65 / 86

第65話

    第11章 定植  漆黒の髪をひと房、切る。指の間からすべり落ちて空中で散り散りになるさまが、なんとも言えず物悲しい。  カイルは汗をぬぐうふうを装って、口角を上に引っぱった。鋏を握りなおし、努めて頭を空っぽにして、前髪も横の毛も襟髪もじょきじょきと切っていく。  おまえの手で俺を丸坊主にしてくれ。  ラウルにそう頼まれたら、ふたつ返事で引き受けるに決まっている。ついでに外をぶらつきたい、との注文に応えて、ラウルが横たわったストレッチャー型の車いすを押して中庭をひと回りしたすえに髪を切りはじめたのだ。  ひこうき雲が蒼天を一直線に切り裂くところは、アイスクリームを浮かべたソーダ水のように涼しげだ。  真夏でも朝晩は火が恋しいようだった草原とは違い、ビルが林立する首都は初夏のうちから熱風が吹き荒れて、今日も暑くなりそうだ。  それでも朝のうちはいくらかしのぎやすい。殊に花盛りの菩提樹の木蔭は、特等席だ。  鋏を入れる合間合間に、ラウルの視線はあちらの花時計、こちらの植え込みへと流れる。  指は枯れ枝じみてねじくれて、もはや簡単な記号すら書けない。代わりに睫毛の上げ下げで景色を写し取ろうとするように、忙しなくまばたきをする。  今日、ラウルは開頭手術を受ける。  直径一ミリ程度の電極を百個あまり並べたシートを大脳の運動野に取りつけることで、脳内で発する電気信号を捉えることが可能になり、連動してパソコンが動く──云々。  それが手術の目的および概略だ。  ちなみに執刀医の市村は、成功率はほぼ百パーセント、と自信たっぷりに請け合った。 「器用ねえ、床屋を開けるわよ」  かたわらに控えていたアイリーン・リーが微笑んだ。麻酔医の彼女は手術に際して重要な役割を果たす関係上、数値には表れないラウルの健康状態が気になる様子で、発汗量などをさりげなく観察する。 「毛を刈るのは羊で慣れてる」    カイルがわざと鋏をちょきちょき鳴らすと、 「メェエ、痒い、搔いてくれメェエ」  ラウルは素っ頓狂な声をあげて顎を反らす。  人の手を借りることを嫌いぬいたラウルが、カイルに対しては素直に甘えることが増えた。歯を磨いてくれ、スープを飲ませてくれ、と頼まれるたびにカイルは喜び勇んで応じ、その一方で罪悪感を覚える。  頼りにされるのはうれしいが、そのぶんラウルは病に(むしば)まれるという形で高い代償を払っている。  ともあれ鋏をバリカンに、次はカミソリに持ち替えて、つるつるに剃りあげた。顔全体が映るように手鏡をラウルの眼前にかざすと、彼はぷっと噴き出した。 「出家するみたいだな」 「男前は得だ。頭がすっきりしたぶん凛々しさが際立つ」  市村が、羨ましいとつづけながら歩み寄ってきて、腕時計に目を落とした。  手術室に移動する、と告げる仕種に緊張が走り、中でもカイルは鋏を取り落とした。 「五分、ふたりっきりにしてくれ」  ラウルが市村を見据えると、医師は軽く肩をすくめたあとでアイリーン・リーを促した。  カイルは、ラウルに頭をもたげてもらってクロスを外した。その手つきが次第にぎこちなくなっていく。  手術が延期に……いっそのこと中止になればいいのに、と不意に思う。物事に絶対はないということは、とりもなおさず手術が失敗する可能性はゼロではないということだ。  手術台の上でぴくりとも動かないラウルと、白衣を血に染めて立ち尽くす市村の姿が脳裡をよぎった。眩暈に襲われたせつな、 「しゃがめ、いや、どんどん頭を下げろ」  Tシャツの裾を摑まれて、引っぱられるまま前にのめっていけば、車いすにかがみ込む形になった瞬間を狙い澄まして、ラウルが上体を起こした。  とくん、と心臓が鳴ると同時に何かが唇に触れて、すぐに離れた。  クロスが風に吹きさらわれて、髪の毛が飛び散った。カイルはその行方を目で追いながら首をかしげた。  今、唇が重なった気がしたが、風の悪戯をそうと勘違いしたのだろうか。

ともだちにシェアしよう!