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第86話
よぉ、先生。ラウルがそう話しかけてくるように葉ずれが歌う。
「驚いた、一生分、驚いた。学会に発表しても失笑を買うのが関の山だが、きみがラウルくんだと言うのだから、わたしは信じる。しかし見事に育ったなあ……」
カイルは誇らかに幹を撫でた。
帰郷を果たしたさいに植木鉢から移し替えて折節に肥料をあげて、菰 を巻いて寒さから守り、丹精してきた甲斐あって〝ラウル〟はぐんぐんと生長したものの、
「実をつけたのは今年が初めてで。先生は運がいい、ちょうど食べごろに熟した」
豊穣の秋。それを具現化したように、柘榴 に似た実がたわわに実っている。
ふたつもいで、ひとつを市村に渡した。少し離れて共に木蔭に座ると、親密さと気まずさを等分にはらんだ沈黙が落ちた。
波が静かに岸辺を洗う。ざざ、と葦の茂みがそよぎ、馬がいなないた。それを機に、市村が意を決したふうに切り出した。
「十年前……あの当時のきみはラウルくんひと筋で、打ち明けられないことがあった」
口ごもり、やたらと実をもてあそぶ。
カイルは生返事を返すと、ピンポン玉大の実に唇を寄せた。初めてラウルとくちづけを交わしたときのように、胸が高鳴る。
ぷちり、と皮に歯を立てた。ひと嚙み、ふた嚙みしたあとで、眼球がこぼれ落ちそうなくらい目を瞠った。
科学的な根拠はない。幻聴にすぎない、と自分を戒める自分がいる。だが、この果実に含まれる成分が、人体に摩訶不思議な作用を及ぼしたのかもしれない。
瑞々しい果汁が口の中いっぱいに広がった瞬間、頭の中に直接語りかけてくるような声が確かに聞こえた。
──カイル、愛している。
──カイル、カイル、愛している。
──愛している、愛している……。
生木を裂くような思いを味わって以来、干からびていく一方だった心が、ひと口かじりとるごとに潤っていく。
つっ、と頬をひと筋の涙がつたい落ち、市村がにわかに医師の顔になった。
「どこか痛むのか。腹か、頭か」
カイルは泣き笑いに顔をくしゃくしゃにしながら果実を指さした。
市村は怪訝な面持ちで、それでも果実にかぶりついた。咀嚼 するにしたがってレンズの奥の瞳が驚愕に見開かれていき、食べかけの果実が手からすべり落ちた。
「医学的にはありえない、ありえないが……一種の残留思念なのか? 『カイル、愛している』と頭蓋にこだました」
「でしょう? ですよね、おれの勘違いじゃない。愛している、愛しているって……」
うれし涙が、ほろほろとこぼれる。カイルは次々と果実を頬張った。
若草が萌えて、冬枯れた大地を緑の絨毯に染め替えるように、晴れやかな笑顔を市村に向けた。
気が狂 れた、と嗤うやつは好きに嗤わせておく。かけがえのない人から時空を超越して恋文が届く。
こんな素晴らしい奇蹟は、ほかにない!
市村は果実を陽光にかざして矯 めつ眇 めつする。〝ラウルの木〟と向かい合って立つと、恭しげに一礼した。
「十年越しで実った果実は、いわばタイムカプセルなのか。脱帽だ。愛を貫き通すとは大した男だよ、ラウルくんは」
完敗だ、と言いたげに肩をすくめると、日本語に切り替えてぼやく。
「惚れた腫れたに興味を持てなくて、絶世の美女より大脳皮質に惹きつけられるわたしが、柄にもなく純真な青年に淡い恋心を抱いた。依然として胸の奥にくすぶる想いが恋情なのか、ただの情なのか見極めるために草原くんだりまでやってきたわけだが、早まって告白しなくて幸いだった。とんだ恥をかくところだった」
苦笑いで締めくくると、かつての主治医は惜しみない拍手を送った。そうやって、比類なき愛の成就を寿 いだ。
カイルは、生身のラウルと抱擁を交わすように〝ラウルの木〟にぴたりと身を寄せた。
おれも愛していると、とびきり甘い声で囁く。一陣の風に枝がしなり、頬ずりをするように顔を撫でていった。
そのせつな、胸の小鳥が息を吹き返した。朗らかに、そして高らかに鳴いた。
──了──
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