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第23話

 せいぜい嫌みったらしくブラウスもスカートもハンガーにかける。台所に行き、ことさら威勢よく腕まくりをした。 「乞うご期待。フランス出身のサミュエル・モロー先生に作り方を教わったブイヤベースをごちそうするよ」  ラウルは食事を手つかずで残すことが多い、と栄養士から注意を受けていた。カイルは、ようやく使いこなせるようになった電磁調理器に鍋をかけた。  だいたい病院食はおしなべて薄味で、癖の強い羊料理を食べつけてきた身には物足りない。目先が変われば食欲が湧くだろう。 「ブイヤなんとかより肥料を持ってこい。俺の足に生えてくださった木に与えるやつを」  怒気を含んだ声に心臓が跳ねた。カイルは玉ねぎの皮をむきはじめた恰好で固まった。 日増しにすさんでいくラウルにどう接したら彼の心が安らぐのか、皆目見当がつかない。  ジーンズの尻ポケットに手をやり、ハモニカをまさぐった。これでラウルの好きな曲を吹けば、少しは気が休まるだろうか。  と、ラウルが丸太を一本ずつ手で持ちあげて運ぶ要領で歩み寄ってきた。膝が曲がりにくくなる段階に入り、樹皮症の進行を食い止められないかぎり、否が応でも車いすに頼らざるをえない日が訪れる。  その日は半年先だろうか、それとも……来月かもしれない。  指が小刻みに震えだして、玉ねぎがすべり落ちた。 「床の神さまが食べたがってるのかな」  苦笑を浮かべてみせながら腰をかがめ、玉ねぎを拾いあげたところで押しのけられた。ラウルは包丁を手に取ると、切れ味を確かめるようにまな板を()いだ。 「手伝ってくれるんだ。でも、おれが作る。座って待ってて」  憎々しげに睨まれて縮みあがった。ラウルが冷蔵庫を背にして胡坐をかき、ズボンの裾をめくりあげるさまを言葉もなく見つめた。  港の近くの市場を覗いてみたときのことを思い出す。生まれて初めて目にしたフジツボが、ひと山いくらで売られていたことを。  茹でて食べると美味だが、人間の骨に寄生するという迷信があると聞いて怖気をふるったものだ。  今しもさらけ出された膝頭は、あたかもフジツボが寄り集まっているような、ごつごつとした塊に変じていた。思わず目を逸らすと、鼻で嗤われた。 「おまえも腹の中じゃ俺を化け物扱いしてる。おためごかしは、たくさんだ」  ラウルは包丁の刃をむこうずねにあてがうと、ためらいも見せずに食い込ませ、羊の毛を刈る体で縦にすべらせた。  血は出ない。代わりに半透明の液体がしみ出して、床にしたたり落ちた。 「馬鹿な真似はやめろよぉ!」  カイルは、こちらに切っ先が向けられた包丁をもぎ取った。板切れめいたものが垂れ下がる 臑を布巾で縛るのももどかしく、 「縫ってもらわなきゃ駄目だ」  ナースコールを押しに走ろうとした瞬間、ジーンズの裾を引っぱられてつんのめった。 「ほぉら、とくと御覧(ごろう)じろだ」    傷口は赤いものと相場が決まっている。ところがぱっくりと口をあけた、その断面は全体的に白っぽい。  おまけに脂肪層であるはずの部分が、ささくれている。ありていに言えば、縦に割った薪を思わせて。 「やっぱり、こそげ落とすのは無理か……」  ラウルはこめかみを揉み、頭をひと振りすると、足を八の字に投げ出した。  ──捨て鉢になるとツキが逃げていく……。  そう口をすべらせる寸前、からくも唇を嚙みしめた。仮に自分がラウルの立場に立たされたときに利いた風なことを言われたら、相手を八つ裂きにしてやりたくなるだろう。  カイルは夜ごと狼の牙をかじって祈りを捧げる。あしたこそ樹皮症の特効薬が開発されたという朗報が舞い込みますように──と。  期待を抱いては、がっかりするという毎日を送っているうちに秋は深まっていく。だが、カイルに嘆く資格はない。  日々、失意のどん底に突き落とされているのはラウルなのだから。    もちろん医師たちのチームも手をこまねいているわけではない。市村以下、参考資料など皆無に等しいなかで樹皮症の治療法を模索していた。  樹皮症は皮膚癌の一種であるとの仮説を立てて、抗がん剤を投与したり、放射線を照射したりする案が検討されたのも、そのひとつだ。

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