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第9話

それから1週間、宣言通り寸暇を惜しんで練習は行われた。俺は今までの人生で1番心を傾けてピアノを弾いたし、あの酔わされるような声もある程度平気になるくらいには伊織さんの歌を聴いた。あのイケメンは誰だとクラスの話したこともないような女子に質問責めにされたり何故か他の「Mr.Music」の人と連絡先交換したりもあったけれど。ぎゅっと圧縮されたように濃密な1週間は気付けばすぐに過ぎ去って。 そして、――ライブ当日。 「は、あぁああああああ……」 ライブ自体の開始は夕方だけれど一応リハとかの関係で昼頃には会場入りしているように言われた俺は、伊織さんとの待ち合わせ時間より10分以上先に会場に向かい、電柱の下にしゃがみ込んでいた。背後を伺えば、簡易とはいえしっかりとした作りの屋外ステージが。 数人の出演者が奥から出てきてステージの出来を確かめたり楽器のチューニングをしたりしている様は、まさにライブ前という感じの、俺には長らく縁のなかった世界だった。今からあそこに行くのだと思うと、心の底から本当に。 「帰りたい……」 「それは困るなぁ」 そう背後から呟かれた声は、どこか楽しげで。 俺は弾かれたように振り返り、予想以上に近かった距離に思わず仰け反った。 それを曲げた膝の上で頬杖をついて見ていた伊織さんは、子供みたいにくすくすと笑う。 「そんなに緊張することないって。初心者や結成したてのバンドが中心のライブだし。あれだけ練習しただろ?」 「そうは言いますけどね、あんたと違って俺が客の前で弾くのどんだけ久しぶりだと思ってんですか……。口から心臓出そう」 「呑み込んどけ呑み込んどけ。大丈夫、絶対上手くいくよ」 笑ったまま、けれど確かに言い切った伊織さんは立ち上がり俺に手を伸べた。真上にある太陽を背に、彼はまるで当たり前みたいにそれを口にした。 「お前と俺の2人でなら、だいじょうぶ」 ステージ裏に立てられたテントが、出演者の待機場になっているそうだった。道中怖気付いて立ち止まりそうになると伊織さんに手を引かれて、子どもみたいに手を繋いだまま俺たちはステージ裏に向かう。 ぐるりと周りを見回して、他の出演者たちが緊張やら高揚やらを仲間と分かち合っているのを横目に、俺は傍らの伊織さんを軽く見上げて口を開いた。 「……なんか、騒がしくないです?」 「んー……確かに。なんかあったかな」 そりゃあ、スタッフだって出演者だって暇ということはないだろう。本番はまだだいぶ後とはいえリハはそろそろ始まる筈だし、多少忙しそうでも不思議じゃないが、それにしたってテントの周辺は異様に騒がしかった。賑やかだ、という訳でもない。慌ただしく走り回っているスタッフの人たちの表情からは、どことなく悲壮感が読み取れる。 普段からこんな感じなのだろうかとも思ったが、繋いでいるのと反対の手を口元に添え首を傾げた伊織さんの様子から見てそれもなさそうだ。 なんてひとりごちでいる間に、伊織さんは通りすがりのスタッフさんを呼び止めていた。 「何かあったんですか?」 ネームプレートを首から下げたおじさんはその言葉にばっと振り返り、縋るようにこちらへ詰め寄ってくる。 「あぁ、"Mr.Music"さんとこの!ちょうど良かった、今大変なことになってるんです」 それからふ、と一旦息を吐き、彼は半ば叫ぶように言った。 「音源再生用の機材が壊れてしまってるんです!」 『普段はうちに所属してるバンドメンバーが全部伴奏してくれるんだけれど、今回のに関しては急に参加決まったもんだから元々既存の音源使う予定だったんだ』 確か2日目の練習の、休憩時間。他の楽器パートはどうするんですかと尋ねた俺に、彼はこう答えた。 「けど、柊に伴奏頼めることになったから……ピアノパートだけ抜いた音源作って、出来次第主催の方に送ることになってるよ』 わざわざ音源作り直したんですか、と目を丸くした俺に伊織さんは笑って。この一回でお前を口説き落とさなきゃなんないから念入りに準備しているのだと、冗談混じりそう言っていたのを覚えている。 だからスタッフさんから告げられた衝撃の一言に、俺だけではなく伊織さんも呆然と声を漏らした。 「……はい?」 曰く。 再生用に準備してあった機材はもうだいぶ古くなっていて、このライブが終わったら買い換えるつもりであったこと。前日確かめた時には平気だったのに、先ほど電源を付けようとしたらうんともすんとも言わなくなっていたこと。俺たちの他に音源の使用を予定していた出演者たちは、次々に参加取り止めを決めたこと。 それらを矢継ぎ早に説明すると、スタッフさんは深々と頭を下げた。 「本当に申し訳ありません!ただ、やはり頂いていた音源を今回使うことは難しいかと……」 「えぇっと……そっかぁ、はい。ちょっと考えます」 伊織さんの返事にもう一度頭を下げて、スタッフさんが走り去っていく。事実を飲み込めなかった俺がぼんやりとその背を眺めていると、伊織さんは深くため息を吐いた。反射的にそちらを見ると珍しく困ったような落ち込んでいるような表情をした伊織さんが、ポケットからスマホを取り出して言った。 「とりあえず、社長に相談してみるから……ちょっとここで待ってて」 「あ、はい」 おそらくは社長に電話をかけるため、伊織さんは俺を近くの丸椅子に座らせてテントの外へ出て行った。 残された俺は、もう一度周りを見渡した。先ほどは気づかなかったけれど、確かに数組落ち着かない様子でばたばたしているグループがいる。彼らもこの事態の対応に追われているんだろうか。まぁそうだよな。普通に考えたら、棄権するしか。 ……棄権するしか、ないのかな。 一度だけ一緒に音楽を演る、って約束だった。今回の件はチャラにして次の機会まで約束を延ばす、っていうのが普通だとは思うけれど、伊織さんはどうするつもりだろう。また別のライブで、って言うのかな。それとも。 これで終わり、って言うんだろうか。 あの1週間がぜんぶ、まるで夢が覚めるみたいに"なかったこと"になって。 俺はきっと喜ぶべきなんだろう。 約束通りなら今回のライブがどうなろうと第一の目的だった卒業後の住居は手に入る訳だし、――本当に弾きたくないのなら、弾かずに済むことを喜ぶべきなんだ。 なのにどうして。 「苦しい、なぁ」 "もういいよ、仕方ないから終わりにしよう。" そう言って笑う伊織さんを想像するだけで、胸の奥がずしんと重くなる。気付けば俺は服の胸元を握りしめて、自分の足元を見つめていた。 「ごめん、遅くなった」 ふいに、頭の上に影が落ちた。 慌てて顔を上げれば、やっぱりどこか気落ちしたような表情で伊織さんがこちらを見下ろしている。どうでした、と問えば、彼にしては珍しく溜め息混じりの返事が返ってくる。 「なんとかならないか色々考えてみたんだけれど、難しいなぁ……。機材の故障となると代替品の手配もできないし。この感じだと、」 諦めるしかなさそうだ。 緩く目を伏せ、ぽつりと呟かれたその声には確かに落胆が滲んでいた。瞬間、胸の奥の重みが一気に増した。約束とか、メリットとかデメリットとかどうでもよくなって、ただ。こんな俺の音楽で笑ってくれたこの人の期待に応えたいと、心臓が高鳴った。 でも、俺になにができる? ライブまでもう時間がない。ただの高校生でしかない俺に機材の準備なんてできないし、社長さんや伊織さんにどうにもならないことが俺に解決できる筈がない。ピアノだけじゃあ、ライブなんて。 ――ピアノ、だけ? それは、俺にとってはあり得ない選択だった。 思いついたのが不思議なくらいで、いつもならなにがあったってやらないような冴えない方法。 それでも、これしかないと思った。 ……今ならできるかもしれないと、思えた。 『もう二度と、音楽なんか演らない』 そう決めた筈だったのに。 終わりになんかしたくなかった。 こんな理由で、この人との1週間を台無しにしたくなかったから。 「あのっ、」 俺は自分の意志で手を伸ばして、伊織さんの腕を掴んだ。 「俺に、任せて貰えませんか!」

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