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第2話 初恋
二 初恋
映画館を出ると夏の雨が降っていた。
「何か食べようよ!へへ、お腹減っちゃった」
忍はぺろと可愛い舌を出しながら言った。
俺は、前に失敗したデートで女の子と行った事がある、銀座のイタリアン・レストランに入った。
ビルの二階にある瀟洒なところだ。
「へー・・・こんな所、はじめて」
忍は銀座の通りが見える二人がけの席で、きょろきょろしながら言った。
その様子がまたなんとも可愛い。雨に少し濡れて胸の輪郭が良く見える。筋肉なのか胸がほんのり女の子のように膨らんで見える。
そして絹のTシャツの布越しに二つの尖った乳首が見えた!
俺は心臓がどきりとした。
忍にメニューを説明しているウエイターも、そこをちらちら見ている様だ!
女の子としては精悍な眉とその瞳に、男ということはばれているようだ。だが、その幼い仕草と素朴な表情に、ウエイターは女性にしゃべるように話している。
忍が俺を見て、股の間の椅子に突いた両腕を絞る様に胸に付け、テーブルの上に少し乗り出して甘えた声で言った。ウエイターは憮然として俺を見た。
「吾郎さん!ワイン注文してよ」
俺は未成年者に飲ませて良いのだろうかと迷ったが、アシジの赤を一本注文した。
イタリアのアシジ地方から出荷される珍種だ。いい値段だが、今宵の為なら、残業に次ぐ残業で入った給料を注ぎ込んでも悔いはない。
忍は快活だった。
本も良く読んでいる様で、話題が豊富で機転も早いし、会話を途切れさせない。黙り込む傾向の俺も、自然に話せたし、冗談も言った。忍が男の子であることなど、本当にどうでも良くなった。
忍の可愛い口の動きを見ていると、股間が熱くなって困った。それを誤魔化すために必死に話題を作った。
「映画見てる時、俺の腕にしがみついてたね。あの人間が熔ける場面で」
「・・・だって、恐いじゃない!リアル過ぎるよ!」
「あれは実写に後でCGを施しているんだ。でも解剖学的に研究してリアルさを出してるんだよ・・・」
俺はここまで言って失敗したか、と思って忍の表情を見た。前の女の子は、こういった科学的なことに一切興味が無く、俺の説明が説教臭いと思った様だった。
しかし、忍は違った。
「ふーん、吾郎さんてやっぱり技術に詳しいんだね。兄貴なんか、技術者ぶってても掃除機も直せないんだよ」
俺はほっとした。技術者の兄を持って、忍もこういう話題に慣れているのだろう。
「はは・・・技術者って言ってもいろいろさ。俺なんか『技術屋』だよ」
「何?それ?」
「電気のイロハを知らなくても、高尚な技術を知っていれば技術者さ。技術屋はしこしこ半田付けなんかをやる職人さ。実験屋とも呼ばれている」
忍は、理工系の人間でもいろいろいるということを垣間見て楽しそうだ。
ディナーコースのパスタもラムチョップも、今の俺には極上の時間のほんの一部だ。そして忍は俺がワインを口に運ぶと、その真似をして同じように飲む。ワインの匂いを嗅ぐと、
「凄い・・・良い匂い。こんな食事を驕って貰ったらどんな女の子もいちころじゃない?ねえ、五郎さん?」
悩ましい責める様な目で見られた時、俺は思わず咽せてしまった。
ウエイターがこちらを憮然と見ている。前に来た時の俺と女の子を覚えているのだろうか?その後、電話しても彼女は出て来なかった。
忍は咽せる俺を心配そうな顔で大丈夫?と言いながら俺の表情を観察している様だ。多分、俺の反応によっては、俺の女性歴を質問するつもりだったんだろう。
レストランを出て銀座駅に向かう途中で、忍の様子が変なことに気づいた。
「・・・し、忍君!大丈夫か?」
「・・・ご免、気持ち悪くなっちゃった」
「はじめてなのにワインをあんなに飲むからだよ!」
背中をさすると大丈夫と言うので、俺たちは地下鉄で新宿へ向かった。忍は吐き気を我慢して下をずっと向いていた。
鳥居家は新宿と新大久保の中間ぐらいにある。東京としてはちょっと寂れた区画にあった。
新宿駅から歌舞伎町の喧噪を避け、その脇を通って住宅地に入って行く。住宅地と雖も、ここは新宿。あちこちに料亭やラブ・ホテルがある。
忍の肩を抱いてよろよろと歩く俺たちを、ラブ・ホテルを出入りするカップル達が興味深そうに見る。
「ちょっと・・・やばい」
俺は口を押さえた忍を小さな公園に連れて行った。ブランコが二つぶら下がっている脇の水飲み場に直行した。
忍に水を少し飲ませると、俺はベンチに一緒に座った。忍の肩に手を回し背中をさすった。忍はぐったりと体を俺に預け、頭を俺の頬に付けた。
「しの・・・ぶ。大丈夫か?」
俺ははじめて忍を呼び捨てにした。
俺の胸は興奮に燃えだした。間近に見る忍の顔。気の強そうな眉に長い睫毛。可愛い鼻と口・・・俺は背をさすっていた手で忍の髪を触った。そして徐々に上に掻き撫でる。髪の匂いを嗅いだ。柔らかく艶のある髪が鼻をくすぐる。甘く野風の様な匂い。
そして忍の顎を上げさせ・・・俺はその柔らかい唇に口をつけた。
甘い時間・・・俺の一物は脹れあがり痛いほどズボンを押し上げる。だが、忍がしゃくり上げた。
「ううっ!」
次の瞬間、俺のシャツは忍の吐いたもので汚れた。
俺たちは鳥居家の玄関に着いた。
「吾郎さん・・・シャツ汚してご免・・・今日は有り難う」
忍は寄っていけとは言わない。兄は出張で居ないとレストランで言っていた。その時は悩ましい目で俺を見たのに。
酔っていても、俺が口づけしたことが分かったのだろう。帰る途中、忍は一言もしゃべらず横を向いていた。
がちゃがちゃと鍵を開ける忍に俺は聞いた。
「・・・また映画に一緒に行ってくれるか?」
忍は手を止めたが、こちらを見ない。
「・・・分かんない。そのときの気分で行けたら行くよ」
俺は絶望的な気持ちで、最後の望みを伝えた。
「また、一週間後の同じ場所で同じ時刻・・・」
「お休み」
忍は家に入ってガラス戸をぴしゃりと閉めた。
次の一週間は毎日が地獄だった。
俺は何と言うことをしたのだろう。兄貴の親友だと思っていた男からキスされたなんて。兄には言えないだろうし、忍は傷ついただろう。
俺のしたことを軽蔑しているのだろう。
忍の事を想うたびに心臓がきりきりと痛む。
恋か?
少年に?
男に焦がれてどうするというのだ?その手の小説や雑誌を読んだことはある。男同士でも愛の行為が出来るという。しかし、そんなことをすれば忍を失う・・・親友もだ!
一週間経った。
俺は二時間も前から、マリオンの前の石のベンチに腰を下ろしていた。
忍は来やしない!だがこれで良いんだ。今日で終わる。
何回目かの失恋ということで。
しかし今回の痛手で当分立ち上がれないかも知れない。それほど忍は魅力的で失いたくなかった子だった。
早く来た時間と同じ時間が、五時を回って過ぎていた。
今の俺には時間などどうでもいい観念だった。苦しい息を吸うのに何時間もかかる様な気がした。
俺は深夜まで、ここに身じろぎもせず頭を抱えて座っているだろう。
俺の前に誰かが立った。
目を開くと足が見える。青いサンダル!
ベルボトムのぴったりとしたジーンズ。水色の絹のタンクトップ!そして責める様な瞳をしたシバの女王!
「・・・呆れた。もうとっくに帰ったと思ったのに!」
尊い神仏を見る様な俺を軽蔑の目で見る。ふと目を逸らして横を見て言った。
「今日だけ付き合うよ・・・何を見せてくれるの?」
俺たちはまた、鳥居家の門の前まで一緒に帰ってきた。
ラブ・ストーリーの映画を見た後、マックでハンバーガを食べて帰ってきた。今日はお互い必要な会話以外はしていない。忍も今日は女の子の様な振る舞いはしなかった。だが自然な忍の挙動は、普通の男の子とは違って優雅だった。
俺は最後のお別れを言おうとした。
もう彼を苦しめるのは止めよう。兄に会いに来た時、顔は見れるのだ。忍は嫌かも知れないが。
「・・・忍君・・・今日は有り難う。君が本当に優しい子だということが分かって、救われた・・・」
それは本心からだった。もう帰っただろうと思われる時間の後に、万が一ということを考えて来てくれた。最後のこの時間は苦く、甘く、俺の一生の記憶の一部になるだろう。
俺はお休みと言うと、くるりと後ろを向いて戻ろうとした。
「待って!」
驚いて振り向くと、
「・・・ご馳走になってばかりだから・・・お礼をするよ。マックなんかじゃ、まだお腹空いてるでしょ?」
忍は俺を家に招き入れた。兄の強は今週も三重県の工場に出張しているはずだ。
俺は台所の食卓に座らされて、忍が外出着のまま、クラブ・サンドウイッチを作る姿を後ろから眺めていた。
撫で肩で、細くもなく太くもない均整の取れた肉体。反る様に伸びた背中に括れた腰。男としては大きな臀部。そして腿の肉がジーパンをぴちぴちにはちきらせている。柔軟なアスリートのものだ。
「部活、何やってるの?」
俺は、あんなにレストランで話したのに、この話題が出ていなかったことに今更驚いていた。
「・・・剣道」
「えっ!俺も・・・」
「兄貴から聞いて知ってたよ。強かったんだって?」
「大学の全国大会で三位を取ったことがあるよ」
忍が得意げに言った。
「俺、中学団体で全国優勝さ!」
そういえば、忍の両親が住む九州の中学で、いつも全国大会の優勝を争う名門校があった!
「ひょっと・・・して、八女(やめ)中学?」
忍が口の端を曲げて誇らしそうに笑った。
「さあ!出来た!」
忍は気持ちがほぐれた様に微笑みながら、サンドウイッチが乗った大皿を食卓に置いた。
笑い顔が戻っていた。
二 了
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