64 / 86

第64話

 ふと疑問に思う。ラウルが、男のおれに触れたいと望んだ真意はどこにあるのだろう。  借りを返してもらう、と言っていた通り、深い意味はないのかもしれない。単調な毎日に飽き飽きして、気まぐれを起こしたにすぎないのかもしれない。  それとも何か別の理由があるのだろうか……。  残滓が和毛にこびりつき、むず痒い。ペニスがひと揺れすると、乳首をつままれた。 「真っ裸でうろちょろして、誘ってるのか。もう一回しゃぶってほしけりゃ、つき合うにやぶさかじゃないぞ」  にやにやされて、脱いだものをかき集めた。小走りでシャワーを浴びにいく背中を、陽気な笑い声が追いかける。  雲の上を歩いているように、ふわふわした気分で寝室に戻った瞬間、胸の小鳥が撃ち殺された思いを味わった。  ラウルはキャンバスになぞらえた空中に指を走らせていた。両の手がなめらかに動くうちに一枚でも多くの絵を描いておきたい、というふうに。  カイルは立ちすくみ、目をしばたたいた。先月……いや、先週は、まちがいなく寝姿にもっと厚みがあった。  それが、今はどうだ。掛け布団を通してさえ見て取れるほど、腰から下の嵩が減った。皮下脂肪が植物の基本組織に取って代わられつつある、という事実を思い知らされる。  と、ラウルが頭をもたげて、自分の隣をぽんぽんと叩いた。 「ぼさっと突っ立っていないで、来いよ」  笑顔をこしらえて、ひとつ布団にくるまる。そこで再び不思議に思う。予定通りに話がまとまっていればモニが初夜に味わうはずだった悦びを、弟の自分が味わった。  なぜおれに手を出した、と直接訊けば疑問はたちどころに氷解するに違いない。なのに答えを知るのが怖いようで口ごもり、そうこうしているうちに寝息が聞こえはじめた。  雨に降りこめられた病室は、小宇宙さながら完成された世界だった。微睡んでは目を覚まし、腕枕をしてあげる役を交替することを何度か繰り返したすえに、ラウルが錆びた蝶番に油を()すように指を曲げ伸ばしした。 「この手であと何回、おまえを可愛がってやれるのか。賭けるか、ひとくち乗るか」  夜と朝のあわいのころに、人はともすると本音を洩らす。  カイルは、冗談にまぎらせて希望の欠けらを拾い集めたがっているように感じて、ことさら取り澄まして答えた。 「最低でも百回に今月分の給料をつぎ込む」 「指がふやけちまうまで俺をこき使う魂胆か。スケベ、やぁい、スケベ」  細い(おとがい)をつまみ、おかしな節回しでスケベと(はや)すはしから顔がゆがむ。  だんだん息づかいが荒くなり、心の中の防波堤が決壊したように絶叫が迸った。 「俺は怖い。俺が、俺でなくなっていくのが恐ろしくてたまらない!」  カイルは息を吞んだ。ラウルはナイフ一丁で狼と渡り合うほどの豪傑で、そんな彼が泣き叫ぶ。  それは、羊の両親から麒麟(きりん)が産まれるくらいありえないことだ。 「泣かないで、ラウル……違う、泣きたいだけ泣いて。我慢しないで」 「みっともない姿をさらせと言うのか、俺を辱めたいのか!」  暁闇(ぎょうあん)の中、何かにとり憑かれたように双眸がぎらぎらと輝く。カイルは力いっぱい首を横に振ると、ベッドの上に起き直った。  嗚咽に震え動く頭を優しく掬いあげて、膝枕をする。顔をうつむけて、こめかみをつたい落ちる涙を舐めとり、頬ずりをした。  そして、ぐずる赤ん坊をあやすように耳許で囁く。  おれは永遠にラウルの味方だ──と。  暗澹たる状況下で自制心を保っていられたのは、ひとえに強靭な精神力の賜物だ。心を(よろ)う殻にひびが入ったラウルは、怖い怖いと、むせび泣きながらしがみついてくる。  これが唯一の命綱だ、というようにカイルの腕を握りしめて、ぎりぎりと爪を食い込ませる。  血がにじんでも、カイルは膝に載せた頭を撫でる手を休めなかった。自分の肉体そのものに雁字搦めにされていく、という経過をたどるのは想像を絶する恐怖に違いない。  絶望の淵に沈みながらも、なお運命に抗おうとする裏で、ラウルはどれほどすさまじい不安と闘ってきたのだろう。  幾度となくSOSが発信されていたはずなのに、こんなに大事なことを見落としてきたボンクラぶりに我ながら呆れ返る。  背中をさすってあげながらラウルに添い寝をすると、胴震いが止まらない躰を抱きしめた。髪に、瞼に、頬にくちづけて、何十分の一かでも苦しみを分け与えてほしいと願った。

ともだちにシェアしよう!