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第68話

 ガラスを叩き割ってでも、集中治療室に飛び込んでいきたい。  夜通し窓にへばりつき、悶々とラウルの様子を窺っている間中、狼の牙とより分けておいた髪の毛に交互にくちづけて、危うい衝動を飼い馴らしつづけた。  ところで生来の器用さは、こういう分野でも発揮された。ラウルは抜糸がすむころには、まばたきと思念でカーソルを動かし、またピンポン玉を握ってみせるまでにロボットアームを使いこなせるようになっていた。 「カイル、文明の利器ってやつはすごいな。こんなこともできるぞ」  今しもロボットアームが動いて、右の皿に置いてあった積み木を左の皿に移し替える。ラウルが得意顔を理学療法士に向けると、マンツーマンで指導するために病室を訪れていた彼は、市村ににこやかに話しかけた。 「ラウルさんは筋がいい。僕がこれまで担当した患者さんたちの中でも、ずば抜けて上達が早くて感心します」 「種を明かすとな、俺の場合はとびきり上等の人参が鼻先にぶら下がってるおかげで、やる気が出るんだ」    ラウルは悪戯っぽく目をきらめかせると、ロボットアームを操り、枕元に控えていたカイルの腰をつつく。  カイルが躰をふたつに折ってベッドを覗き込むと、素早く頭をもたげて朱唇をついばむ。 「訓練をがんばってる自分へのご褒美は、これだ。なっ、上等の人参だろ?」  カイルは頬を桜色に染めて、病室の隅まで走って逃げた。 「わたしも、こちらの(リー)先生も独身だ。大っぴらにイチャつかれると内心、穏やかではない。自重してくれたまえ」    市村は声に微かに棘を含ませ、縫合した痕を消毒したうえで絆創膏を貼り替える。  理学療法士のほうは、へどもどと積み木を箱にしまった。  と、ラウルが咳払いをした。そして神託を下すように厳かに言った。 「俺の予想では、しゃらくさい木の皮が唇を餌食にしはじめるまであと二十日」  「根拠は!? デタラメを言うなっ!」  カイルは血相を変えて枕元に駆け戻り、ラウルはそんなカイルに対して静かに首を横に振ってみせた。 「足の指がおかしくなってから約一年。悪化する速度に基づいて答えをはじき出した」   重苦しい沈黙が垂れこめた。あながち素人判断と言いきれないことに、維管束は喉頸を射程圏内におさめつつある。ラウルの躰は、今や頭部を除いて薄茶色の漆喰で塗り固められたような様相を呈していた。 「計算通りにいきっこない、取り消せ、いくらラウルでも悲観的になるのは赦さない」    カイルは駄々っ子のように言いつのった。  ラウルはまっすぐ見つめ返してくると、カイルの手に機械の手を重ねた。 「二十日を分に換算すると二万八千八百分だ。ってことは、理論的には唇がふさがれる前に二万八千八百回はお前とキスができる勘定だ。人前でイチャつくな? こっちは必死だ野暮を言うな」    語尾にかぶせて市村に流し目をくれると、不敵に笑った。反論できるか、と挑発するように。   理学療法士が、そわそわと白衣の皺を伸ばす。かたや市村は直立不動の姿勢をとったあとで、深々と頭を下げた。 「最善を尽くすと大見得を切っておきながら、これといった治療をほどこせないまま今日(こんにち)に至ってしまった。力が及ばず申し訳ない」    面罵して溜飲を下げたいところだろうが、ラウルは、けっ、と吐き捨てるにとどめた。そして拝み手をするふうにロボットアームを動かした。 「あんたはいけ好かない野郎だが、人柄はわりと信頼できる。大ざっぱに言えば死後だな、俺が人間として終わったあとはカイルの後ろ盾になってやってくれ」  斜線が視界を何本も走る。躰がかしぎ、カイルは床に崩れ落ちた。  死後、と呆然と呟くはしから、自分の声が禍々しく耳朶を打ち、あわててゲン直しの(いん)を結ぶ。  もう安心だ、これでラウルにとり憑いた弱気の虫は退散した。蒼ざめた顔を精一杯ほころばせて、にっこり笑いかけた。 「おれたち羊飼いは、粘り強いのが身上だ。死後なんて何年も先の話で、第一、年齢(とし)からいって市村先生のほうが先に逝く」

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