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第85話

 今しも村一番のお調子者が、羊乳酒の樽を割るさまが視界の隅に映った。このまま酒盛りになだれ込んだが最後、ふたりきりで話すのはまず無理。  それに、とカイルは馬を指し示した。 「乗って歩かせたことはありますか」 「あると思うか。わたしは自他ともに認める運動音痴だ」  と、なぜだかそっくり返る市村の足下にひざまずいた。踏み台に、と両手を組み合わせ、市村がそこに足をかけると同時に勢いをつけて持ちあげると、彼はへっぴり腰で馬の背中にしがみついた。  カイル自身はひらりと跨ると首をねじ曲げ、 「落ちないように、ちゃんと摑まって」  どうにか鞍に落ち着いた市村を急かすと、ためらいがちにポンチョをつまむ。  遠来の客が満座の中で落馬した日には、のちのちまでの語り草だ。なので、強引に摑み取った手をへその下に持ってきて結び合わせる。すると、背後で息を吞む気配があった。  まちがっても市村を振り落とすことがないように、と湖畔につづく坂道をのんびりと下る。なかば砕けた石畳に、交易地として栄えた時代の名残をとどめ、可憐な花が彩りを添える。  地下水がしみ出している場所は、水晶の鉱床であるかのように照り輝く。  カイルには見慣れた光景だが、市村にとってはおとぎ噺の一場面さながら美しいものに思えるようで、しきりに感嘆の声を洩らす。  カイルが巧みな手綱さばきで窪みをよけると、それに合わせて体重を移動するコツを次第に摑み、問わず語りに話しはじめた。  国立病院を辞めていったん帰国したものの、医長待遇で再び国立病院に招聘されて現在に至る──云々。 「……ひとことで言えば相も変わらず仕事が恋人で、独り身だ。ちなみにモロー先生たちは別の病院に移ったり、開業したり、近況を噂で聞く程度だ」  カイルはにこやかに相槌を打ちつつも、訝しさに首をかしげどおしだった。  ふらりと訪ねてくるには草原は遠い。多忙を極めているに違いない市村が、遠路はるばるやってきた真の目的はなんだろう。  湖岸に沿って馬を進め、(あし)が茂る入り江で止まった。湖面は空の色を映して青く澄み、波間で銀鱗が閃く。  ここは昔、ラウルとともに網を仕かけにきた思い出の場所だ。  ちぎれ雲が旧交を温めるようにひと塊になり、ゆっくりと流れていく。市村が手で庇をつくって蒼穹を仰ぎ、広いな、と呟いた。その場で一回転しながらカメラを構える仕種をみせたあとで、眼鏡を押しあげた。 「一本だけ、ずいぶん立派な樹があるな」  そう、孤高の王者といった風格を漂わせる木がどっしりと根を張り、旺盛に枝を広げている。  唇のように薄赤い()が入った葉っぱに特徴があり、芳香を放つ。  カイルは髪をかきあげ、漆黒のひと束に指をからめた。そして、その木を指さした。 「樹齢十年。紹介します、現在(いま)のラウルを」    市村はあんぐりと口をあけ、 「信じるも信じないも勝手だ。でも、嘘じゃない。一緒に村に帰ってきたラウルに、ここでのびのびと暮らしてもらってる」    カイルが淡々と言葉を継ぐ様子に感じ入るものがあったようだ。眼鏡を外し、レンズを磨いてからかけなおすと、梢を振り仰いだ。

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