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第71話

 カイルはベッドのかたわらに膝をついた。そのうえで身を乗り出す。  唇をついばむ程度のくちづけは「おはよう」や「おやすみ」と同義語になりつつあるとはいえ、仕かけてくるのは常にラウルだ。  心臓が肋骨をへし折りかねないほど動悸がして、それでも勇を鼓して、ただし目をつぶったまま唇を重ねていけば目測を誤った。  鼻の頭と頭が激突して、瞼の裏で火花が散った。痛い、と同時に呻いて顔をしかめた。 「ごめん、ドジった!」  飛びのき、深呼吸をする。気持ちが落ち着くのを待ちかねて仕切り直しといく。  今度はベッドの(へり)に腰かけた。上体をひねり気味に、なおかつ慎重に狙いを定めながらマットレスに伏せていったのが功を奏して、二度目は(あやま)たず唇を捉えた。  もっとも唇が合わさったとたん頭がくらくらして、思わず顔を背けてしまった。催促がましく唇を突き出されて、雪辱戦のように長めについばむ。  二頭の蝶が戯れるような優しいキスを繰り返すうちにもどかしさがつのっていき、カイルは唇を強く押し当てた。  ひと口に唇と言っても形は千差万別だが、世界一すばらしいのはラウルの唇だ、と思う。  カイルの唇より横幅があって、上唇の輪郭がくっきりしているのが好きだ。下唇の膨らみぐあいが控えめなのも好きだ。梅花(ばいか)のような淡い色合いも好きだ。  おずおずと結び目に舌を差し入れた。思い切って門歯を舐めてみる。高級なタイルのようだ、と感想を伝えたらラウルは呆れるだろうか。  くすりと笑うと細かな振動が唇に響き、舌が甘く痺れた。ちょぼちょぼと伸びてきた髭が鼻の下をくすぐってくるのもオツだ。  もっと、と心が叫ぶ。もっと密着したい、心ゆくまでくちづけを交わしたい。  この唇の味を知る前と後とでは、人類が火を使いこなせるようになったことに匹敵するくらい世界がまるで違って見える。  狂おしいまでの衝動に駆られてベッドにあがった。そして愛しい人に抱きつく。 「クソ、押し倒されっぱなしかよ。俺は本物のデクの坊だな」  と、嘆くのも道理。筒袖から覗く腕は無残にねじくれて、カイルを抱きしめて返すのは夢のまた夢。  その腕の内部では腱や皮下脂肪と植物の組織が、いわば鍔迫(つばぜ)り合いを演じている状態にある。  抱きしめ合うのは無理で、カイルはそのぶん心を込めて頬ずりをした。いっそう強く頬をすりつけてこられて、飽かずに繰り返す。  そう、獣たちが毛づくろいをし合って愛情を表現するように、朴訥なやり方で心を通い合わせる。  時折、偶然のように唇が重なる。舌が合わせ目をつついてくれば自然とほころんで、招じ入れる。  ラウルは事、接吻に関しては遠慮がちにふるまい、これまでは舌を入れてきても口腔をひと混ぜする程度だった。だが、恐らくタガが外れた。探り当てた舌を搦めとるが早いか、きつく吸いたてる。 「ん……苦し……」  息が切れて、心ならずも唇をもぎ離す。鼻で呼吸をすればいい、と頭ではわかっていても、そうすると鼻息がかかってしまうのが恥ずかしい。 「おまえの唇は、草原に咲くヒナゲシみたいに甘い香りがする」  睦言が唇のあわいをたゆたう。面映ゆさの裏返しで唇にむしゃぶりつき、歯列を割りほぐす。  ところが見よう見まねで舌を捕らえにいくそばから、すいと遠ざかっていく。鬼さんこちら、というふうに逃げ回る舌を追いかけ、ようやく捕らえおおせたころには豊潤な口中を探索し尽くしていた。  ふたりの唾液が混じり合って喉を潤し、得もいわれぬ芳醇さに頭がぼうっとしてくる。  おれの細胞は健康だ、と唐突に、そして強くカイルは思った。唾液に血清のような成分が含まれていて、それが維管束を殲滅(せんんめつ)してくれればいいのに。ないものねだりと承知の上で、たっぷりそそぎ込む。 「ん、んん……」  舌を根こそぎにする勢いで、ラウルのそれがからみついてくる。もたもたしている間に口内にいざなわれ、たぐり寄せて返すうちにおぼろげにコツを摑む。そうだ、口淫の応用編だ。 「おい、俺のお株を奪うな」  生返事で濁しておいて、一旦くちづけをほどいた。  手術の日に剃りあげた頭は萌えいづるころの草原のように、うっすらと短い毛に覆われはじめている。傷痕にさわらないように注意しながら、頭の下に手をあてがった。あらためて唇をこすりつける。

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