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第10話

歓声が木霊している。 久しぶりに見たステージ上からの光景は目が眩む程に輝かしくて、俺は一歩後ずさった。出番まではしばらく時間がある。それなのにもう緊張が込み上げてきて、指先から体温の下がっていく感じがした。 あんな風に啖呵を切った癖に、まだ怖がっているのかと自分に呆れる。でも、不思議と逃げようとは思わなかった。 ステージ裏の、スタッフさんや他の出演者の邪魔にならないところまで移動してしゃがみ込む。目を閉じれば、また瞼の裏にあの夜の宣告が蘇った。 感情を丸ごと吐き出すように叫んだ父さんの顔も。 ばらばらになった準優秀賞の盾も。 叩かれた頬の熱さも。 それを見て笑ってたあいつの姿も。 この10年間で忘れたことは一度もなかった。 全てが終わった悪夢みたいなあの夜を、忘れられたことなんて一度だってなかったのだ。 ……向き合わなければならない。 またあそこでピアノを弾くのなら、もう目を逸らしてはいられない。 そんなことはわかっているのに、そうすると決めたのは自分自身なのに、まだ怖気付いている。 ずるずると壁伝いに座り込んで、立てた膝に顔を埋める。時間はなかったけれどぎりぎりまで練習したし、楽譜通りにしか弾かなかって昔と違って"即興"演奏もやったことはある。客の前で弾くのは初めてだけれど、家を出てからむしろそっちがメインだったのだ。いつも通りにやればいい。 わかっている。 それでもこんなに怯えているのは、観客がいるということ以上に。 「……大丈夫か?」 俺みたいな奴にも優しくしてくれる彼に、伊織さんに、幻滅されるのが怖いからだ。 「大丈夫、です。昔からずっとこうですから」 わざわざ俺の前に膝をつき、目線を合わせてくれている伊織さんが心の底から心配そうにこちらを覗き込んでいる。先ほど例の提案をした時はまるで子どものようにはしゃいでいたのに、今はどこまでも俺を気にかけてくれている。 この1週間で知ったことだ。 不知火伊織さん。年上で、きれいなうたをうたう人。今まで出会った誰よりも優しくて、だからきっと誰よりも強い人。 ――昔から、コンクールの前は緊張でよく吐いていた。 脱水症状起こして点滴を打たれたこともある。 それくらいずっと怖かった。 失敗したら見捨てられる。追い抜かれたら軽蔑される。見限られたら置いていかれる。弾けなくなったら、ひとりぼっちになる。 それが怖くて怖くて仕方なかった。 あの頃は父さんに捨てられるのが。 今は、伊織さんの期待を裏切るのが。 伊織さんの優しさを知るたびに、あったかさに触れるたびに恐怖は増していく。たいせつなひとになればなるだけ、失いたくないと思ってしまう。 これは多分、依存だ。 俺は今、まだ出会ったばかりのこの人に依存してる。 「あのね、伊織さん」 「……ん?」 「俺の父は、一ノ瀬柳助っていうピアニストなんです。色んな人から一ノ瀬さんの息子って呼ばれて、将来はお父さんの後を継いですごいピアニストになるだろうねって、言われてきました」 「一ノ瀬、柳助。聞いたことあるよ。よくテレビにも出てる世界的なソロピアニスト」 「はい、そんな父がいたんで……小さいころから当たり前みたいにピアノを始めました。俺なりには頑張ってたつもりで、必死でした」 「――うん」 だって俺には、ピアノしかなかったのだ。 弾けないなら生きてる価値がなかった。 けれど、結局は。 「でも俺には、才能がなかった。父さんが欲しかった"天才の息子"には、なれなかったんです」 頑張って頑張って、その結果が、あの夜だ。 「どれだけ努力しても、後から始めた子に抜かれていく。対等だった子に追い付けなくなる。そんな俺が惨めで哀れだったって。凡人がどう足掻いたって頂点に至れるのは選ばれた人間だけで。お前のせいで一ノ瀬の姓に傷がつくのは迷惑だって言われて、なにも言い返せずに家を出ました。もう10年くらい前の話ですけど」 父さんの言葉は真実だった。 俺に才能がないことも、何にもなれやしないってことも。 あの夜裏切られたのは俺じゃあない。 理想の息子になれなかった俺の方が、きっと父さんを裏切ったのだ。 だから逃げた。 あそこは、もう俺が居ていい場所じゃなかったから。 「今更、って思うかもしれませんが。伊織さんは俺でいいんですか?プロのピアニストが匙を投げるくらい才能の無い奴が、貴方の後ろに居ても。俺は、貴方が思ってるよりずっとどうしようもない奴ですけど、それでも」 後悔しませんか。 みっともなく震えたその声は、たまらなく聞き取り辛かっただろう。 伊織さんは何も言わず、ただ黙っていた。 沈黙が落ちる。 ……なんで今あんなこと言ったかなぁ、俺。 困らせるってわかってたのに。 忘れてください。 そう言おうとして顔を上げた途端、柔らかい布が頭から被せられた。視界の上半分を隠してしまったその布のせいで伊織さんの表情が伺えない。一体なんだと布に手をやって、それが伊織さんの着ていたパーカーだってことに気付いた時には、既に距離を詰められていた。 ようやく開いた視界に、俺を自分のパーカーで包んだ伊織さんの笑顔が映る。太陽みたいに暖かで、柔らかい笑顔。 思わず言葉を失った俺に、彼は言う。 「そっか。柊がずっと不安だったのは、それだったんだな」 「え、と」 「まずひとつ。後ろにいられるのは嫌だなぁ。俺は伴奏者が欲しかった訳じゃないから」 「――え?」 歓声が遠く、遠く聞こえる。 まるで耳が勝手に伊織さんの声を優先してるみたいに、世界が遠ざかっていく。 「一目惚れだったんだ。お前の音と、それから……一ノ瀬柊っていうひとりの人間に。あんなに手放したくないって思ったのは生まれて初めてだった!」 「あ、……」 「お前で良い、じゃなくて。お前が良いんだ。天才とか凡人とか、そんなのどうだっていいよ。俺はお前が好きで、お前の音楽が好きだ」 フードを掴んだ手に引き寄せられて、額と額が触れた。伝わってくる熱に戸惑う間も無く、聞き分けのない子供に言い聞かせるように伊織さんは何度も何度もその言葉を繰り返した。 「好きだよ、柊。一ノ瀬って名字がお前を苦しめるなら、俺の名前をあげたいくらい、お前が好き。だから、そんなに自分を嫌わないでやって。不安になるなら何度だって伝えるから、怯えなくたって良いんだよ」 「……おいてかないで、くれますか」 「当然。俺はお前に、ずっと隣に居て欲しいんだから」 「後悔、しませんか」 「しないな。その自信がある」 「楽しもう、柊。好き勝手にやって、好き勝手に楽しめばいい。俺たちがやってて楽しくない音楽は、きっと誰も幸せに出来ないから。才能がないと駄目だって言うなら、才能が無いからこそ行けるところだってきっとあるよ。 音楽は無限だ。どこに行くのも、何になるのも自由だよ。ゴールなんてないし、正解なんてない。正解がないなら――失敗もない。俺はお前が一緒なら、どこまでだって行ける気がしてるんだ」 お前はどうだ?って笑って、伊織さんは立ち上がった。釣られて俺も立ち上がる。震えはもう、止まっていた。 出番はもうそこまで迫っている。 伊織さんは拳を俺に突き出すと、あの音楽室で言ったあの言葉を、全てが始まったあの一言をもう一度告げた。 「一緒に音楽演ろう、柊っ!」 返事はもう決まっている。 被せられたパーカーに袖を通して、俺は彼と同じように拳を作り。伊織さんのそれに、こつりとぶつけた。

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