7 / 41

第7話

板張りの床と、1つの面が鏡になっている壁に囲まれた広い部屋。長門さんと伊織さんに案内されたそこは、まさしく"レッスン室"といえる場所だった。――その向かって右側に、電子キーボードが置かれている。まるで迎え入れられているような光景に若干の気恥ずかしさを感じながら、俺は室内に足を踏み入れた。 「凄いですね、ここ……」 「まぁ、拠点だからなぁ。下の階は生活スペースになってるんだけど、また次の機会に案内するよ。元々今日は打ち合わせだけのつもりだったし、練習も明日からにしようか。何か予定あったりする?」 「いえ、特に。門限が20時なんで、それまでだったらいつでも」 門限あるんだ?一応施設的に、セキュリティの問題が色々あるそうで。 そんな俺と伊織さんの会話を横で聞いていた長門さんが、不意に「あ、」と声を上げた。俺たちが振り返れば、彼は思い出したように伊織さんを指差して口を開く。 「そういやお前、柊君の演奏聴いて一目惚れしたって言ってたけど」 「ひっ……!?」 一目惚れぇ!? ある訳ないだろそんなこと! じわじわと頬が熱をもっていくのを自覚しつつ、俺は咄嗟に伊織さんを見上げた。するとあろうことか彼はさも当たり前と言わんばかりにうなづいてみせるものだから、結局両手で顔を覆い俯く羽目になる。なんでそういうことをぽんぽん言うんだこの人は。こんな――……ただのアマチュアを相手、に。 しかし長門さんが言いたいのはそこではなかったらしい。顔を上げられずにいる俺へ控えめに「大丈夫?続けていい?」と確認を取った後、一度咳払いを挟んでから続けたよ 「えっと。で、お前の方は柊君の前で歌ったことあんの?」 「……あ」 そういえば、無いな。 呟いた伊織さんに、長門さんは呆れた目を向けた。俺はこっそり垂れた髪の合間から伊織さんを見上げつつ、言われてみれば彼の歌聞いたこと無かったなとひとりごちる。 ここまで気がつかなかったのはどうなんだと自分でも思うけれど、いかんせん話が急だったのだから仕方ない。そもそも冷静に物事考えられる精神状態じゃなかったし。 しばらくそのまま失笑していた長門さんが、深いため息を吐く。それから、部屋の隅に置かれていたCDプレイヤーに向かって歩き出す。 「わかった。どうせ今日はこれで解散なんだろ?じゃあお前とりあえず一曲歌っとけ。これから1週間一緒に練習する奴の技量も知らんとか柊君だって困るだろーし何よりフェアじゃねぇじゃん」 「えぇー……なんか照れるなぁ」 「今更何言ってんだか。何年歌手やってんだよ」 「ライブとこういうのじゃ色々違うって。それに柊も大して興味無いだろ?」 いや俺不意打ちであんたにピアノ聴かれてんですが。しかも完全に遊んでたやつ。そう心中でツッコミを入れながら、俺は「聴いてみたいです」と答える。こっちも素人なんだからそっちの実力次第では云々なんて言う気はさらさら無いけれど、好奇心が湧いたのは本当だ。すると彼は少し驚いたように目を瞬かせて、それから「ならまぁ、一曲だけ歌わせて貰おうかなぁ」と苦笑した。 その間に長門さんは着々とプレイヤーの準備を進めていて、伊織さんを振り返り声を上げた。 「今セットしてあるやつレミオロメンのカラオケCDなんだけど、こん中のでいい?」 「なんでそれが入ってんのかはともかく別になんでも良いよ」 「ん、じゃあ『3月9日』で。合唱版」 「理由は?」 「中学の卒業式でこれ歌ったから。歌詞要る?」 「大丈夫。俺も高校の卒業式で歌ったことある」 俺は数歩分伊織さんから距離を取り、そこにしゃがみ込んだ。軽く声出しをした伊織さんが視線を送ると、長門さんは「いきまーす」という合図と共に再生ボタンを押す。 合唱版だけあってオリジナルよりもゆったりとした前奏が、壁や床に反響して室内を満たす。 伊織さんは軽く両目を伏せ、右手で片方の耳を覆い。 すぅ、と息を吸った。 その後。 伊織さんに車で施設の近くまで送って貰い、明日も迎えにいくからと告げられて。なんとかうなづいた俺に、「じゃあまた明日な、おやすみ」と言い残し彼は去っていった。職員さんが用意してくれていた夕食を施設の子ども達みんなで食べ、チビ達と一緒に風呂に入り。自室に戻ったのが21時過ぎ。髪を濡らしたままベットに突っ伏し、深く深く息を吸って、それからようやく言葉を吐き出した。 「やっ……ばい……」 かっこよかった。すごく。他に表現のしようがないくらい。人間って本当に感動すると語彙が死ぬ。今日初めて知った。なにがって、伊織さんの歌が。 最初の一声を聴いた瞬間から、惹きつけられた。ゆったりとした穏やかな伴奏に、柔く優しい声が絡んで。言葉の1つ1つが、歌詞のイメージが、鼓膜を通して思考を満たしていく。それはまるで語りかけられているようで、むしろ歌詞に込められた感情を直接心臓に叩きつけられているようですらあって。和太鼓の演奏を生で聴いた時の、お腹の奥に空気中の振動が響く感覚に似ている。入りこんで伝えられる。ほとんど強制的に、満たされた。 彼が歌い終わる瞬間まで目を離せなかったし、他のことを何も考えられなかった。伏せられていた夕焼け色の瞳が俺を見て、「どうした?」と伊織さんが首を傾げた時にやっと現実に戻ってきた心地がするくらいに。 捉われた。 呑み込まれたのだ。 そんな色々を経て今ようやく出た感想が、「やばい」と「めちゃくちゃかっこよかった」だった。 思い出した途端にまた鼓動が激しくなってきた気がする。下敷きにしていた掛け布団を握りしめ、風呂上がりとは別の理由で赤くなってきた頬を埋める。あれはだめだ。ずるい。あんなのは反則だ。あんな――あんな歌を真正面で、しかも近距離で。長門さんも居たけれど、それでも自分が独占しているような心地で聴いてしまったら。 頭から離れなくなる。 あれで惹かれない筈がない! 「あー、もう……駄目かもしない、俺」 ごろんと寝返りをうって仰向けになり、右腕をシーツに放り出す。反対の腕で両目を覆って、天井に向かってもう一度呟いた。 「かっこよかったなぁ、伊織さん……」 これから1週間。あの人の隣で練習をして、あの人の隣でピアノを弾く。最後には――一緒にステージへ立つのだ。そう考えると緊張とか罪悪感とかで死にそうにもなるけれど、一方で確実に、真逆の感情が湧き上がってきている。 思えば。 ピアノを楽しいと感じたことは何度かあったけれど、弾けることを楽しみに思ったのはこれが初めてかもしれなかった。

ともだちにシェアしよう!