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第5話

 夜、暑苦しさに秀瑛は目を覚ました。肩の痛みは未だ去らず、身体も熱い。  部屋はシンとしており、なんの音も聞こえない。外とは完全に遮断されているようだ。寝台の褥も柔らかく、身体にかかっている絹の布が温かい。  初めに入れられていた石の小屋では風が容赦なく吹きこんでいた。この熱を持ったままあそこで寝ていたら、今頃死んでいたかもしれない。 「傷が治るまでと言っていたな……」  あの場所と比べれば天国のような快適さだが、いずれまたあそこへ戻るのかと思えば、気持ちが萎えた。  死ぬよりはましだとは、未だに思えない。  壬乃国の王の間で、あのまま処刑されていたほうがよかった。そうすれば、作業場であんな目に遭わずに済み、今も敵の温情を受けるという惨めな境遇に陥ることもなかった。  父たちはどうしているだろうか。頼りになってくれる国へと逃げおおせ、今頃壬乃国の奪還を図っているのか。秀瑛は今も生きながらえていることを知ったらなんと思うだろう。  壬乃国が力を取り戻し、再び戦が始まるようなことになったとき、秀瑛は人質として交渉の材料になってしまうだろう。枷にはなりたくない。  暗闇の中で故郷のことを考えていると、部屋の扉が静かに開き、人が入ってきた。  音を立てないように静々と足を運び、秀瑛の寝台の前でピタリと止まる。顔を覗き込んでいる気配がした。 「こんな夜中になんの用だ。私が苦しんでいる様子でも見に来たのか?」  秀瑛の声に、上にある気配がフッと笑い、灯りが点った。碧色の瞳が灯火の中に現れる。 「目を覚ましたと聞いたのでな」  寝台の脇にある椅子に座りながら、瑞龍が言った。 「肩の痛みはしばらく続くだろう。熱はまだ引かないか?」 「……礼は言わぬ」  監視兵たちの暴力を止め、隔離されたことはありがたいとは思うが、自分が望んだわけではない。施しも同情もいらなかった。  秀瑛の頑なな言葉に、瑞龍は表情を変えずに「どうでもよい」と穏やかな声で言う。 「お前が兎乃国の王だったとはな。驚いた」 「ああ、形だけだ。国政は未だ父が動かしている」  瑞龍はそう言うが、それは真実ではないのだろう。父の力が強いというのなら、瑞龍一人の一存で、秀瑛をこのような処遇に置けるはずもない。 「俺の従臣たちが無礼を働いた。その詫びの気持ちだ」  切れ長の目が細まり、「ひどい仕打ちをしてしまった。どうか許してほしい」と、瑞龍が再び頭を下げた。 「野蛮な民族だからな。やることも考えも低俗で反吐が出る」   所詮兎人が集まった末の国だ。礼節など期待もしていないし、詫びもいらなかった。押さえつけられ、衣服を剥かれた屈辱は、到底許すことなどできない。 「一国の王が軽々しく頭を下げるなど、見たことも聞いたこともないわ。見識も品位もない兎人らしいな」  秀瑛の皮肉に、瑞龍の肩がピクリと動いた。こちらに向けた碧色の瞳に燭台の炎が映り、瑞龍自身が燃えているようだ。 「部下の失態はすべて上にいる俺の責任だ」 「たいそうな度量だな」 「兎人は壬に恨みを持っている。そのはけ口にお前はされたのだよ。お前たち壬には、お前がされたことよりももっとひどい仕打ちを受けた」 「そんなことはない。あれほど我らが庇護してやったのに、裏切ったのだ」 「庇護……?」  瑞龍が目を見開き、ハッと息を吐く。 「我らの土地を略奪した上、元々住んでいた民からもすべてを搾取し、傍若無人に振る舞った壬が、兎人を庇護しただと?」 「何を言っているのだ。以前もそのような戯れ言を言っていたな。歴史をねつ造するなど、許されることではないぞ」  壬は千年も前に壬乃国を建国し、民を護り、ずっと平穏に暮らしてきた。我々壬の知恵と力がなければ、今のような生活を得られるはずもないのに、その恩を忘れ、逆恨みで反乱を起こしたのだ。 「周りの国々にもそのような嘘八百を吹聴し、我が国の民をもたぶらかしたのか。卑劣なことをする」 「調略と歪曲を繰り返したのは、お前たち壬だ」 「嘘を言うな」 「本当のことだ。事実に目を瞑り、虚偽の歴史を積み重ねても、いずれ綻びが出るぞ」  瑞龍の言っていることがまったく分からない。我々の国を襲い、領地を奪っておいて、先にやったのはお前たちのほうだという。壬乃国にそんな歴史はなく、兎乃国こそが略奪者なのに。 「お前こそいい加減なことを言うな。碌な教養もなく、最底辺な生活をする兎人に仕事を与え、潤わせてやったのは我々壬だぞ」 「それは違う」 「我々の助力なくして豊かな生活ができるはずがないだろう。私を襲った監視兵たちの行いが、お前たちの本性だ。お前たちは愚鈍で怠け者の、最悪の民族だ。兎人こそが滅んでしまえばいいのだ!」  秀瑛の叫びに、瑞龍の瞳がギラリと光った。自分の持つ血を貶され、気分を害したのだろう。だが、秀瑛の言ったことは、揺るぎない真実だ。 「図星を指されて憤ったか」 「……随分な口の利きようだな。秀瑛よ。自分が囚われの身という立場を忘れているようだ」  低く、重々しい声を聞き、秀瑛の身体に戦慄が走る。瑞龍の言葉は、あの作業場で自分を貫こうとした近平の放った言葉と同じ意味を示していた。監視兵に刃向かう秀瑛に、自分の立場を教えてやると言い、彼らは秀瑛を組み敷いた。 「……ならば殺せ」  両膝を掴まれ、無理やり広げられた。身体中を這い回る男たちの手。泣かせてやると、下卑た笑いを浮かべ、秀瑛の身体を弄んだ。 「詫びも温情もいらぬ。私を今すぐ殺せ」  この男もあの近平と同じ手段で、秀瑛を貶めようとするのだろうか。  剣はない。たとえ今手にしていたとしても、瑞龍相手ではすぐに奪われ、簡単に組み敷かれてしまうだろう。  身体が重く、熱が上がった。火に炙られたように熱く、それなのに震えがくる。  怯えなど持ちたくなかった。秀瑛のそんな姿を見れば、きっと瑞龍はいい気味だと胸がすく思いをするだろう。悔しくて仕方がないが、気持ちと裏腹に、歯の根がガチガチと音を鳴らし、指先が震えた。 「私を殺せ……」  生き延びることに喜びも安堵も持たない。温情を持つと言うのなら、せめて壬乃国の王として、尊厳を持ったまま逝かせてほしい。  長く重い沈黙が続き、やがて瑞龍が立ち上がった。 「もう夜も遅い。何も心配をせずに、ゆっくりと休むがいい」  瑞龍の身体からは、立ち上るような怒りの気配が消えていた。秀瑛の怯えを見て取ったのか、ことさら穏やかな声を出され、それも屈辱だった。 「今夜は冷える。寒くはないか? ミトに命じて温かい飲み物を持ってこさせよう」 「何もいらぬ」  瑞龍の労りを撥ねつける秀瑛に、瑞龍は短い溜息をつき、静かに部屋を出ていった。  静寂が訪れる。  瑞龍の怒りに触れ、それでも何も起こらなかったことに安堵した。同時に言い知れぬ虚脱感に襲われる。  生きている間じゅう、こんな日々がずっと続くのか。  国を失い、家族と離れ、敵国に一人囚われている。  天命はまだ下りない。それはいつ訪れるのか。  絶望が秀瑛を包んでいく。  早くそのときが訪れてくれと、火の消えた部屋の中で、秀瑛は闇に祈った。

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