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第11話
目深に被ったフードの隙間からちらりと観客席を伺えば、100人もいないだろう人々が、しかし一斉にこちらを見上げていた。反射的に怯みそうになるけれど、マイクを手に振り返った伊織さんと目があった瞬間、その緊張は溶けて消えた。
――うん、大丈夫。
観客に挨拶をしている伊織さんを横目に、キーボードに向かい合う。今回の俺の役割はわかってる。観客の興味を伊織さんへ、伊織さんの声を観客へ、"届けること"。事前に用意した音源を再生することが出来なくなったから、今回キーボード以外の楽器の音は使えない。だから、全部。ドラムもギターもベースも予定していた曲を構成する全ての音を、キーボードひとつで再現する。どうしても不足する分は別の音で補って、アレンジを重ねて、旋律を繋げていく。必要なのは、即興で弾き上げる度胸。もう一回同じように弾くことは不可能なくらい、楽譜を無視した好き勝手な演奏。
ジャンルで言うなら、ジャズピアノ。
俺が伊織さんに提案した、2人だけで作る音楽。今回限りの、世界でたった1つしかない音楽。
小さく息を吐いてから両目を伏せ、鍵盤に指を乗せた。静まり返った会場に、一音が響く。次に目を開けた時、こちらを見て楽しそうに笑んだ伊織さんに応えるように、俺はひとつうなづいて。
いつもよりずっと軽く感じる指先を走らせた。
一瞬、観客席の方がざわついた気配がした。
このライブじゃあロックやポップスがほとんどだったから、ピアノソロに驚くのも無理はない。けれど。
音はピアノでもパートはドラムだ。ゆるやかに、なんて弾かない。跳ねるように軽快に。同時に他のパートも重ねて、腹の底に響くロックを作る。
普通にピアノを弾くより当然鍵盤を叩く指の動きは激しくなるし、忙しくなる。攣りそうなくらいだ。でも、緩めはしない。そんなもったいないことできるわけがない。
視界の端で、伊織さんが息を吸った。ああ、そろそろだ。来る。あの、一瞬で引き込まれるような歌声が。まだ未完成な旋律に言葉を乗せる。その瞬間が。
どくんと、心臓が高鳴った。
――来た。
『世界はもう、傾いてる』
『この声が聞こえてるなら、あぁ誰か』
『一緒に探しに行かないか』
一曲目。『Hello,World』。
その最初の一節を、静かに伊織さんは歌い上げる。
いつもより少し低い、感情を抑えつけているような冷たい声。最初聞いた時から思っていたけれど、伊織さんは歌に感情を乗せるのが上手い。曲の世界を壊さずに、聴いている側を呑み込むような歌い方だ。だから、俺はそれに従事する。伊織さんが作る世界を、より鮮烈に。音を使って、築いていく。観客の心を、こちら側へ――導くように。
伸びやかな歌声を旋律で支えて、逆に不安定なところは支えて貰って。会場中の感情を取り込み、サビで一気に破裂させる。陽が落ちた野外ステージを照らすペンライトが、一層高く掲げられた。
勢いはそのままに曲が移り、二曲目へ。次は誰かの背中を押すような優しいポップスだ。先ほどまでの鋭さを掻き消して、柔らかく。遊ぶように軽快にステージを動き回る伊織さんはステージ上であることを差し引いても楽しそうで、自然と俺の口元にも笑みが浮かんだ。
あぁ、楽しいなぁ。
指は疲れるし立ったままの足もしんどくなってきたけれど、それ以上に楽しくって仕方がない。
終わって欲しくない、と思う。
この時間が永遠に続けばいいのに、なんて。
そんな戯事を言っても曲は進み、三曲目。前の二曲よりゆったりとした、穏やかな歌。元々ピアノが主旋律の曲だから、少し余裕があって。歌詞や旋律に思いを馳せることだって出来た。
伝わっただろうか。
届いたかなぁ。
こんなに楽しいって気持ちも、幸せだって思いも。観客と、それから――伊織さんに。
少しでも伝えられていたら良い。
そんなことを考えながら、俺は最後の一音を弾いた。
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