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第1話 一目惚れ

一 一目惚れ  俺の名はは設楽吾郎(しだら・ごろう)という。  大手電機メーカのOFDという会社の技術者だ。半導体回路の設計をしている。つまりIC(アイシー、インテグレーテッド・サーキットの略)チップを作っているのだ。携帯の中身やコンピュータの中身を見たことがある人は、その中の基盤に載っているゲジゲジみたいな部品を知っているだろう。あれを作ってるのだ。  毎日、コンピュータのディスプレイに向かってプログラムを走らせたり、計算してみたりと、脇から見るととても知的なことをやっているようだが、どっこい、実際は体力勝負の仕事だ。複数の人間が関わっているから、自分のために全体の仕事の進行を遅らせることは出来ない。そして最初から予定通りに進むこともまずない。よって、何週間も夜討ち朝駆け、もしくは会社に寝泊まりする嵌めになるのも珍しくない。  俺はどちらかというと寡黙で話題も豊富じゃないので、女の子と付き合ってもうまくいった試しもなかった。  ゲームなんかの話が出来ればいいが、毎日コンピュータに向かっている俺にとっては、ゲームなんかに興味は湧かなかった。それよりも気晴らしに旅行したり、時間が無い時は映画に行く方が良い。  俺には鳥居強(とりい・つよし)という親友がいた。  大学の理工科の同級生で3年間剣道部で張り合っていた。鳥居は俺の会社のライバル、ボニー電気というところに就職した。奴も半導体事業部に配属され、プロセス設計という仕事をしている。俺が半導体の中身を作る仕事で、奴はそれを作り込んで仕上げをする仕事だ。  鳥居は俺と同じ東京に住んでいるが、地方の工場に出張が多く、あまり家にいない。  奴の両親は父親が引退すると九州に帰り、東京の一軒家を奴に残した。築何十年というおんぼろ木造で、狭い長方形の土地に建っているので、一階は台所、風呂場、便所で、奴の部屋は急な階段を上った二階にある。三階は物置になっていた。俺はここによく泊まらせて貰うのだ。合い鍵の在処も教えて貰っている。  俺は何ヶ月もかかった大プロジェクトを終えて、ようやくリラックスした気分になっていた。鳥居に電話すると奴も出張から帰ってきて家にいる。俺は一升瓶を持って夜の九時頃、鳥居の家に出かけた。  錆びだらけの小さな鉄門を開けて、俺はがたぴしゃいうガラスの引き戸を開けて玄関に入った。 「よう!鳥居!来たぞ!」  すると奥の台所から割烹着を着て出てきた者にびっくりしてしまった!  高校生一年ぐらいか!瓜実型の顔をして、肩まで艶のある黒髪を垂らした女の子だった。 「あ・・・す・・・済みません・・・俺、設楽と言います」  その可愛い女の子はくすと笑うと、 「兄のお友達ですね!二階で待ってますよ」  俺は固くなって靴を脱いで二階に上がりはじめた。 「コーヒーでいいですか?」  彼女が階段の下から聞いた。 「は・・・はい!お願いします!」  俺は急な階段を這い上がって鳥居の部屋に入った。そして奴の肩をひっぱたいた! 「おい!なんで妹さんが来ていることを言わないんだよ!」  鳥居は眉をしかめて、 「妹?・・・あ、ああ!忍(しのぶ)のことか!」 「忍さんか!しかもあんな可愛いなんて知らなかったぞ!絶対お母さん似だよな!・・・お前は親父似に違いない!」  無精髭の鳥居はぽかんとした顔を見せたが、にやりと笑って、 「・・・そうだな。確かにあいつは母親似だ。お前、気に入ったのか?」  俺はどもった。 「え・・・い、いや、そ、その・・・あんな可愛い子なら誰でも気に入るだろうよ!」 「なんなら、恋人いないみたいだからデートしてやれば?」  鳥居の顔が悪戯小僧のように笑った。  俺は真っ赤になって、 「え・・・いいのか?・・・お前、本気かよ?」 「聞いてみるか?」  そのとき、階段を登るとんとんという軽やかな足音。  忍は兄の部屋に、盆にコーヒーを二つ乗せて入ってきた。くりくりしたその瞳で俺を見て笑った。  可愛い!  こんな武者(むさ)い兄にこんな妹が!  鳥居がコーヒーを俺の前に置いている忍に言った。 「忍!吾郎がお前をどっかに連れて行ってくれるみたいだぜ」  忍はえっと驚いた顔を俺に向けたが、すぐうれしそうな笑みを見せて、 「え!ほんと!どこに連れてってくれるの?」  俺はこの成り行きに戸惑っていた。  親友の妹だから、こんなに簡単に連れ出すことが出来るのだろうが・・・  ちょっとやばい!この子は俺の好みすぎる! 「俺、映画見たいな!恐いやつがいい!」  『俺』・・・!  鳥居は腹を抱えて笑っていた。 「がはは!・・・吾郎!忍はちんちん付いてるぜ!」 「お・・・男?・・・!弟さん?」  忍が兄を責める様に言った。 「なんだよ!兄貴!俺、よく女の子に間違われるけど、せっかく吾郎さんが映画に連れてってくれるって言ってんだからいいだろ!」  そして俺を向いて小首を傾げて笑いながら、 「吾郎さん!連れてってくれるんだろ?兄貴は、休みは自分の彼女とデートに行って、俺の事、構ってくれないんだから!」  俺はその顔を吸い込まれる様に見ながら、頷いていた。  俺は映画館が幾つも入っている巨大デパートの銀座マリオンの前で忍を待っていた。あの約束から一週間経っている。まだ三十分前だ。  俺は本当に忍が来るのか分からなかった。  忍は鳥居家の末の三男で、すぐ上の妹の存在を知っていた俺は、忍が彼女であると勘違いをしてしまったのだ。  忍と姉は、二年前に両親が九州に隠居した時、一緒に付いて行ったが、忍は東京の高校に入りたいといって戻ってきたのだ。前の家に兄貴と住めば両親も安心だ。  俺は落ち着かず、タバコを何本も吸い続けていた。大きな通りのガードの前にある吸い殻入れは満杯で、俺の足下に吸い殻がたくさん落ちている。  待ち合わせた五時になった。来ない・・・十分経った。そして二十分・・・  それはそうだ。  男の子とデートなんて冗談だったのだ。今頃、あの兄弟は大笑いしているだろう。いいさ、真に受けた俺が馬鹿だった・・・ 「遅れてご免なさい!」  ふいに後ろから声を掛けられて俺は体を硬直させた!  息を弾ませた忍が立っていた。  首の回りが大きくゆったりと開いたうす紫色の絹製の半袖シャツにぴっちりしたジーパン姿だ。ベルボトムの裾から青い色のサンダルを履いて形よく揃った足の指が覗いている。  俺は唸ってしまった。きれいに梳かれた髪が、長いうなじを離れて夕方の風に舞う。  前から見ても、胸を良く見なければ女の子だって言っても分からないだろう。 「どうしたの?吾郎さん。俺、何か変?」  腰に巻いた携帯や小物が入っていると見えるバンドの上に手を置いて、片足に重心を移した。どっかのグラビアで見た様な女の子の魅惑的なポーズ。回りを通り過ぎる男や女が俺たちを見ていく。 「すげえ、可愛いじゃん!」 「へー、よくあんな子、引っかけたね」  こんな声を聞いてか、不適な笑みで俺を見上げていた忍は、俺の横に来て俺の腕を取った! 「あのさ・・・『バイオ・ダメージ』って見ない?」  180センチの俺の肩ぐらいの背だから、165センチはあるだろうか。はじめて鳥居家で会った時はもっと小柄かと思った。顔が小さめなのでそう思ったのだろう。  あの夜、台所の片付けが終わると忍も俺たちの話しに入ってきた。女の子の様に臑を両側に出してちょこんと座った。俺たちのえっちな話を目を丸くして聞いている。 「・・・おい、忍クンにはまだ早いんじゃないか?」  と鳥居に言うと、 「何、少し勉強させないとな。こいつ晩稲のくせに結構、女に持てるからな」 「ふーん。忍クン、持てるんだ・・・可愛いから当然か」  やはり男の子は男の子だ。 「兄貴は俺に女の子の選び方なんかうるさく言うんだよ。別にまだ興味ないのに!」 「お前な!男が十五、六になれば毎日マスかくんだぞ!いつでもやりかた教えてやるぞ」  忍は兄にあっかんべえをして、 「冗談!兄貴になんかに触らせるかよ!」  俺の方を見て恥ずかしそうに言った。 「・・・吾郎さんに教えて貰おうかな!」  俺はコーヒーを思わず吹き出した!  鳥居は俺の様子を見ていてにやりとして、 「そうだな・・・吾郎、お前まだ童貞だろう?忍に教える代わりに、筆下ろしさせて貰えよ」 「な!何言ってんだ!」  鳥居は真っ赤になった俺の顔を指さして笑い転げた。  忍は笑いを堪えていたが、その前と違った目で俺を見ている様な気がした。二十半ばにして童貞と聞いて軽蔑したのだろうか。  確かに俺は童貞だ!だが、やり手の鳥居からの聞く話や、その手のあらゆる雑誌などで情報は十分知っていたが・・・  夜が更け、翌日に学校の部活の早朝練習があるというので、忍は兄に追い出されてしまった。忍は立つ時、俺を見た。 「吾郎さん!じゃ土曜日、約束だよ!」 「あ・・・ああ」  襖(ふすま)戸を閉め掛けて、ふとこちらを向いて言った。 「吾郎さんて童貞じゃないよね!兄貴の友達で信じられないもん!」  ふふと笑って、軽やかな足音を立てて上に上がっていった。  俺は後ろ髪を引かれる思いで、忍の後ろ姿を見送った。心臓がきゅんと締まる様な、股間が切なくなるような気分だった。  一升瓶の封印を切った俺は、それを忘れる様に痛飲した。  鳥居は興味深げに俺を観察していたが、その後、忍のことは何も言わずに一緒に飲み続けた。  朝、鳥居の部屋で雑魚寝をしていた俺は、忍の行ってきますという声に目を醒ました。  玄関のガラス戸が無情にぴしゃと閉まった。  この1週間、俺は忍の笑い顔を思い出すたびに気はそぞろになり、仕事に手がつかなかった。  その忍が今、俺の横にいる。  忍は恋人のように肩を寄せて、俺の左腕に手首を絡ませて笑った。明らかに男の子ではなく、女の子の様に振る舞っている。俺のために中性的な格好をするために、着るものを選んでいて遅れたのだろうか。童貞で恋人もいない俺を慰めてくれているのだろうか。  シャンプーの良い匂いがした。 一 了

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