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第9話

 舐め解し、指を挿し込む。縦に伸びた粘膜が躊躇いながら中指の根元まで呑み込んだ。 『痛くない?この様子は痛くないカナ?』 「あ…ぁっ…ぅ、ん……、ん…」  内膜を撫で、それから踊り子は前を寛げた。羽毛と羽根が散り、踊り子は角に頭を歪ませたリーネアへと変貌を遂げる。ダントプントは上体を起こし虚空を見ている翠玉で、脚の間にいる者を確認する。焦点の合わない目からまた大きな水滴を垂らした。リーネアは真っ白な、人間の牡にあるはずの双珠が無い陰茎を持った。刺激することもなく真っ直ぐ固く芯がある。先端部まで白く、だが重みを持ってそのまま男性器の形状をしていた。ダントプントの膝を割り開く。半開きの口から唾液を垂らし、両の眦から止め処なく涙が落ち耳へ滑っていった。 「…ぁ…ぁあ…っ、」 「泣くか。その涙は喜びか。喜びであろう?打ち震えるがいい。賤しき人の子よ。その身に神を受胎することを。永き命と共に」  黒い髪が左右にゆっくりと揺れた。リーネアは閉じようとする微力な膝を開き直すと真っ白な陰茎で蠢く粘膜を一息に貫いた。 「あぐっ………ッ、!」  白濁した粘液がリーネアの目の前で飛沫を上げた。腹を痙攣させ、リーネアの侵入した器官を締め付ける。 『気持ちいい…?ここが、いいのカナ?』  先端の小さな穴から精液が覗いた。踊り子の声を出してその穴を指の腹で撫でた。 「ぁひっ…、ぁ、あァっ…!」  リーネアが(すもも)のような先端部を弄ると臍の下の筋肉が蠢き高い声を上げる。 『ボク、動いたほうがいいよネ?』  リーネアは腰を引いた。肉色から薄紅色の粘膜を絡ませながら白い根が外気に触れた。体液に濡れて照った。抜けそうになるまで離し、そして勢いよくリーネアの腰とダントプントの腰がぶつかる。 「ぁ、ぅうっ…く…ん!」  リーネアの腹を突っ撥ねようとする手を取って、何度も最奥を突く。眉根を寄せ、目を瞑っていた。金縛りと酩酊状態にしたが、それでも効き目が薄れている。 『気持ちいい?お腹の奥で気持ちよくなろっか?』  臍の下に掌を当てる。緊張している身体が戦慄いたが、リーネアはさらに奥まで穿った。腸壁が大きくうねり、真っ白な陰茎を奥へ奥へと誘った。直腸一帯を性感帯に変えてしまうとシーツを引っ掻く音がした。 「う、うう…っ、あ、ああ…、ぁっ!ぁ…!」  腰を下げ、背を弓なりに反らしまた伸ばして背中をシーツへ打ち付ける。 『気持ちいい?寝ちゃっていいんだヨ。気持ちよくなって、寝ちゃおうネ?何も怖くないから』 「アっ、ぅう…ぁう、…あひぃ、あ…っんんッ」  リーネアから離れようと腰を揺らし、だがそのたびに角度を変えて内側に触れる異物に苛まれ、頭を左右に激しく振りながら下肢を震えさせた。 「ぁ………ぁ、あ…」 「戯れはここまでよ。ここに放つ。悪く思うな、リーネア。この者は助からぬ。身籠り、永遠の命さえ授けよう。悪く思うな、リーネア」  リーネアは首を傾げて止まった。一撃腰を押し込むとダントプントは痙攣を起こしながら、咳込み、嘔吐きながら口内に横溢した紅い石をシーツに散らす。ぐるる…と他者の器官を挿入された腹の下が攣り、濁流の音が曇って低く響いた。瞠いたダントプントの両目は麗らかな浅瀬の翠からリーネアにも嵌め込まれた金へと変色していった。ダントプントの腹部は大量の激流によって圧迫され、そのたびに苦しいほどの快感に溺れているようだった。腹が膨らんでいく。 「ぁ…がっ…ァァ、ぅぅう、ぐ……っく…」  身体をのたうたせ、リーネアの猛り狂うものを受け止める。子を宿した人の牝と同じように臍の辺りが大きく膨らんだ。引き付けを起こして喘ぎ、紅い石を吐瀉する。シーツは紅い石と共に吐かれた唾液によって色を変えていたが、そこに墨のような真っ黒な液体が混じった。咽せながらシーツに点々と黒い汚れが染みた。 「じきに何も考えられなくなる」  シーツはダントプントの口から溢れる黒い液体を吸い取りきれなくなり、繊維の表面に溢れて床へと滴る。口内から落ちていく紅い小石も黒い液体に巻き込まれていった。リーネアの白い手が大きく張った腹を撫でる。呻き声を上げてダントプントは横を向こうとするが、膨張した腹部のために叶わず首を波打たせてまた墨と小石を吐き出す。金色に変わった瞳子が光る。 「ヒュ…イ……ンく、………ん」  ぐったり力を失った身体から、シーツを鷲掴んでいた腕が持ち上がり、何も掴むことなく落ちていった。  大雨の降る街は雨音と遠雷、時折地響きだけで人の姿も気配も消えた。リーネアは繭を突き破り、呼ばれるほうへと進んでいった。店主も他の宿泊客もいない宿を出ると踊り子・ヒュインが赤い傘を差し、宿の向かいにある建物の下で立っていた。鼻血の汚れが残った白のワンピースを1枚着ているだけのリーネア裾から伸びる脚は山羊のように細く固く変わり、白の毛に覆われ足は蹄になっていた。  なんで。  ダントプントが何度も嘔吐した紅い石によく似た双眸がリーネアを捉え、言葉にせず問うた。  なんで?くだらぬことを問うな。従わせたまでよ。  踊り子は顔を歪めた。掌で顔を覆う。赤い傘が落ち、石畳を転がった。  まさか本気で好いていたわけではあるまいな。  蹄を軽快に鳴らしながらリーネアは短い階段を降りた。顔を隠して肩を揺らす青年に近付いていく。  何に対して涙を流す。やつが永久(とこしえ)の命を手にしたことか。我が身を産むことか。同類(とも)を失うたことか。  踊り子は答えず、じっと腕に顔を埋める。閃光が走り、雷鳴。土砂崩れを告げる地響きに建物が揺れる。紅い瞳が鋭くリーネアを睨む。雨音だけに戻り、赤い傘は強風に煽られ転がった。 ◇ 「…ダント!」  リーネアは飛び上がる。固い寝床がぎぃ、と鳴った。壁に人影が揺らめく。 「起きたんだ。具合はどう?大丈夫かな」  褐色の掌がリーネアの額に触れた。体温を確かめるように顎や首にも触れた。 「おにいさん…」  リーネア自身は知らないが、見たことのある室内だった。狭く埃っぽい、粗末なテーブルと椅子と、布の掛けられた木箱。目元や頬、口角に痣を付け、血を滲ませたヒュインを視界に入れながら何か大切な引っ掛かりを手繰り寄せようとするが、それらしきものが思い浮かばなかった。青い痣が大きく残る目元をしたヒュインは眉を下げてリーネアの片腕を摩る。黒ずんだ痣が浮かんでいる。揉み消すように肘までを撫で、両手で包んだ。 「動いて大丈夫なの。どこも痛くない?」  頷く。ヒュインは、それならよかったと笑った。雨は降り続き、部屋はカビ臭かった。 「おにいさん、転んだの?」  空いた手で触れようとしたが制された。 「転んでないよ」 「なんで怪我してるの?」 「なんでだろうね」  ヒュインはリーネアの手をそっと下ろさせる。片腕の黒痣を揉む踊り子の銀髪に透けた額を凝視した。  1階に住む、リーネアは顔も知らない資産家の息子がヒュインを殴った。酒瓶を掴んで、頭へ叩き付ける。額から血を流して転倒するが、男は何か怒鳴りつけ、髪を掴んで、また殴る。顔面が赤く染まるまで嬲っていた。抵抗はまるで見せなかったが防衛の仕草すら見せなくなると引っ張り、雨の降り注ぐ外へと放り出した。血が雨に洗われ、傷が塞がっていく。酒瓶を投げ付けられ、扉が閉まった。ヒュインは雨に打たれながら2階へと回る。  もう少し眠るかな。ヒュインの問いにリーネアは我に返った。口角の傷が消えている。頬の痣が黄色に変わっている。 「泣いてるの?」 「どうして人を殴ると、殴った人も痛いんだろうね」  ヒュインはうっ、と鼻を啜った。 「殴ったのが壁だって痛いよ。ピストルでも使ったら。剣もいいね。そうすれば痛くない。殴らなきゃいいんだ、痛いなら」 「うん。そうだね。殴らなきゃいいんだ。殴らなきゃ…」 「ぼくが殴ってあげようか。殴るだけでいい?」  訊ねるとヒュインは面食らう。痣だらけの片腕を撫でる手が止まる。 「君の手はそんなことのためにあるんじゃないだろ」 「おにいさん?」 「なに?」  リーネアはヒュインの前に跪き、今まで自分の片腕を撫で摩っていた手を取ると4本並んだ指に唇を落とす。上目遣いでヒュインの様子を伺った。 「おにいさんは…おにいさんだよね?唇焼くって言ったから?」  無数にシーツの上を転がった砂利のような紅い透き通った石に似た瞳が逸らされる。笑みが消えた。 「あの男の肉体は香雪蘭(フリージア)のように馨しかったかな」  リーネアの白い頬を掴む。触れたところから黒い染が滲んで、皮下を蠢いた。 「父親が母親を陵辱して産まれた。ボクも彼も。そして…君もそうなるんだよ」  白い手が褐色の腕を引っ掻いた。頬を掴んだままヒュインはリーネアの小さな身体を持ち上げ、引き摺った。 「あの腹から何が産まれる?人間と交わったその過ち、多分次の君は忘れてるだろうから、ボクは覚えておいてあげるよ。だって君はボクで、ボクは君。だって同類(きょうだい)なんだから」  汚れてしまった新品のシーツによく似たリーネアを投げ捨て、ヒュインは埃臭い部屋を出て行った。  小さな漁村に娘がいた。18になる娘は歳の離れた妹や弟、そして足の悪い母親の世話をしながらよく働いた。畑仕事や青果商の手伝って生計を立て、漁に出る男衆に飯を作ったりなどして海産物を分けてもらうなどして生活をしていた。村は小さかったが食うに困るほど貧しくはなかったし、かといって豊かというほどでもなかった。この村に海賊が訪れたのはひどく乾燥した寒い季節だった。広く大きな真っ赤な焚火が村を呑んだ。海賊たちは村人を斬り捨て、女を犯し、食料や物品を奪っていった。村の中でも特に若く、艶のあった娘は海賊たちに攫われていった。真っ赤な炎に抱かれた村へもがきながら娘は海賊船に押し込まれていった。  晴れた外から入る陽射しに、蜘蛛の糸のような白の繊維や床を埋め尽くすように散った羽根や羽毛は輝いていた。ヒュインは陰った繭に近付き、破られた穴をさらに大きく剥いだ。ベッドを包み込むように糸はアーチを描き、中はひどく汚れて散らかってもいたが、ヒュインの嗅ぎ慣れた匂いが充満していた。ベッドの上の変わり果てたダントプントを目にすると強く拳を握り締めた。深く呼吸を繰り返し、肥えた人とはまた違った腹の膨らみ方をしているダントプントの傍に寄る。投げ出された手を取り重ねた。ダントプントの手の方がヒュインの手よりも少し大きかった。火傷の痕に覆われていたはずの、繊細な皮膚を確かめ、感触を愉しむ。乾いた唇に惹き込まれ、ヒュインは身を屈めて舌先で少し色の悪い粘膜を濡らす。  人間に毒されたんだね?人間に毒されたんだね?人間に毒されたんだね?  毒されてないヨ。ちゃんとやる。でもこんなの違うヨ。ちゃんと、ちゃんと、この人が苦しんで、悲しまなきゃ。だから待って。お願い、待って。  艶やかで潤いのある爪を光らせながら膨らんだ腹を撫でる。固く目を閉じた。  ちゃんとやる。ホントに。待って、お願い。待ってヨ。  待ってるよ。待ってるよ。待ってるよ。  小さな丘と化している下腹を摩ってから臍に口付ける。張っているため薄くなっている皮膚の下に血管や組織が透けている。空は晴れているが、暗雲を飲み込んだような心地でヒュインは下腹部にも唇を落とす。  助けて嫌だ化物はいやだ、化物は怖い…  ヒュインは深く呼吸を繰り返すだけのダントプントの伏せった睫毛から目を離せなくなってしまった。助けて。怖い。化物はいやだ。化物になりたくない。  黒髪に指を入れる。額にキスして、投げ出された指にもキスする。無防備な胸に爪を立たせた。 「あなたの産んだものなら、ボクは何だって…」  あとは口が動いただけで、声が伴わなかった。  愛情とは勝手に湧き上がるものでないんだ。  養父が言った。ヒュインには親がいなかった。紅い瞳を持った嬰児を森で拾った翁は発育も理解も遅いヒュインを少しずつ育てていった。  親を悪く思うな。きっとお前を愛そう愛そうと思って、愛せなんだ。  養父の指を握り締め、歩きながら花の蜜を吸う。 ――恨んではいけない。恨んでは…赦しあわなければ。苦しみを乗り越えるのは困難だから。困難だから打ち克っていってこそ…偉大な生命と成り得る。  偉大な生命って何さ、偉大な生命って何さ、偉大な生命って何さ。賤しい人間が何を背比べする気なのさ。  黙れヨ。賤しかろうと尊かろうとお父さんはボクの…親だったんだから…  騙されちゃってさ。ボクの上げた報告と、全然違うじゃないか。  空いた手でダントプントの投げ出された指を握り、胸に掌を当てる。  ボクより先に触れた、お父さんなんだから… 「う…ぅう…ぁ」  ダントプントは呻き声を上げ、身重のからだが身動いだ。張り詰め膨らんだ腹が凹んでいった。激しい空咳を繰り返し、そのうち水気をまとった咳嗽へ変わり、ダントプントは黒い粘液が混じった白い液体を嘔吐した。胸が上下し、吐き出すたびに腹が凹んでいく。胃が痙攣していた。首を横に向け汗ばんだ手を手巾で拭う。金糸を織り込んだレモン色の刺繍糸が照った。  おやおやおやおや?おやおや?おやおやおやおや?おやおやおやおや?おやおや?  ダントプントの胸に当てた掌が震えた。汗の浮かぶ肌に、ヒュインの汗が滴る。  永遠の命を手にする?ふざけるナ!殺してみてもないくせにサ!  濁った液体を吐き続ける首に両手を回す。ヒュインの浅い呼吸が咽いで嘔吐(えづ)き、咳き込み、吐瀉する音に重なった。初めて顔を見た時の衝撃を忘れられなかった。日の輪を被った濡れたような黒髪や、歪んで汚れたガラスの奥の、澄清を映した清らかな浅瀬を覗き込める瞳。若い牡鹿を思わせる健やかな肉体。弾力のある小麦色の肌。笑うと目元が柔らかくなり、髪や頬を撫でられたくなってしまう相手。声が耳に纏わりつく。体温が、触れた場所を主張する。野原に咲く花と新緑を脳裏に描く身に染み付いてしまった匂い。咳と嘔吐で上下する喉の隆起に添えた親指ふたつが、その固い実を呑む肌に沈められなかった。  いいの?いいの?いいの? 「あ…っぐ、ぅっあぁ…」  ただ首を振るだけで抵抗を知らない。唾液と吐瀉した液に汚れたその唇を貪った。口腔に鎮座する舌を起こしたが、何の反応もなかった。  違う、違うヨ。今は…今は、まだ…  口内や唇、頬を汚す、他の者の液体を舐め取り、苦しげに歪む目元を覆う。 「さようなら。あなたが好いたボク」  乱れた掛け布を、すでに何も孕んでいない腹に投げ捨てた。  何十人、何百人の海賊たちに身を弄ばれた娘の腹が、少しずつ膨らみはじめた。暖かい日が続き、海原が煌めく日が続いた。海賊船は大きな町に着き、船体の修繕とともに娘は船大工によって発見され、焼き払われた村から遥か遠く離れたその町へと放り出された。町にはある海賊が1人残ることにした。娘の腹の子の父親を名乗り、船大工が預かった娘を娶り、町に住み着いた。ブラウンの髪にブラウンの瞳をしたその男は特に娘をよくいたぶっていた。町は蒸した暑い気温が続く日々から段々と乾燥し肌寒くなる日々へと変わっていた。霜が降りる朝、娘が子を産んだ。髪の黒い、深い翠の瞳。男は怒り狂った。娘は黒髪でも翠の瞳もしていなかった。男は暴れ、娘を殴り、産まれたばかりの子を焚いた火の中に放り込むと出て行った。海賊の家族と恐れ慄き遠ざかっていた町民たちが物音と怒声に気付き、火の中の子を抱き上げた頃には、娘の弱った身体はすでに冷たくなっていた。  両手に煤がこびりついたように、黒くなっていた。鼻血が床とワンピースを汚していた。はっとして飛び起きる。ダントプントと交接し、粘液を腹に注ぎ込む頃合いだった。狭く埃っぽい部屋を飛び出した。外の晴れた空気を吸って突然落ち着いた。煙草の匂いが漂っている。階段を駆け下りていくと、対面の建物の脇でウィンキールが紙巻きの煙草を吹かしていた。 「別れを告げに来ましたよ、姫様。世話になりましたね、色々と」 「コックさん…」  リーネアは口から煙を吐き出す姿をじっと見ていた。肩の力が抜けた。この男について、何か掴み掛けていたが思い出せなかった。金色の視線に気付いたのか、強い日差しの陰から日向を眺めていた空色がリーネアを躊躇しながら一瞥する。 「そろそろ出て行きますよ。あの船もそろそろ修復し終わるでしょうし、挨拶も面倒ですから」 「ダントのことは、どうするの?」 「…オレは、義兄さんがやっぱり好きだから…こうするのが賢明なんです。どうしても、オレは愛しているつもりで、だのに義兄さんには、オレですら愛してるとは思えないことを迫ってしまう。正しいかは分からないけれども、オレは離別を選びます」  砂に似た灰が石畳へ舞った。話は終わったのだ。紙巻き煙草を摘んだ手が下がり、また紫煙が立ち昇る。眩しいくらいの日照りが石畳を通して網膜を刺す。 「だめ、だよ」 「なんです?」  去っていきそうなウィンキールの前に立ち塞がった。 「ダントはコックさん居なくなったら嫌なはずだもん。家族捨てたとか言うけど、一緒に居たいはずだもん…」 「…そうですね?そうですよ。そうなんです。全くその通りだ」  金属の丸い容器にウィンキールは短くなった紙巻き煙草を潰して入れた。この街に来たばかりの頃は吸殻が散乱していたが雨に流されていた。 「じゃあ…」 「言葉で説明は、多分出来ませんよ。出来たとしても理解出来ないかも知れない。貴方が化物だから、とかではなく。でもこれがあの人の選択で、オレの選択ですからね?」 「ぼくは君を操り人形にだってするよ」 「それならしたらいいですよ。オレが泣いて暴れて嫌がったって、貴方にそうする能があるなら、オレは為されるがまま屈するしかない。でもね、分かってるんですよ。(いえ)…、分かってしまったんです」  リーネアは口を噛む。 「貴方もきっとそれが分かってるんじゃないですかね?それはもしかしたら貴方にとって、甚だ荷厄介なことかも知れませんねぇ?」  ココナッツの香りが離れていく。待ってよ、と言えば簡単に足を止めた。 「理想化も誤魔化しもできない、出来のいい模倣を飼ってしまうと屁理屈もわがままも通らなくなるんです。結局ただの忖度ですけど、義兄さんも同じ思いならよかった」  甘い匂いと煙草の匂いを乗せた風がリーネアを宥め、ウィンキールは止めた足を進める。 「ぼく、コックさんのこと嫌い。本当、大っ嫌い!」 「そうですか。でもオレは義兄さんと居られる貴方が羨ましくて、疎ましくもありますけど義兄さんが貴方に絆されているのなら貴方のこと、大切ですし簡単に好きになれますよん?」  鼻血で汚れたワンピースを鷲掴む。動けなかった。日陰の中を歩いていく、波打って揺蕩う栗毛を毟り取っても引き留めたかった。人気(ひとけ)のない町にリーネアの嫌い、大嫌いという喚きが響いた。建物たちがリーネアの喚きを復唱していく。  ヒュインくん…その…ありがとうございます。  うん、晴れてよかったよね!恵みの雨も、ずっとだと厳しいから。  小さくなった気に入らない経歴詐称しか視界にはいなかったが、ダントプントと踊り子の会話が脳裏に浮かんだ。緩やかな波の見える広場。  でも…その、意外でした。弟と知り合いだったなんて…  リーネアは広場へ走る。  どうしたの?暗いカオして。こんな晴れてるんだよ?おれ、真っ先にダントプントさんに会いたかったんだ!  紅く光る瞳が子犬の皮を被ってダントプントの手を握っていた。ダントプントは腹の膨らんだ様子はなく、軽々と舞うように進む魔憑きの男に引かれるままだった。  ヒュインく…ん…  おれ、踊り子やめるから…だからダントプントさん。おれはもうあなたのものだよ。  どうして……  初めて見たときから好きだったんだよ…ね、見せて?  魔憑きの野良犬はダントプントを胸に抱きついた。少し上にある顔に触れる。ダントプントは顔を逸らした。無遠慮に魔憑きの男の指はダントプントの肌を撫でた。  おれは嫌いだなぁ…  火傷の痕が消えた頬を、褐色の掌が叩いた。肌を張った乾いた音と、波の音が広場に聞こえた。リーネアは広場に着いて、魔憑きの銀髪の前に尻餅をつくダントプントの姿を捉えた。 「ヒュイン…くん…?」  頬を押さえて、紅い瞳で波を遠く眺めている銀髪を呆然と見上げていた。リーネアは走り寄って肩を抱いた。身を大きく揺らして翠の双眸が一瞬にしてリーネアへ意識を全て移した。 「触らないで…っ!」  黒ずんだ手を撥ね退けられた。海を眺めるヒュインの口元が吊り上がった。 「ダント…」  ダントプントの手に当たった指が痛かった。怯えた様子でリーネアから離れようとする。ヒュインはただ笑っていた。 「どうなってるんですか…どうなって…」  頭を抱えてひどく混乱しているらしかった。リーネアは立ち尽くし、離れようとするダントプントを見下ろした。種を付け直せ、種を付け直せと命じられている。目の前にある腹からは何も感じられなかった。産み付ける種が全て流れ出ている。 「自害して」  キンッと耳を劈く高い音が鳴り、リーネアとの間、ダントプントの前に金に輝く短剣が回転しながら投げ落とされる。それを拾い上げるより先に止まらなければならなかった。ピストルを向けられている。  どうせまた産まれるよね?どうせまた産まれるよね?どうせまた産まれるよね? 「自害してよ。清算して」  向けられた銃口にリーネアは恐ろしくなった。子供に投げられた石よりずっと痛いのだ。痛みなどないかも知れない。ダントプントには会えなくなるのか。会えるだろう。だがダントプントに気付かれることはなくなる。声は届かない。触れることもない。しかしダントプントが死んだなら。 「いやだ、やだ…っ!」  雷鳴に似た破裂音がした。気に入らないコックが吸う煙草より刺す臭いがした。 「…ボクに同類(ともだち)を撃たさないでくれるカナ…?ね?」  リーネアの黒く煤けながらも白い腕に赤い線が引かれ、裂け目から小さな玉が浮かび、形を崩す。痛み。刺激臭。爆音の後の静寂を揶揄する波音。 「分かり…ました…」  眼鏡のない俯いた顔。目の前にある短剣に手が触れた。短く丸みを帯びた柄を掴んで、鞘から引き抜く。手首から中指の先程までの長さの短剣は大きく反り、ダントプントは刃を自身の首に向ける。 「求めれば…なんでも、応えるのかよ…?」 「君だからです。君のために出来ることなら、やります」  咽喉に刃先を当て、狙いを定めてダントプントは首へ短剣を突き刺そうとした。しかし黄金の切っ先がその喉を貫くことはなかった。広場の石畳に血が滴る。伏せられた睫毛がおそるおそる開いた。 「お養父(とう)さんのこと殺したくせに!こんな簡単に…おれの…」  獲物を捕らえ損ねた短剣は持主の掌を傷付け、軽快な音を立て落下する。ダントプントはヒュインの顔をじっと見つめた。眼球が転がり出てしまうほど大きく目を見開いていた。 「もう二度とそのツラ見せるな……二度と会わない……もう二度と…」  引き笑いに似た息遣いのヒュインは大きく肩を落とし、上半身にさえ力が入らないようだった。 「待って、よ…」  銃口が下り、リーネアはやっと動くことができた。踵を返したヒュインを呼び止めるが、その歩みは止まらない。 「死にます。是非死にます。君が望むなら…」  ダントプントの声にも反応を示さないまま、爽やかな香りを残していく。 「待ってよ、ねぇ…!なんで…?」  石畳を蹴って転びそうになりながら踊り子の固く細い脚に縋り付く。 「君は目が曇ったんだよ。それと、おれも。人間になんか関わるべきじゃなかった。声が聞こえないの?」  リーネアひとり分の体重を感じさせることもなくダントプントの距離は開いていく。 「ダント殺して何になるの?満足?楽しい?……ぼくじゃ代われないの?」 「何にもならないよ。お養父(とう)さんは帰ってこないよ。もう産まれてもこない。会えないよ。人間の幻想に、おれらは付き合えない…君も、…それでおれも、もうほぼ人間だから」  帰っておいで!帰っておいで!帰っておいで!  ヒュインに語りかける声はまだリーネアにも聞こえていた。 「君はあの男が惜しい?あの男にとって君は惜しい?」  ヒュインは真っ白な頭を剥がすように押した。黒焦げの落ちない白い腕が括れた腰を抱き、黒斑の浮かぶ脚が動く踊り子の筋肉を締め上げる。 「コックさんのとこ行くの…?コックさんはやめて!」 「だって!だってあの男にとって大事なのは!自分じゃない!それなら何を奪ったらいい…?あの義弟しかいないじゃないか」 「奪わないでよ、ここで終わらせて…人間にもなれない、化物のおにいさんで終わらせてよ…!」  髪が捕まれ、引き倒される。石畳に腰を打ち付ける。紅い瞳が滲んでいた。 「お養父さんがおれを人間にしてくれた。化物のおれに、ご飯の味とか、布団の温かさとか、洗濯物の匂いとか…!何かを殴ったら痛いことも…!なぁ、あの男を討ち取ったら、君はおれを、どうするのかな…?」  ヒュインは膝を着いて、リーネアの両肩を握った。焼け付くような痛みがあった。煤のような黒斑が両肩にも広がっていく。 「どうしもしないさ」 黒が染みていく肩を突き飛ばし、石畳に膝を擦り剥いたリーネアを振り向いて、眉を歪めた。 「するよ。するんだ。するに決まってる」

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