪の子がこの街で見た地形のまだ村といったところで舞う姿を描いた絵。海から空へ舞い上がる、蛇のような怪物の絵。光を纏った牡鹿に似た獣を森の木々の中から覗き見ている絵。 「諦められないんだね…我等(おれたち)は、人間(ヒト)が火を見つけたみたいに…人間(ヒト)夢幻(かみさま)を見つけたみたいに…あの男に触れてしまったんだよね」  レモンを摘む少年の絵の前にヒュインはリーネアを下ろした。そこにだけ置かれた長椅子にリーネアはゆっくりと仰向けに寝かされ、真っ黒な腕を腹の上に柔らかく折られる。 「考え直して。まだ(きみ)(おれ)を見捨ててないなら」  ヒュインはリーネアの黒い斑紋が浮かびはじめた頬に触れる。  ほんの一瞬なんだから。人の生なんて一瞬なんだから、待って。待って。待って。ただ一瞬なんだから…  ヒュインはリーネアの脇に座る。  宴の焚火と化した村から足を引き摺り、命からがら逃げ延びた老人には息子がいた。子は幾人もいたが、この庶出の息子の素行の悪さと反抗的な態度を老人は毛嫌いしていた。ひどく目障りな息子が友や居場所を求め賊となったと知ったのは、姿を見なくなったと思い始めてからさらに経った頃だった。数年が経ち、その息子が火の不始末で死んだという報せが入った。その地での資産家だった老人に、金子(きんす)をせびるついでといった経緯で耳にしたことだった。どこからか連れてきた娼婦に産ませた子がいるという話を聞き齧ると、老人は暫くの間鬱ぎ込んだ。  老人は少年時代に、不思議な少年に出会った。真っ白な髪と血の気のない真っ白な肌に、金色に輝く瞳を持つ美しい少年だった。  ココナッツの匂いがして、睫毛の重さを感じながら瞼が開く。いつの間にか嗅ぎ慣れた、嫌いな香りだった。 「また随分なお姿で」  頬や服や指に泥や土、葉や枝をなどの汚れを付けた男がいた。栗色の波打った髪にも泥が付いていた。 「コックさん…」 「もうコックさんじゃないですよねん。今は…そうですね、いい歳した風旅人(プータロー)といったところですか」  陽気にウィンキールは笑った。 「もう、ウィンキールじゃ、なくなる?」 「ええ」  ミュダルっていうんですよ、本名。ウィンキールは見慣れた、挑戦的な笑みを浮かべた。 「あの人の弟として生きますよ。今までの間違いも過ちも認めて、背負って…あとは見守るでも見届けるでもなく、ただ同じ空の下にいると信じるんですよ。信じるんです。疑心すらも抱きながら……だから親からもらったこの名も、すぐ捨てるんでしょうね。器量はそこそこの気風の良い嫁さんではなくて、貴方の親と結婚します」  リーネアの両腕の煤汚れは薄くなっていた。 「そんなことしなくてもいいんだよ…そんなことしなくたって…君らは…有限の生活に翻弄(ふりまわ)されるんだから」 「貴方たちにとっては一瞬なんでしょうけど、オレたちにとっては長いんです。長いんです、あまりの短さに嘆きながらも。多分人間だけではなく…貴方たちと違うものは全て」  ただ笑みを浮かべるられるだけだった。リーネアは身を起こす。 「ここで、何してるの」 「何をって。住んでるんですよ。この街は随分と不気味だ。人の気配がまるでない。おかげでお宝もがっぽり…ですが、もう意味もないことですね?」 「コックさん」 「せっかくだし、これ、貴方に返します」  ウィンキールは椅子から腰を上げ、館内隅にあった荷物を漁り、雑記帳を放り投げる。返す、と言われたがまるで覚えがなかった。軟らかな革で装丁され、綴じられている紙は焼けて傷んでいた。小さなタグがついた紐で巻かれている。中に書かれていたのは、回顧の日記だった。真っ白な髪と真っ白な肌に金色に輝く瞳を持った少年と出会い、別れるまでのことだった。彼は神の子と名乗ったという。全く話さなかった彼が少しずつ話すようになったこと、その声に胸を掻き乱されたこと、笑わない彼が少しずつ笑顔を見せるようになったこと、少しずつ惹かれ、それが一方的だとも思っていないということが長々と書かれている。結ばれることを望み、だが突然、彼は姿を見せなくなったらしかった。彼に対する胸中が書かれ、しかし忘れていたことを告白し、謝り、別れを告げ終わっている。途中から字が震えて歪み、羅列は大きく傾き、焦りが滲んでいた。 「全部読んだの」 「飛ばし飛ばしですけどね。苦手なんですよ、日記とか、人の飾らない本音って。甘酸っぱくていけない。思い出は美化されますから勝てません」  ウィンキールは肩を竦める。 「ところで貴方は覚えてるんですか、このご老人のこと」 「…多分ここに書かれてるのは…ぼくだけど、ぼくじゃないよ。ぼくなんだけど……ぼくじゃないんだ。人間は何を以ってその人と決めるのかな。顔?血肉?喋ったり考えたりしてること?周りの承認?ぼくたちは違うんだ。どれでもなくて。そういうの、無いから」  溜息が聞こえた。 「さぁ、人間(オレたち)は直感じゃないですか。もちろん誤差も齟齬もある。それだけ話せるなら大丈夫そうですね。びっくりしましたよ」  泥だらけの格好で麻袋からあれこれと取り出してまたどこかへ行くようだ。 「皆さんによろしくお伝えくださいね?なかなか下卑てもいましたが、楽しかった」  館内にココナッツの香りが微かに残った。煙草の匂いが弱く混ざっている。足音もなく、気配もない。日記帳をぱらぱらと捲る。傷んで固く、脆くなった紙が打ち鳴らされた。生まれついて足の悪い男だった。頭が良く、自然を好み、内陸に生まれたために海に強い憧れのあると話していた。もう何も聞こえない。手帳が床へと落ちて、美術館を出た。宿へと向かう。手放せない。手放せないのだ。羽撃いた時に掴んだ空に似ていた。ばちんと両腕が弾ける。墨汁の容れ物が爆ぜたようにリーネアの腕は黒を取り戻す。高く架かった渡り廊下を下りている間に、脚もまた痛みを伴って黒く滲む。ダント。口にしたが声は乗らない。ダント。汚れた白いワンピースがはためくばかりだった。裸足が石畳を叩く。ダント。足が勢いどおりに回らなかった。躓いて転ぶも、膝を打ちながらも瞬時に立ち上がり、宿に走る。地形が歪みでもしたのかと疑うほどに、宿が遠かった。腿までが真っ黒い痣に覆われ、上半身は指先から首までが変色していた。宿の扉に飛び込んで、止まれずに転んだ。煤けた絨毯に頬を這わせ、涙が出て止まらなくなった。刃物を研ぐ音がするのだ。来室者に構う様子もなく、砥石に剣が当てられていく。うっ、うっと嗚咽を漏らし情けない格好で暫く泣いた。起き上がって、窓の前で日差しを浴び、座り込む背中に飛び付いた。ダント。声は出なかった。力も入らず、そのまま広い背に崩れた。黄金の短剣が研がれていく。肩から滑り落ちて、鈍い摩擦を聞きながら黒い指先で背をなぞる。異国語しか、リーネアは書けなかった。老人の日記帳に綴られた言葉を記す。金属と石の摩擦が静かに消えてはまた起こされる。ダント。指先の感覚が消えて、砥石も黙った。揺れ動く温かな身体が止まる。 「許してください」  逆光してその表情は分からなかった。乾いた唇が日に照った。いやだ。許さない。口ばかりが動いて、声は出なかった。許している。何でも。ダントプントがすることなら全て許すのだ。ただそのためだけにいる。全て放り出して。 「ごめんなさい。貴方の気持ちには、答エラレナインデス」  潮騒が耳の奥で響いた。ダント。ダント。呼ぶが声はもう出ないのだった。潮騒ばかりが聞こえて、ダントプントの声は遠くなる。許してください。それからは波音だけに支配され、砥石も短剣も沈黙した。きっと何かを語ったし、おそらく何かを訊ねたのだろう。だがリーネアには聞こえず、話せなかった。表情すらも見えず、潮騒の音と靄の奥で揺らめく光しか感じられなかった。  改めよ、改めよ、改めよ。改めるのだ。  考え直せなかったよ。考え直せなかったよ。考え直せなかったんだ。ごめんね。まだ我(きみ)に託してても…  リーネアはふらふらと立ち上がった。 「あリがとウ」  抑揚なくそう言って、部屋を出る。タンバリンの音がシャンシャンと鳴った気がしたが、あの踊り子はもうタンバリンなど叩かないし、カスタネットを鳴らすこともなく、ひらめいたスカートを回して踊ることもないのだろう。合唱を空に聞き、リーネアの身体は真っ黒に染まると、羽毛や羽根を散らして消え去った。 ◇  ほら見ろ、ほら見ろ、ほら見ろ!  ヒュインは襲う圧迫感に、胸を押さえた。膝を着くと、床に唇を落とし、それから指先に唇を当て、その手をよく晴れた青空へ掲げた。涙が床に落ち、震えた片手に引き寄せられたまま床に伏して暫く泣いた。広場へ走って、様相を変えた海原と対峙した。あの少年は、助言を聞くことなく故郷を捨ててしまったのだ。  もう少しだけ待って。もう少しだけ待ってよ。もう少しなんだ。その後は…  ちゃんと(もど)るから…。涙が止まらないまま海に語りかける。波の奥深くで何かが蠢いている。ヒュインは細い息を吐いて、鼻を啜る。目元を拭いながら、下唇を噛んだ。  (おまえ)を泣かせた!(おまえ)を泣かせた!(おまえ)を泣かせた!  潮風が銀髪を撫ぜる。丸一日、そこに立ち尽くしていた。潮風がヒュインを慰め、潮騒が宥める。  ちゃんと(もど)るから、もう、ここには来たくないよ。もう(だれ)も来たくない。  轟き続ける海が荒れ狂い、青空が赤く憤りを見せる。ヒュインは真っ赤になった紅い瞳を見開いて水平線を眺めることしか出来なかった。首が動くことを拒否して、石畳を靴裏が擦った。背後に現れた気配に気付かなかったのは、(とも)を失ったせいだ。そうに違いないのだ。固唾を飲んで振り返る。一縷の望み呆気なく散る。あの男が立っていた。 「もう二度と顔を見せないでって、言ったのに」  黄金の短剣をぶら下げて、男は笑った。 「死にます。是非死にます。君が望むなら、死ねます」  事も無げに男は柔らかな笑みを浮かべたまま、幾分優しさまで含んだ声音で言った。ヒュインは胸を押し潰されたような感覚から一気に息を吐く。言葉が出なかった。何も浮かばなかった。喜びも躊躇いも浮かばない。空が赤く変わって、海がけたたましく唸る。 「あなたは…」  足音が無数に聞こえた。地鳴りを携えて。空が赤く憤り、海は黒く唸る。 「放っておいたって!あんたは死ぬんだ!」 「君が望むなら、俺は君のためだけに死にたい」  ヒュインは銀髪を掻き毟った。毛先を引っ張って、頭を振り乱す。 「お互いが仇同士なんです。悪い話じゃないはずだ」 「なんでだっ!なんでだよっ!なんでっ!」  紅い瞳が光を放つ。頭を抱え喉が張り裂けるほどに叫んだ。広場へ、紅い瞳を光らせて街の人々が姿を見せる。 「ヒュインくん」  狂乱状態のヒュインに一歩出ると、ダントプントの頬を石が打つ。ふらりと石畳へ転倒し、ダントプントは広場を囲う無数の人々を見回した。老若男女問わず、紅い瞳を剥いている。赤い空が暗雲を漂わせ、潮風は止み、海が鳴く。 「やめて、逃げてヨ、逃げて、ダントお兄さん…」  海が轟く。ヒュインは乱れた前髪の奥で妖しく光る紅い瞳をダントプントに一度向けたが、頭痛に耐えるように自身の髪を鷲掴む。無数の石がダントプントに投げられた。火傷痕の消えた柔肌に血が流れていく。ヒュインは混乱した様子のまま無防備に石の暴風に晒される男に覆い被さる。銀髪や褐色の肌に当たると石は石畳へ転がった。この街はどこも隅まで石畳に覆われていた。だが確かな痛みを持ってヒュインとダントプントを苛む。拳ほどの石が左右から2人を狙う。ヒュインは肝を潰して赤い空を見上げた。  ごめん、ごめんね、ごめんなさい。(ボク)、やっぱり、この人のこと…  ダントプントの腕を引いて胸に抱え込む。深緑の森に咲いたばかりの涼やかな花の香りが鼻腔を抜けた。ふ、と息を吐き、石が耳の先を持っていった。 「ヒュインくん…!」 「あっ、あっ、ダメだヨ、ダントお兄さん…」  腕の中で暴れられ、ヒュインは身体中に当たる石飛礫(いしつぶて)に耐えながら力強く抱き締め直す。頭を守る手の甲に石がぶつかった。激しい痛みと休む間も無い衝撃にヒュインの朗らかな声は潰れた。 「あうぅ、」 「ヒュインくん…」  街の人々は紅い瞳でヒュインごと、その腕の中のダントプントへ礫を擲つ。皮膚を抉り、骨を軋ませる。ふと盛り上がり海を見たヒュインはその隙に目蓋を打たれ、愛しさを覚えた黒髪へ顔を埋めた。石ころというには凶暴な石が銀髪の側頭部に入り、ダントプントを守る壁は崩れ落ちる。 「ヒュインくッ!」  抱き起こされ、翠の潤んだ瞳を見上げる。その瞳の奥を見ると、抉り剥がれた肌よりも、潰れた片目よりも、砕かれた頬骨や頭蓋よりも、今では胸が締め付けられる苦しみに耐えられないのだった。  石打ちの刑に処されたことがある。随分と昔のことで、それはヒュインであったがヒュインではないものの記憶だった。銀髪に紅い瞳を持った少年の終末だった。土に埋められ、村人たちが愉悦を持って石打ちなどというには生温い、岩のような大石で凶兆の子を嬲るのだ。痛みに身動ぎ膝を折り、助けを乞うて叶わなかった。誰かが彼等を統べなければまた同じ者が増えるのだと嘆いた。悲しみが痛みに変わり、痛みは怒りに変わり、怒りは虚無へと失していった。死肉を貪る黒鳥に問うた。黒鳥は空へと、長い時間をかけ無惨に嬲り殺された少年を連れ去る。  (おまえ)を泣かせた!(おまえ)を泣かせた!(おまえ)を泣かせた!  石が黒髪を掠める。顎を打って、口の端から血が流れる。震えた褐色の手がその傷に伸びたが、石の塊が手首を打った。さらに手を伸ばしたダントプントの肩にも一撃入った。落ちる掌を握り指を絡める。ネぇ。触れた先がばちりと光り、ぐったりとしたヒュインの胸を真っ赤な水晶が突き破る。人間に、なりたかったヨ。赤い空から光が射し込んだ。空の脚のような柱が広場を囲む紅い瞳をした執行人どもを踏みつける。がしゃりと音を立て、紅い砂礫と化して石畳に崩れて散らかった。  光り照る胸を掻きながらヒュインは、己が立場を鑑みれば随分と短い間探し求めた仇を前に息絶えた。胸を突き破った紅い石は砕け散り、粗末な平服の繊維に落ちた。取り戻された静寂は一瞬だった。空が轟き、盛り上がった海が竜巻く。長い髯を揺蕩わせた蛇に似た、巨大な怪物が海から飛び上がった。風圧で広場の周りの建物が軋み、古い民家は傾き、崩れる。石畳に嵌め込まれた石が躍った。銀色に照った長い胴を持つ海蛇に似た怪物は広場へ高く嘶いた。風圧がダントプントを吹き飛ばそうとした。だが呆然とした青年は死体となった銀髪を抱いて、怪物に怯える様子も驚く様子もなかった。膝に乗せた踊り子は血に塗れていた。片目は抉れ、顔半分は潰れていた。噛み潰した唇に口付ける。憎むべき仇同士の接吻は血の味がした。  海から現れた長い怪物の鯰に似た髭が緊張し、ダントプントへ咆哮する。石の嵐が止んでいることも、些末なことだった。膝の踊り子へ涙と血が滴った。荒ぶりそうな鼓動をダントプントは落ち着かせようとしているらしく、息を詰まらせる。項垂れ、踊り子の傷のない箇所の肌理のひとつひとつを見逃すまいとばかりだった。絡めたままの指に自身のものごと唇を落とす。指を放して、肉の削がれたの頬へと力の無い掌を当てた。鉄錆の匂いの中にはっきりと、甘やかな柑橘と涼やかな木漏れ日の和やかな香りが慎ましく生きていた。タンバリンを叩き、カスタネットを鳴らしていた掌の感触を張り裂けた剥きだしの皮膚に刻み付け、痛みの中で堪能し、赤く汚すとやっとダントプントは光が漏れている赤い空を見上げる気になった。海の匂いが、甘やかな香りを上塗りするようだった。  海蛇の怪物は魚の尾鰭に似た尻尾で海面を叩き、波が高く連なる。クレシエンテ号に括り付けられていたはずの、空に遊ぶ大旗が遠く浮かぶ雲に飛んでいった。

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