1 / 5
第1話
目の前の扉が開かれたとき、私はどんな絶望を迎えるのだろう。
香月(かづき)秀瑛(しゅうえい)は玉座に着いたまま、静かにそのときを待っていた。
鬨の声、断末魔の叫び、ガラガラと壁が崩れ去る音。響き渡る喧噪は、ここ数日ずっと続いている。
秀瑛以外の王族は極秘の地下通路を抜け、今頃城外へ脱出したことだろう。秀瑛一人が、ここで最期を待つばかりだ。
城はすでに取り囲まれている。秀瑛の祖先である壬(みずのえ)の民が長く治めてきたここ、壬乃国(みのくに)は、今や敵国の手に落ちた。
王である秀瑛が捕らえられれば、千年余も続いたこの国の歴史は一旦閉じる。だが、壬の血が続く限り、再建の機会はきっと訪れよう。我が命が絶えても、壬の志は受け継がれるのだ。その日が来るまでどうか皆で生きながらえてくれと、秀瑛は暗闇に向け、静かに祈りを捧げた。
王の座を引き継いだその日に、秀瑛は終焉を迎える。
慌ただしい戴冠の儀を終え、秀瑛は壬乃国の新王として今、玉座に着いていた。前王の父は涙を流し、秀瑛との別れを惜しんだ。そして必ずや領地を奪還し、壬乃国を再建してみせると、息子に誓ってくれたのだ。
秀瑛の犠牲を決して無駄にはしないと。
遺恨も恐怖もない。それが自分に与えられた役目ならば、喜んで引き受けよう。自分の死により、この戦を終わらせられることができるのなら、幸福だとさえ思うのだ。
前王自らが冠せてくれた冠に手を触れる。秀瑛の手を握ってくれた父の温もりが蘇る。
王としての務めに忙しい父とは、十八の歳を迎えた今まで、数えるほどしか顔を合わせたことがなかった。それゆえに、父の流してくれた涙がありがたく、嬉しかった。
この国を担う者として、ずっと努力を続けてきた。それがこのような形で玉座に着くことになろうとは、考えもしなかった。
だが、戦に敗れてしまった今は、仕方のないことなのだ。自分の命は天命に任せ、ただひたすら壬乃国の未来の再建を願うのみだった。
王の印として賜った剣を腰に差し、玉座に座したまま、秀瑛は最期のときを待つ。
やがて、静謐を保つ王の間の扉が破られ、無遠慮な足音がなだれ込んできた。
魚鱗甲に身を包んだ兵士たちが、玉座に着く秀瑛を一斉に見据える。手にしているのは槍や剣、その切っ先にはおびただしい血の色が塗られていた。
兵たちの中に、鎧を着けない町人のような様相の人間も混じっている。おそらくは案内役を買って出て、どさくさに紛れて王城の金品を奪おうと目論んだ兎人(とびと)たちだ。
黒髪に黒の瞳を持つ、純血の壬こそが壬乃国の民であり、それ以外の者は兎人と呼ばれている。秀瑛ももちろん漆黒の瞳に長い黒髪を持っていた。
教養も、高い意識も持たない兎人を城下に置き、生活の糧を与えてやったのに、敵国の襲来に乗じて王族を襲った愚か者どもだ。我が壬がもたらした恩恵を忘れ、裏切り、敵国に手を貸し、今は壬乃国の王の間にズカズカと足を踏み入れている。
目の前で秀瑛を見据える者たちは皆、獲物を前にした獣のように目を血走らせていた。肌の色も瞳の色も様々な、濁りを持った兎人の様相に、このような野蛮な輩に我が身を触れさせるのかと思い、秀瑛の身体に怖気が走った。
「お前は誰だ。王の姿が見えないが。どこへ隠した」
先頭に立つ兵が口を開く。
「私が壬乃国の王、香月秀瑛である」
秀瑛の声に、兵が目を見開いた。
「お前は違う。壬乃国の王、新條王を出せ。さては逃がしたか」
秀瑛の存在を認められず、兵が恐ろしい形相で秀瑛に迫る。
「新條王は私の父だ。次期王の座を私が賜ったのだ。玉座に着く私の姿が見えぬか。私がこの国の王である」
揺るぎのない声で、秀瑛は自分が王であると再び告げる。なだれ込んできた兵たちは、凜然とした秀瑛の姿に、気圧されたように押し黙る。
「城は落ちた。壬乃国の王秀瑛の命を以て、この戦を終わらせる」
新條王の子として生まれ、国を担うための教育を受けてきた。自分の命など何ほどのこともない。
「王の印である冠と宝玉、剣もここにある。私はまさしく壬乃国の新王、秀瑛である。さあ、私を連れていけ」
王の首を獲ろうと勇んで乗り込んできた兎人たちは、見覚えのない若き新王の姿に戸惑い、次の行動を図りかねていた。不測の事態に対応できない愚鈍な民だと、秀瑛は兵たちを睥睨する。
「どうした。王の間で首を刎ねるのは、いくらお前たちでもできかねると思い、表へ連れよと言っている。それともこの場で刎ねるのか? さあどうするのだ。お前たちは王を捕らえるために、大勢でここまでやってきたのだろう? 一人では何もできないか。愚か者どもよ」
愚民どもに一矢報いたい思いで、秀瑛は彼らに冷たい言葉を放った。
「時間稼ぎに身代わりを立て、王は逃げたか」
ざわめく兵たちの後ろから凜とした声が響き、人の波が割れた。一際大きな体躯を持つ男が、秀瑛の前に現れる。
他の兵士たちと同じ、鉄の魚鱗甲を着け、手には長槍を掲げていた。男が歩くたびに空気が動き、風が吹くようだ。他の兵士たちも身体だけは大きいが、厚みと硬さ、そして男の纏う威圧感で、一回り以上も大きく見える。
たっぷりとした黒髪を一つに結わえ、秀瑛を見据える眼光は鋭く、その瞳は深い碧色をしていた。太い眉に、はっきりとした顔貌は、古の伝説に聞く鬼のようだと秀瑛は思った。
「地下通路でも伝って城を出たのだな、この国の王は」
「……私が王だ」
気圧されそうになりながらも、秀瑛はかろうじて威厳を保ち、そう答えるが、男はフ、と鼻で嗤った。
「自分の命が危ういと見るや、城を捨てて逃げたか。粗陋な壬らしい逃げ足の速さだ」
「我が王族を愚弄するか!」
卑しい身分の一兵士の冷笑に、思わず声を荒らげる秀瑛だが、男は口端を片方だけ引き上げたまま、秀瑛を見下ろしている。
「壬乃国の礎を築き、ここまで発展させたのは我が祖先、壬の民だ。粗陋などという言葉は、豊かなこの国を焦土と化したお前たちのことを指すのだ」
秀瑛の反論に、男はおどけたように肩を竦める。ふてぶてしい態度に拳を握る秀瑛を、男が煽るように見つめて言った。
「これはまた異なことをおっしゃる。この地は元々我らの土地であったものを、お前たち壬が奪ったのではないか」
「そのようなことがあるわけがない」
「壬は略奪と根回しが得意な民族なのだろう? 騙しの手口で国を得、自分たち以外の民を奴隷のように扱う」
「嘘をつくなっ!」
「お前は盗賊の末裔なのだよ」
謂れのない嘲笑に、秀瑛はついに立ち上がり、男を睨み上げた。
王の印として与えられた宝剣に手をかけ抜き去ろうとする秀瑛に、周りの兵たちが色めき立つ。おめおめと捕らえられ、今のような侮辱をこれからも受けるのであれば、ここで刃を交えて果てたほうがましだ。
秀瑛が鞘に手を置いても、男は微動だにせず、秀瑛を静かに見下ろしている。男の纏う風圧に力の差を感じた。秀瑛が斬りかかれば、おそらくは一太刀で自分は沈むことになるだろう。それでもかまわない。
侮辱されたまま生きるのは、王の道に反する。
「秀瑛と名乗ったか。王の何番目の継承者だ? 新條王には妃が三人いると聞いたが」
秀瑛の殺気にも何も感じないようにして、男が問うてきた。
「第二王妃の長子である」
母は自分が産まれてまもなく亡くなったと聞いている。秀瑛の上に第一王妃がもうけた男子がいたのだが、そちらも幼くして亡くなり、自分が継承者となった。
第三王妃には娘しか恵まれず、第一王妃がもう一人男子を産んだが、それも生まれてすぐに亡くなった。
「私が第一にして唯一の継承者だ」
「他の皇子を殺して権利を得たか。流石に忌まわしい壬の子孫だな」
男の愚弄が続き、鞘に置いていた手に力を込めると、「瑞龍(ずいりゅう)様」と、男の足下に跪く兵士がいた。
「新條王は、おそらくは秘密の通路を通り、外へ逃げ出したのでしょう。まだ遠くへは行っていないはず。城に火を放ち、燻りだしましょうか」
「……いや、火は使わずに捜索を続けよ」
兵士が「はっ」と頷き、数人がバタバタと王の間を出ていく。
「城を燃やすのは忍びない。元々は我らのものだったのだからな」
瑞龍と呼ばれた男が、まだそんな戯れ言を放ち、それから秀瑛に視線を戻した。
「お前の父も、その他の王族も、我々の祖先から領地を奪い、民を苦しめた罰を受けなければならない」
「民を苦しめたのは、戦を始めたお前たちだ」
「我々はお前たちが『兎人』と呼び、奴隷扱いした民を解放し、我が土地を奪還するために戦に挑んだ」
「まだ言うか! 出鱈目を言うなっ!」
激昂する秀瑛にかまわず、瑞龍は足下に傅く兵に「連れていけ」と、命じた。
兎人の兵士二人が秀瑛に歩み寄り、両腕を押さえる。
「壬の血を根絶やしにする。逃亡者は草の根分けても探し出し、皆殺しにしてやる」
瑞龍は石のように硬く冷たい双眸を向け、そう言い放った。
放り込まれたのは石でできた穴蔵のような小屋だった。
窓はなく、今投げ入れられた入口も、這わなければ潜れないほどの小さな穴で、秀瑛が閉じ込められたあとは、鉄の柵で塞がれている。
「一応王様だということだからな、一人部屋にしてやったぞ」
秀瑛を放り込んだ男がこちらを覗き込みながらそう言った。
「お前たち壬が俺たち兎人に強いたのと同じ扱いをしてやるよ。明日からは他の罪人たちと一緒に働いてもらう。せいぜい泣き暮らせ」
男が言い残し、姿を消した。
王の間から連れ出された秀瑛は、城外で処刑されるものと思っていたのだが、生かされたまま敵国「兎乃国(とのくに)」へと運ばれてきたのだ。
秀瑛と対峙した瑞龍とは、あれから顔を合わせていない。地下通路から逃げ出した父たちを探して奔走しているのかもしれない。
「ここで明日から労働させられるのか……」
処刑を免れても、幸運だとは考えられなかった。
小屋の奥には布きれの載った板が一枚敷いてあり、どうやら寝床のようだ。
秀瑛のいる小屋以外にも、人の気配がする。壬乃国で捕らえられた壬の民や、罪を犯した囚人たちなのだろう。明日からそれらとともに過酷な労働を強いられるのか。
鉄格子の間からは西日が射していた。目隠しをされたまま連れてこられたので、ここが兎乃国の領地のどの辺りなのかは分からない。
兎乃国は、壬乃国よりも遙か西に位置していたはずだ。岩と砂に囲まれた、貧困な土地だと教えられた。格子の隙間から見える光景も荒涼としていて、緑豊かな壬乃国とはまったく違っていた。
「……父上はどうしているだろうか」
他の姉妹や妃たちは戦いが始まったときにいち早く脱出させたと聞いた。父は現王として最後まで城を守り、持ちこたえられなくなる寸前で苦渋の判断を下したのだ。
「どうか無事でありますように」
涙で崩れた父の顔と、「頼むぞ」と言いながら握ってくれた手の温もり。秀瑛は自分の拳を包み、父たちの無事を祈った。
壬の血が絶えさえしなければ、いずれ壬乃国は再建する。
豊かで平和な国だった。民の安穏な生活を破り、自分たちをこのような立場に追いやった兎乃国が憎い。
兎乃国は、罪を犯して壬乃国から放逐された罪人や、盗賊のなれの果てが築いた小国だ。野蛮な者の集まりで、知性もなく、取るに足らない国だと思っていたのだが、点在する他国を巻き込み、壬乃国に住む兎人たちをもそそのかし、我が国を襲ってきたのだ。
その上、自分たちの蛮行を棚に上げ、秀瑛たち壬の民を盗賊の末裔だと罵った。とんでもない妄誕無稽に、再び怒りが込み上げる。
「どちらが盗賊の末裔だ。あの瑞龍という男め……」
深い碧色の瞳は、雑多な血の混じる兎人の証だ。あのような下劣な男に自分たちの国のことを悪し様に言われ、悔しくてたまらなかった。あのとき死を覚悟で剣を抜けばよかったと後悔する。
次に会う機会があればきっと……。
そう心に誓い、拳を握りしめるが、秀瑛が再び瑞龍と会う機会はおそらく訪れないだろう。どれほどの地位に就いているのかは知らないが、一兵団を統べる立場を持つあの男が、囚人が労働する地域になど足を踏み入れるはずもない。
次に会うのは、たぶん自分が処刑されるときだ。そしてそのときが来るまで、秀瑛はこの乾いた辺境の地で、ずっと労働を強いられるのだ。
今日の命は免れた。だが明日は分からない。
そして、どれだけ命が長引こうとも、もはや自分に安寧の日は訪れない。
あの王の間を辞した瞬間から、秀瑛の絶望は始まっている。この命が終わる瞬間まで、ずっとこれは続くのだ。
書籍の購入
ともだちにシェアしよう!