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第6話
到着したのは、東室蘭駅から少し離れたところにある4階建てのビルの前だった。一階部分が駐車場になっていて、一台のワゴン車が停まっている。不知火さん――伊織さん、はその隣に駐車して、エンジンを切った。
「着いたよ。このビルがうちの事務所」
促されるまま車を降りた俺は、この街にしては新しめなビルの外観を見上げる。正面にはシンプルなデザインで「Mr.Music」と書かれた看板が掛かっていた。
ぼんやりと俺がそれを見つめている間に入り口の鍵を開けた伊織さんが、振り返ってこちらに手を差し出した。
「おいで、柊。ここちょっと段差あるから、気をつけて」
「あ、はいっ」
やばい、緊張してきた気がする。
陽が当たらず薄暗い階段を上がり、2階についてすぐ視界に飛び込んできたドアを伊織さんはあっさりと開ける。いやまぁ伊織さんにとっては勝手知ったる自分の事務所な訳だし当然なのだが、せめて心の準備をさせて欲しいと静止する間も無かった。おはようございまーす、と室内に声をかける彼の背後で俺は冷や汗を流す。コミュニケーション能力に難がある人間はそんなにさくさく新しい場所に飛び込んでいけないのだ。もうちょっと控えめにいきたい。本当。
しかしここまで来てしまった以上は腹をくくるしかないのだろう。改めて芸能事務所であることを意識し出すと本気で帰りたくなってくるが致し方ない。男に二言はないんだ。うん。頑張れ俺。
とはいえその程度の自己暗示で緊張を吹き飛ばせれば苦労はしない。逃げ出さないのがやっとで顔も上げられずにいた俺の耳に、かちゃかちゃかちゃ、というフローリングの上を何かが叩く音が届いて。
あ、という伊織さんの呟きと同時に腹部に走った衝撃で、俺は後ろに押し倒された。咄嗟過ぎて悲鳴も出ない。というか何が起こったのかわからない。
反射的に手をついて体を支えぶつかってきたものを確かめると、それはつい先日出会った黒いもこもこ、またの名を。
「……りぃ……?」
「ごめん、大丈夫か!?」
慌てた伊織さんがこちらを心配して声をかけてくるのに対し、当の本人?本犬?はぱたぱた機嫌よく尻尾を振りながら目を輝かせこちらを見ていた。騒ぎを聞きつけたらしい事務所の人が数人、部屋の奥から駆けてくる。彼らをぐるりと見回して、それから自分がちゃんと人の顔を見れていることに気付いた。あ、これは多分もう大丈夫だ。そうして色んな不安とか緊張とかを物理的に吹っ飛ばしてくれた救世主を抱きしめて撫で回し、俺は内心呟いた。
お前良いやつだなぁ。
「ごめんなぁいきなり。犬平気だった?」
「だ、大丈夫です、はい。好きなので」
「そっかぁ、なら良かった。ケガとかしてねぇ?」
「なんともないです。ありがとうございます」
ピアニストの手に傷つけたら大変だもんなぁと、事務所の中に俺を案内しソファに座らせた茶髪の青年は、コップに入った麦茶をこちらに差し出しつつそう言った。ちなみに伊織さんは来客に飛びついてはならないという旨をりぃに説教している。
ドアが開いた時はずっと俯いていたから気がつかなかったが、ここはドアを挟んですぐに土間と部屋がある構造になっているらしい。多分ここは応接間的なものなのだろう。部屋の奥に、上へと続く階段が見えた。
そんなことを考えながら俺は頂いた麦茶を一口飲んで、それからまだ名乗っていないことに気がついた。
「あの、今回はお世話になります。一ノ瀬柊です」
そう言って頭を下げると、テーブルを挟んで向かいのソファに座った青年は目を瞬かせて、その後朗らかに笑った。
「いえいえこちらこそ、うちの音楽馬鹿が迷惑かけたようで。あ、俺は長門ルカ。伊織の同期」
彼がそう言った途端、俺の隣に腰を下ろした伊織さんが不満そうに声を上げた。
「だーれが音楽馬鹿だってー?」
「誰とは言わないけれどぉー、見知らぬ高校生をナンパしたわっるい大人のことじゃないですかねぇ?」
「ナンパじゃないって!ちゃんとしたスカウトだから!」
「いやいやぁ絵面的にはギリッギリでっせ。どーせお前のことだから一緒に音楽演ろうっ!とか誘ったんだろ?なぁ柊君」
ぽかんとやりとりを見ていたところに急に呼ばれて「うぇ!?」と変な声が出た。今までよりもずっと伊織さんが子供っぽく見えて、なんだか不思議な気分だった。というか確かに言われたなぁ、「音楽演ろう」って。
「そんで昨日は"タダで部屋貸すから弾いてくれ"とか……誘い方へったくそかお前。完全に悪い大人が未成年騙して詐欺ろうとしてる図だからなマジで」
「……まずかった?」
「俺なら通報してたわ。まぁ犬連れ散歩スタイルで詐欺ってすっげぇ間抜けだけど。つーか柊君もよくこんな怪しい奴の交渉受けたなぁ」
こんなの、と伊織さんを指で示した長門さんが不思議そうに首を傾げる。視線を向けられて、1秒。少し考えてから、俺は結局思ったままに答えた。
「伊織さんと話したとき、優しいひとだなぁと思ったんで」
少なくとも詐欺者はあんな風に才能を語りはしないだろうし。面倒臭い性格をしている自覚がある俺に対して笑った顔も、話し方も優しかった。昨日のことを思い返しながらそう言うと、長門さんは虚を突かれたような表情をした。一方で伊織さんは目を瞬かせた後、片手で口元を多いそっと顔を逸らしてしまう。なんかまずいこと言っただろうか。伊織さんって光属性だよねーって話をしただけだと思うのだが。
すると長門さんは一度小さく咳払いをして、取り繕うように「へぇー」と感嘆を漏らす。いっそ見事なまでに棒読みだった。
「うーんと、まぁ柊君が納得してるなら良いか……。今さらだけど社長今ちょっと電話中だから、もう少し待っててなー」
「あ、はい」
そうか、それで社長さんの姿が見えなかったのか。
1人納得して、再び麦茶のコップを傾ける。
するとりぃが叱られたことをこれっぽっちも気にしていなさそうな様子で、俺と伊織さんの間から顔を出した。
撫でろと言わんばかりにテーブルの上に置かれていた伊織さんの手を鼻先で持ち上げ、額を押し付けている。慣れているのか伊織さんが自然な動作でその頭を撫でてやっているのをなんとなく見つめていると、背後でドアノブが回る音がした。
いち早く反応した長門さんが、そちらに向かって「お疲れ様です」と声をかける。一拍遅れて振り返れば、そこに立っていたのは着物姿の初老の男性だった。
小柄だけれど威圧感すら感じるような、しっかりとした立ち姿。長門さんに片手を挙げて答えた後こちらに向いた、顰められた顔と鋭い眼光に思わず背筋が伸びる。しかしその口から発せられた言葉は、意外にも気さくなものだった。
「おう、悪りぃな待たせちまって。お前さんが伊織の言ってたピアニストかい?」
「い、いえ、あの……専門的な勉強をしている訳じゃないので、ピアニストと呼べるようなものじゃ、」
「あん?つーことは独学か。しっかし聞いた話じゃあ大層良い腕してるっつぅじゃねぇか。いいねェ、面白い!」
そう言うとその人は不敵な笑みを浮かべ、体の前で組んでいた腕を解くと右手を差し出した。
「俺が"Mr.Music"の社長で総責任者の仙崎だ。よろしく頼むぜ、兄ちゃん」
力強い声に弾かれるように立ち上がった俺は、両手で握手に応じるとまっすぐ社長さんを見据えて言う。
「一ノ瀬柊です。こちらこそ、よろしくおねがいします」
「来週、世話んなってる楽器屋主催のミニライブがあってな。うちからは伊織が出ることになってる。屋外とはいえそんな規模のでけぇライブじゃねぇし、演るのも2、3曲だ。初体験にゃあ丁度良いだろ」
そう言って渡されたチラシには、街の中心にある大きな楽器屋の名前とライブの概要が賑やかなフォントで記されていた。出演者一覧を見る限りインディーズのバンドや他事務所の歌手も参加するようだ。それらの中に、伊織さんの名前もしっかり載っている。2日に渡って行われるライブの内、伊織さんが出演することになっているのは最終日――つまり来週の日曜日だ。
チラシの文字を上から下まで目で追って顔を上げると、社長さんは長門さんが淹れてきた熱いお茶を飲み干して続けた。
「楽器……お前さんの場合はキーボードか。それはこっちで用意する。曲やら何やらは伊織に任せてあっから自由に演ってくれりゃあいい。あァ、練習には"上"を使ってくれ」
「上?」
聞き返せば、社長さんの代わりに俺の隣に座っていた伊織さんが答える。
「うちの4階、レッスン場になってるんだよ。防音効いてるから暴れてもへーき」
「それはまた……凄いですね」
いたせりつくせり、というか。
俺ここの所属じゃないのに使って良いんだろうか。他のメンバーの人たちに迷惑かけてしまいそうな気もするけれど。
「伊織、ルカ。この兄ちゃんを上に連れてってやんな。鍵は開けてあっから好きに使え。今日は他に使うやつもいねぇし」
「うぃーっす」
「ありがとうございます。――じゃあ行こうか、柊」
りぃのことお願いします。
おう。
そんなやり取りを横から眺めつつ、長門さんに案内されて部屋を出る。
俺はその直前で足を止めた。りぃをなで回している社長さんを振り返り、小さく息を吸う。
「、あのっ」
「うん?どうした兄ちゃん」
「社長さんは、良いんですか?こんな無名の素人が、伊織さんと一緒にステージに立って。しかも住むところまで貸してもらえるなんて……反対は、しないんですか」
すると社長さんは、小さく笑って答えた。
「うちのクソガキどもはどいつも俺の言うこと聞くような奴じゃねぇからなぁ。それに、」
「お前さんが"どういう人間"かってことぐらい、二言三言話しゃあわかるさ」
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