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第69話
かき口説かれてもラウルは知らん顔を決め込み、市村と見つめ合った。
それはさしずめ、心の奥底で語り合い、互いの魂を担保として契約書を取り交わす──といった図だ。
何人 たりとも立ち入ることのできない雰囲気が醸し出されて数分後、市村が力強くうなずいた。
「承知した。意向に沿うよう、及ばずながら尽力する」
「よし、だからって、こいつに手を出すなよ。さぁて、キスしまくるか」
ごちそうさま、と肩をすくめてみせると、市村は理学療法士を玄関へと促した。
引き戸がレールをすべって戻り、足音が遠ざかっていく。カイルはベッドに背中を向けて、壁に額をもたせかけた。訓練中はどうしても脳を酷使するから、ラウルは疲れているはず。さっぱりするよう蒸しタオルで顔をふいてあげよう、それから、こめかみを揉みほぐしてあげよう……。
ぼやぼやするな、と自分をせっついても、ぬかるみにはまったように足下がおぼつかない。死後という言葉が頭を占領するにつれて死神の鎌の形を取りはじめて、ラウルを斬り殺す情景が浮かぶ。
保管しておいた髪の毛の束はロケットに収めて、鎖を通して首から下げている。これが遺髪に等しいものになるかもしれないだなんて、ちらりとでも考えたくない。
死後だって? いやだ、いやだ……!
「機嫌をなおして、水を飲ませてくれ」
と、求められたが、バケツ一杯分あまりの水をがぶ飲みしてから一時間と経っていない。
〝水は植物の養分〟。それを実証するように一日に十リットルは水を欲するのにひきかえ、近ごろの食生活ときたら重湯やスープを舐める程度で、栄養分は点滴で補う。
かつてのラウルは、羊肉の串焼きを三人前は平らげていた。去年の夏祭りの宴 でも、と記憶をたぐると、哀しみという嵐がカイルの胸中で吹き荒れる。
折しも遠雷が聞こえた。盛夏の到来を告げる雷雨は、ふたりにとっては不吉な使者だ。ラウルは秋の訪れをその目で確かめることができるのだろうか……。
カイルは自分を罰するように、額を思い切り壁にぶつけた。
「おれが無理やり首都についてきたのはラウルと別れ別れになるためじゃない! 元気になったラウルと一緒に村に帰るためだ!」
ごつん、ごつんと壁に額を打ちつけ、その鈍い音に別の音が入り混じる。モーターが唸り、ぎくりとして肩越しに振り返った。
そして目を瞠った。ラウルが起きあがろうとしてガムシャラにもがき、そのはずみにスイッチを押したとみえて、ベッドの上半分がすべり台さながらせりあがる。
カイルは、すんでのところでラウルを抱きとめると、ベッドに優しく横たえなおした。すると彼は、万年雪さえ融かすような熱い眼差しを向けてきた。
「おまえは顔も躰も心も綺麗だ。尊 いおまえに慕ってもらえるおかげで、俺は、俺自身を好きでいられる」
真心という花束を贈り終えると、照れ隠しのように舌を出す。一拍おいて、ラウルは真顔になった。
「二万八千八百回のキスを達成したい、二万八千八百回、おまえに告げたい。カイル、心の底からおまえを愛している」
愛している。
極端に言えば〝羊の群れ〟と同様、たった六つの音の連なりにすぎない。なのに愛情という糸を紡いで織りあげた布に包まれたように、温かさが心にしみ入る。胸の小鳥が高らかに歌う。
「おまえは、どうなんだ。愛してくれていると思っても自惚れじゃないよな」
カイルはうつむき、Tシャツの裾をムキになってねじった。答えがわかりきっていることを改まって訊くのは意地が悪い、と思う。
頬が火照り、口ごもる。察してほしいと目で訴えると、ため息をつかれてしまった。
「一分、一秒が俺には金塊並みに貴重だ。焦らすのは、やめろ」
「威すみたいな言い方は、ずるい。ラウルは、おれのすべてで……だから、愛してる」
思いの丈を打ち明けようとすればするほど、かえってしどろもどろになるありさまで、黒曜石のような瞳が疑わしげに光る。
焦るとよけいに舌がもつれ、ならば胸にあふれる想いを、〝ラウル〟とちりばめられているようにきらきらしい気持ちを伝えるには、こうするのが手っ取り早い。
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