8 / 8

第8話

「龍星、誕生日、おめでとう」 「……あぁ、今日か」 「何? 自分の誕生日、忘れていたみたいな言い方だね」 「自分で自分を祝う事は無いからな」 「……はい、これ」 「バレンタイン用のチョコレートケーキか」 「うん。今日から販売を始めるケーキ。でもこれは龍星の誕生日ケーキでもあるんだ。毎年、ハートとカギを必ず飾って、特別な想いを込めて販売してたんだ」 「……ハートとカギか」 「うん。僕のハートと心のカギ。でも、龍星のハートと心のカギが欲しいよ。だって、大切な人だから……」 「……そうか」  初めて肌を重ねたあの日――。  気を失った僕を寝室に運んだ龍星は、朝まで僕を離さなかった。  陽が昇る前、一番気温が下がる時間にやっと体を離した僕達は、そんな会話を交わしながらひとつのチョコレートケーキを分け合った。 「その後、だったよね……」  思い出し笑いをしてしまう。  心のカギが欲しい、と言った僕に龍星は本物のカギをくれた。マンションのスペアキーだった。 「真を大切にしたい、という俺の気持ちは本物だ。だが、不器用な俺だ。直ぐに仕事に没頭して振り返る事を忘れる事があると思う。その時はお前が引き戻しに来い。いつでも良い。お前が好きな時に、お前のペースで俺の所へ来い。勿論、俺は俺のペースでお前に会いに行く。そしてお前を抱き締めるから」  龍星は東京だ。  僕は湖畔にある店を閉める訳にいかない。  僕達の間には、どうしようもない物理的な距離がある。 「でも……いいんだよね。僕のペースで」  人畜無害なハムスターだって、時々、噛みつく事があるんだ。そう一人で笑いながら僕は窓の外を見た。  物凄い速さで変わっていく景色は、まだ陽も登っていない都会の朝だった。朝一番の新幹線はもう直ぐ東京に到着する。 「東京に着くのは……多分、七時前。朝食、間に合うかな?」  突然の朝の訪問に龍星は驚くだろう。  でも、こうでもしないとなかなか会えないから仕方無い。 「カギ、貰っちゃったし。僕の朝食を食べて欲しいし」  車内放送が聞こえた。  僕は少ない荷物と、店を出る直前に焼き上げたシフォンケーキが入った袋を持って立ち上がった。  朝の混雑が始まった駅に降り立ち、駆け足でホームを抜けて行く。  目指すのは龍星のマンションだ。  会うのは一ヶ月振りになる。  大通りを越えて、細い道を抜け、まだこれから開発が進むと思われる住宅地に立つ新しいマンションに入った。 「鍵……」  オートロックでも関係無い。  貰った鍵を使って中に入り、エレベーターに乗る。目的の部屋の前に辿り着くと、一度、深呼吸をしてからそっと扉を開けた。 (靴がある……)  シンと静まりかえった部屋に忍び足で入ると、音を立てない様に気を付けながらキッチンに進んだ。 「シフォンケーキと……珈琲……」  持参した珈琲豆をミルで細挽きにし、湯を沸かして準備に掛かる。 「冷蔵庫に何かあるかな……」  サラダか何か作ろうか、と冷蔵庫を開けたが中は空だった。ミネラルウォーターとビール、そして酒の肴しか見当たらない。 「……酷い生活だ」  いくら忙しくても、少しくらい食べ物が入っていてもいいと思う。働く男が独り暮らしをすると、こんな風になってしまうのだろうか。朝食を出した後、龍星を見送ったら買い出しに行こう。そして夕食の準備を済ませてから帰る事にしよう。 「もしかして、龍星って家事、ダメ?」  リビングを見渡してみると、新聞や郵便物が散乱しているのが見えた。部屋に置かれている物が少ないから良いが、片付け上手とは言えなさそうだ。 「片付けもしないと駄目だね。……通う必要があるかも」  これは新たな発見だ、と一人で頷いていると突然、背後から声が聞こえた。 「刑事の部屋に侵入するとは度胸のあるネズミだな。いや、ハムスターか」 「うわ! お、起こしちゃった?」 「あぁ。珈琲の香りで目が覚めた。まぁ、侵入したのが人畜無害なハムスターだから許してやる。こんな朝も悪く無いからな」  振り返ると、Tシャツ姿の龍星がリビングの入口に立っていた。しかし、侵入とは酷い言い草だ。スペアキーで入っただけなのに。 「来るなら来ると連絡を寄越せ」 「だって、もし、捜査で忙しかったら悪いと思って。それに居るなら驚かせたかったし」 「あぁ、驚いた。週休日の朝早くにハムスターの気配で起きる事になるとは思いもしなかったぞ」 「は、ハムスターじゃないよ!」 「ネズミよりマシだろう?」  もう、と頬を膨らませると龍星はフフンと笑った。久し振りに見た意地の悪い笑みに腹が立ったが、それ以上に込み上げて来るものがあった。 「会いたかったよ、龍星」 「あぁ、よく来たな、真」  逞しい胸に飛び込み、ギュッと抱き付く。  全身を包む龍星の匂いに思わず陶酔してしまう。 「朝食、持って来たよ」 「美味い珈琲とシフォンケーキか」 「うん。店を出る直前に焼き上げたシフォンケーキ」 「折角だから貰おうか」 「珈琲も直ぐ淹れるから」 「その後で……」 「後で?」 「真をじっくり味わうとする」 「龍星!」  龍星の言葉に頬が赤らむ。だが、それを期待していた自分が居るのも確かだ。 「早く座って。準備するから」 「あぁ」  朝、起きてきた夫を迎える妻の気分だった。  おはよう、のキスをした後、熱い珈琲を入れて手作りの朝食を出す。  今日は仕事に送り出さなくて良い。一日、一緒に居られる。ただ、明日は店を開けないといけないから夜にはサヨナラだ。 (でも、それまでは……)  甘い恋人同士の時間を過ごせる。  言葉と体でお互いの想いを確かめ合う事ができる。短くても、濃密な時間を過ごす事ができるのだ。 (幸せ……!)  フフッと笑いながら僕はシフォンケーキを切った。甘いホイップクリームを添えて熱い珈琲と一緒に出す。  そして龍星に見付からない様に、小さな箱をそっと冷蔵庫へ忍び込ませた。  ストロベリーの香りで仕上げたスポンジをホワイトチョコレートでコーティングしたハート型のケーキだ。上にはチョコレートの板で作ったハートとカギの飾りを乗せてある。 (ホワイトデーに、僕のハートとカギを置いていくよ)  いつこの箱に気付くだろう。  龍星はこれに込めた想いを理解し、受け止めてくれるだろうか。  いや、心配は要らない。  きっと龍星は僅かに口角を吊り上げて笑い、僕の想いも全て一人で食べ尽してくれるに違いない。  信じ合う事が大切なのだ。  心が繋がっていると信じ合う事。  そしてお互いがお互いの心のカギを持ち、大切に想い合う事。  僕は本物のカギの入ったポケットにそっと触れながら心の中で呟いた。 (大切にするよ、龍星のこと……)  名前を呼ばれた。  シフォンケーキを食べている龍星の横に座るとギュッと抱き締められた。  この温かな腕、そして胸……。  ちょっと鬼畜で意地の悪い恋人の胸にあるもの。  僕だけが持つカギで開け9られる龍星のハートの中にあるもの。  それは僕に対する愛に間違いない。  そして永遠に続くものだと僕は確信していた。 了

ともだちにシェアしよう!