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第22話

   一番星を仰いでそう思いながら、駆け足で病室に戻る。すると夕刻の回診を終えた市村と玄関先で行き合った。  カイルは何歩か後ずさりをした。ラウルの主治医だから、と礼を尽くすように心がけているものの、腹の内が読めない異邦人の医師は苦手で、いきおい彼に対する態度はぎこちなくなりがちだ。 「がんばり屋を紹介してくれた、と料理人に感謝された。きみは陰日向なくよく働くと」  開口一番そう言われて、小さくうなずいた。そして眉をひそめた。白衣の胸元に茶色いシミができているのは、もしかするとラウルがコーヒーカップでも投げつけたせいかもしれない。  物問いたげな視線を追って、市村が、そういえばというふうに白衣をつまんだ。 「病気にかかれば誰しも弱気になったり運命を呪ったりするものだ。ラウルくんの場合は怒りが表出している段階にある。それもまた病に打ち克つための重要なプロセスだ」 「プロ……? 外国語はわからない」 「過程のことだ。聡明そうな顔立ちをしているのに学ぶ機会に恵まれなかったのか。もったいない」 「おれのことなんかより、ラウルを絶対に治してくれるね」  詰め寄る形になれば、掌をこちらに向けられて制された。  はぐらかすのは卑怯だ。もう半歩、前に出ると反対に顎に指が添えられて仰のかされた。 「少数民族の中には、とんでもない美形がいると聞いていたとおりだ。きみたち姉弟は一対の宝石だな」    値踏みをするような目つきに皮膚が粟立つ。市村を()め返すと同時に蜂蜜色の髪がひと房、梳きとられた。  カイルは髪の毛がちぎれてもかまわず、飛びのいた。 「髪の毛は神さまが宿る神聖なものだ。よそ者が、さわるな!」 「失敬、見た目に違わず絹糸のような手ざわりなのか確かめてみたくてね。理系の(さが)だ」    と、悪びれた色もなく背中を向けた。  カイルは、ぞわぞわする感触が消え残る顎を乱暴にこすると、病室に駆け込んだ。ただいま、と努めて朗らかに声をかけながら居間に入る。そしてドア口で立ちすくんだ。  ラウルは窓辺に置いた椅子に、だらりと腰かけていた。かたわらのテーブルの上には吸殻が山盛りになった灰皿が載っていて、吸いさしがくすぶっている。  握りつぶされた空き箱がふたつ。部屋全体が白く霞む。  生体実験に協力してやる代わりに煙草くらい好きに吸わせろ、というのがラウルの言い分だ。黙認されているのをよいことに本数が増える一方で、 「吸いすぎだ、躰に毒だよ」  くわえ煙草を引っさらうと、顔をめがけてライターが飛んできた。  この粗野なふるまいも、市村曰く「必要なプロセス」なら納得がいく。カイルは灰皿をきれいにしてくるついでに換気をすませると、モニとふたりで使っている隣の部屋に行った。  明かりを点けたとたん、頭に血がのぼった。  着ていくものを決めるのに取っかえひっかえしたのだろう。値札がついたままの物も含めて、脱ぎ散らかした洋服が、モニのベッドを埋め尽くしていた。 「『自分で縫ったブラウスは野暮ったくて、あんなのを着て出かけるのは恥ずかしい』──か。洒落っ気だけは一人前だ」  モニはアイスクリーム屋で働きだして以来、草原の暮らしを忌み嫌うようになってきた。  同僚は全員地元育ちで、引け目を感じるのはわからないでもない。もともと都会に憧れていた姉が仕事帰りに街を散策して回るのも、週に一回程度なら目をつぶる。  だが「精一杯看病する」が聞いて呆れる。  台所に飲みものを取りにいくのもひと苦労、というラウルの手助けをするのが筋で、それをそっちのけで遊び歩いているようでは、ここにいる意味がない。  確かに近ごろ、とみに怒りっぽくなったラウルのそばにいるのは気づまりに違いない。  とはいえ、モニがラウルに恋情を抱いているのは周知の事実だ。たかが歩くのが少々不自由になったくらいのことで恋は冷めてしまったのだろうか。  だとしたら、あまりに薄情だ。

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