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第8話

翌日、放課後。 今度はあまり注目を浴びないようにと、俺たちは学校の近くにある小さな公園で待ち合わせをした。同乗していたりぃの熱烈な歓迎を受けている間に事務所に着いて、レッスン室へ上がる。 「……今日はりぃも一緒なんですね」 「あぁ。昨日ずっと上で何やってるのか気になってたみたいだから。邪魔はしないと思うけど……迷惑なら下で留守番させてくるぞ?」 「いえ、犬は好きですし……大事なご主人を俺ばっかりが独占するのも、かわいそうなんで」 な?としゃがみこんで目線を合わせると、りぃは目を細めてその額を俺の腹に押し付けた。それを見ていた伊織さんが小さく笑う。 「なら良かった」 床に直接座った俺たちの間に、数曲分の楽譜と音源の入ったスマートフォンが置かれている。そのうち1番手元にある楽譜を手に取れば、そこに記されていた旋律や曲名は見たことのないものだった。 「これ、オリジナルなんですか?」 「ん。うちがライブで演る曲は全部作曲家に1から作ってもらってるんだ。本当はもう少し曲数あるんだけれど、とりあえずキーボードがメインになってるのはここにある分ぐらいかな」 「じゃあ、本番はこの中のどれかを演る、と」 「そう。三曲分、折角だから柊が弾きたいやつを選んで欲しいなぁと思って」 とりあえず最初から全部聴いてみて良いですか。 そう問うと、伊織さんは少し気恥ずかしそうに「了解」とうなづいた。彼は慣れた手つきでスマホを操作し、一曲目を再生する。そうして、跳ねるように軽快な音色が鳴り始めた。 「……あの、大丈夫か……?」 「すいませんもうちょっと待ってください……」 多幸感で死にそう。 全曲聴き終えた頃には既に表情筋が緩みまくっていて、俺はそのだらしない表情が向かいにいる伊織さんに見られないよう咄嗟に楽譜で視線を遮った。生歌じゃなければ大丈夫だと思っていたけれど、そんなことはなかった。やっぱり格好良い。切ない歌を聞けば泣きそうになるし、楽しい歌を聞くと自然に口角が上がってしまう。恋の歌を聞けば、同性にも関わらず頬が熱を持った。俺こんなキャラだったか?むしろ生で聴いてたら心臓止まったんじゃないだろうか。他の曲でこんな感覚になったことはないから、多分伊織さんの、声、が。 俺声フェチだったのかなぁ。 「えぇと、選べそう?」 「――はい。大丈夫、です」 顔に集まった熱を冷ますべく片手で自分を扇ぎながら、俺は再び楽譜に向き直った。"聴きたい"曲を選ぶのは簡単だけれど、今選ぶのは"弾きたい"曲だ。思い返すと、実家を出てから気晴らしに弾いていたのはどれも"弾きたいフレーズ"ばかりだった。特別意識したことはないけれど。 先ほど聴いた音源を1つ1つ思い出して、より強く印象に残っている曲を楽譜の束から抜き出す。迷いながらなんとか三曲に絞って、伊織さんの前に並べた。 「完全に俺の好みですけど、」 「うん、それがいいよ。音楽は楽しんでこそだから」 「……楽しんで、こそ」 楽譜を受け取った伊織さんは、ぱらぱらとそれらを捲って曲名を確かめると1つうなづいて、楽譜を持ったままゆっくり立ち上がった。 「音を楽しむと書いて、音楽。だから1番大切なのは、共演者も観客も、何より自分自身も楽しむこと。どこまでもエンターテイナーであれ!ってのが、うちの――Mr.Musicの基本思想だ」 昨日から置かれていたキーボードのコンセントを繋いで、電源を入れる。俺がそちらに寄っていくと彼は壁に立てかけてあったパイプ椅子を持ってきて、鍵盤の前にそれを置いた。促されるまま席に着いた俺の頭をぽんと撫でて、彼は言う。 「俺は柊の伴奏があれば世界一楽しく歌える自信がある。……君のことも楽しませてみせるよ。これからもずっと弾きたいって思うくらいに。一度だけでも良いとは言ったけれど、諦めてる訳じゃない」 譜面台に並べられた最初の曲のタイトルは、『Good_morning,the_day』。俺が1番最初に選んだ、旅立つ人の背中を押す応援歌。 思わず伊織さんの顔を見上げると、悪戯っぽく笑った彼は背伸びをしながらキーボードを挟んで俺の正面に立つ。 「さぁ、やろっか。時間は沢山あるけど有限だ。約束通り1週間、めいっぱい付き合ってもらうぞ」 「――っはい」 小さく息を吐いて、鍵盤に指を乗せる。本格的に弾くのは10年ぶりくらいだけれど、結局捨てきれずにほとんど毎日触っていた。多少鈍ってはいても動かないことはないだろう。そう頭ではわかっていても恐怖で細かに震える指先を誤魔化すように、最初の一音を押し込んだ。

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