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第67話

 時間はのろのろとすぎていき、胸の小鳥がぐったりとなったころ、ようやくランプが消えた。  やがてストレッチャーに横たわって出てきたラウルは身じろぎもしない。点滴と頭に分厚く巻かれた包帯と、その上にかぶせられたネット。  生気が失せたさまにカイルは息を吞んだ。思わずストレッチャーに駆け寄り、遅れて姿を現した市村に押しとどめられた。  顔が脂ぎって疲労の色が濃いが、表情は明るい。そして市村は、鷹揚にうなずきかけてきた。  ああ、手術は成功したんだ。カイルはへたり込み、ありがとうございます、ありがとうございます、と床に額をすりつけた。 「ラウルくんは、今夜はICUのほうで経過を見る。きみはどうせICUの前で夜明かしをするのだろう。長丁場だ、今のうちにエネルギーを補給しておくこと。これは医師としての命令だ」  否応なしに喫茶室につれていかれた。市村は、カイルにはサンドウィッチのセット、自分はコーヒーを注文すると眼鏡を外してレンズを磨いた。 「『色好い返事を期待してる。後生だからフッってくれるなよ』──以上、ラウルくんから伝言だ」  乱暴に眼鏡をかけなおすと、日本語でぶつくさと言う。 「損な役回りを押しつけられて、わたしはピエロか」    役回り? とカイルが日本語の意味もわからずにたどたどしく復唱すると、市村は苦笑いを浮かべた。コーヒーをすすってひと呼吸おき、この国の公用語に戻す。 「ラウルくんの食事の介助は、きみが主に(にな)っているそうだな」 「担うってほどじゃ。ただ、おれだと気心が知れてるぶんわがままが言いやすいみたいで、だから……」    カイルは、もそもそとサンドウィッチをかじった。消化器に負担をかけすぎないように、との配慮でラウルの三度の食事は、最近はもっぱら流動食だ。  むせないようにゆっくり、ひと匙ずつ口許に運ぶ。俺は雛か、とラウルはむくれて、カイルは彼の変容ぶりに切なさをかき立てられる反面、ほのかな幸せを感じる。  ラウルを独り占めにしても邪魔が入らない日が訪れるなんて、夢想だにしなかった。  市村が人差し指を立てた。 「手術を勧めた狙いはもうひとつ、ロボットアームを操作できるようにすることにあった。訓練しだいで箸を扱えるし、自分で歯みがきもできる。絵もまた描けるようになる。きわめて肝心な点は……」    眼鏡を押しあげ、重々しげに言葉を継ぐ。 「性具を用いて、きみを愛おしむことも夢ではない」  キュウリの欠けらが喉につまり、カイルは胸をどんどんと叩いた。涼しい顔を睨み返しても、市村は平然とカップを口に運ぶ。  カイルは、つけ合わせのパセリをむしった。市村は意外に面倒見がいい、感謝もしている。当初の苦手意識はだいぶ薄れたものの、やはり根っこの部分で理解しがたい人物だ。 「さて、先に行く。ラウルくんが麻酔から覚めるまでしばらくかかる。きみは食休みをしてから来たまえ」  と、伝票をさらい取りながら言われても、のんびりしてなんかいられない。そそくさと喫茶室を後にして、足早に廊下を歩く。  見舞い客のピーク時とあって、ただでさえカタツムリより速度が遅い病院のエレベータは一向に来ない。焦れったさに階段に回って数階分、二段飛ばしに駆けあがる。  めざすフロアに行き着くと、自然と忍び足になった。はめ殺しの窓に沿って廊下を進んだすえに、奥まったベッドで昏々と眠るラウルを見つけた。  ちょうど看護師が点滴を取り換えにきたところで、その看護師は、ラウルの下半身はこういう状態にあるとの説明を受けていたはずだ。ところが、ぎょっとしたふうに後ずさった。  怪物に遭遇したみたいな驚きように、カイルは柳眉を逆立てた。胸の小鳥にしても、看護師の目玉をほじくってやりたいと願って(くちばし)を突き出すようだ。  ラウルのそばに行きたい。第一、窓の向こうとこちらに分かれていては、もうひとつの約束──おとぎ噺の王子みたいにキスで俺を起こしてくれ──を果たせないじゃないか。

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