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第66話

 と、咳払いに物思いを破られた。 「順番が逆になった。おまえのあれは銜えたくせにキスし忘れてたなんて、ボケてるな」  カイルは間の抜けた相槌を打った。キス? 幻聴ではなくて、本当にキスと囁かれた? きょとんとラウルを見やると、彼はこのうえなく真摯な口調で言葉を紡ぐ。 「モニから乗り換える節操なし、と軽蔑したけりゃ好きにしろ。けど、掛け値なしに本気だ。カイル……」  眉間を射貫くような眼差しを向けられて、まともに息もできない。瞬時、真空地帯と化したようにすべての物音が消えたところに、さしずめ光の矢が心に突き刺さった。 「おまえを愛している」  カイルは、ぽかんと口をあけた。カラクリ人形めいて、ぎくしゃくとうなずきながら(くずお)れていき、尻餅をつく。頭蓋で繰り返し轟くたびに、頬が紅潮していくものがある。  ──カイル、おまえを愛している……。 「くそ、なんとか言えよ。もう一回言うから、耳の穴をかっぽじってちゃんと聞け」  あ、と口を開き、そこに看護師がラウルを迎えにきた。 「肝心なときに時間切れか。カイル、手術が終わって真っ先に見たいものは、おまえの笑顔だ。おとぎ噺の王子さまみたいに、キスで俺を起こしてくれ」    車いすを押されていきしな、ラウルは片目をつぶってみせた。  ぽつんと取り残されたあとも、カイルはしばらくのあいだ微動だにしなかった。けたたましい蝉の初鳴きに、ようやく我に返ると四つん這いになった。  砂金採りさながらの熱心さでもって、菩提樹の根元に散らばっている髪の毛はもとより、小道のわずかな亀裂に入り込んでいるものに至るまで拾い集める。  ひとまずゴミ袋にまとめて入れたところで思い直し、ひと房ぶん、より分けた。  狼の牙と同様、この髪の毛も肌身離さず持ち歩くことができるように何か工夫をしよう。艶やかな黒髪が髪になびくさまを思い起こすさいの(よすが)とするために。  髪はまた伸びるのだから大げさだろうか。だが、いち早く維管束の脅威が頭部に迫り、毛根を破壊していた場合は、どうなる……?   目も鼻も口も樹皮状のものに埋もれたあとで、のっぺらぼうと見まがう風貌に変わり果てていたら……?  災いは恐怖心が好物で、その匂いを嗅ぎつけて忍び寄ってくる。村に伝わるゲン直しの呪文を唱え、邪気を払ってから本棟に急ぐ。  手術室に運び込まれる直前まで手を握っていてあげる、というラウルとの約束をうっかり破ってしまうところだった。  かろうじて間に合った。予備麻酔の影響で夢うつつという状態にあるラウルに、にっこりと笑いかけて送り出す。  扉が閉まった。手術室の前の廊下に並ぶ長椅子に腰かけ、扉の上に灯る、手術中であることを示す赤いランプが消えるのをひたすら待つ。  一秒ごとに鉛の弾が胃袋に詰め込まれていくような間も、ともすると耳の奥でこだまする「愛している」。  まさしく寝耳に水で、空想の産物にすぎないように思えて仕方がない。 「愛している」と響きがよく似た別の言葉と聞きちがえて、有頂天になったのだとしたら、とんだお笑い種だ。  では、あの接吻も妄想の一種……?  カイルは、宙を漂っているような思いで唇に指をあてがった。そっと輪郭をなぞる。淡々しいくちづけだったにもかかわらず、彫りつけてあったようにラウルの唇の感触が甦る。  キス、と呟くと今さらめいて全身が火照りだす。顔が真っ赤に染まり、通りかかった看護師に体調を気づかわれるほどだった。  喧嘩別れをして以来、モニのことは努めて頭の隅に押しやっていた。くちづけも愛の告白も現実の出来事だと、じわじわと実感が湧いてくるにしたがって姉の面影が目の前にちらつき、優越感にひたる。  後釜に座った形だろうがなんだろうが、ラウルが今、愛しているのはおれだってさ──。  そうだ、ラウルは正直者だ。愛している、と彼が言えば文字通りの意味だ。  なのに手放しで喜べない。ラウルが扉を隔てた向こうで、生きるか死ぬかの瀬戸際に立っているのかもしれないのだから。

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