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第84話

    第13章 結実  一頭の羊が放牧地を外れて、とことこと歩いていく。カイルは指笛を吹き鳴らし、つれ戻してこい、と牧羊犬に命じた。  蒼天を仰ぎ、編隊を組んで(かけ)ていく渡り鳥を見送る。大地に視線を移すと、草をどっさり咥えたジリスが巣穴を出たり入ったり忙しい。  人間も動物も冬支度に忙しい。秋は駆け足ですぎ去ろうとしていて、風がずいぶん冷たくなった。  ポンチョの前をかき合わせて、鞍に跨りなおす。馬の首を優しく叩いて、行こう、と促した。  なだらかな斜面を駆けあがり、丘の頂上から草原を見渡す。一万頭を下らない羊たちが、もこもこした寄り集まって草を食むさまは壮観だ。  ここは世界中でいちばん美しい場所だ。  おとといも昨日も思ったことを、今朝も思う。自分はやはり根っからの羊飼いで、いずれはここに骨を埋めるのだ。  あたり一面、黄金色(こがねいろ)の海に変わる日も近い。そのあとは枯れ野に取って代わられ、雪解けの季節を待ち焦がれる。  そうやって年月(としつき)はすぎていく。  秋晴れの今日は、鞍の上で大きく伸びをした。十年来、首から提げている狼の牙が陽光を弾き、哀しみが(こご)った目許がやわらぐ。  髪の毛が、蜂蜜色にきらめきながらなびく。その中にあって、強烈な存在感を放つものがある。  それは漆黒の、ひと束。  自分の髪に編み込めるように、と糸でくくったラウルの髪だ。  ぶるる、と馬がかまってほしげに鼻を鳴らした。たてがみを梳いてやり、向きを変えさせた直後、目をすがめた。  ジープが一台、土埃をあげて近づいてくる。行商のトラックや巡回医療の、いわば走る診察室以外の自動車を目にするのは、およそ五年ぶりだ。  砂漠を横断してきた冒険家……というより命知らずの(やから)だろうか。  そのジープが村に入っていく。第六感が訴えかけてくるものがあって、馬を駆る。  牧草地を突っ切り、村道の突き当りに広場が見えてくるにつれて、鼓動が早鐘を打ちはじめた。  驚いたどころの騒ぎではない。物心がつくかつかないかのうちから馬に乗っているにもかかわらず、足が(あぶみ)から外れて転げ落ちそうになった。  ジープを運転してきた壮年の男性──村長と談笑中の垢抜けた印象を受ける彼は、旧知の人物だ。 「市村、先生……?」  市村が振り向き、目尻に笑いじわが刻まれた。いくらか肉づきがよくなり、白髪が増えたものの、そのぶん貫禄が増した。  カイルは狐につままれたような思いで馬から下りた。借りた金は市村の銀行口座に振り込む形で返済していったから、病院を脱け出して以来、十年ぶりの再会だ。  なつかしいと思うより戸惑う気持ちのほうが先に立ち、口をぽかんとあけたっきり固まってしまった。 「きみが……もとい、きみとラウルくんが村に帰ったと風の便りに聞いたのは、かれこれ五年前か。仕事にかまけて葉書の一通も出さずじまいになっていたのだが、先日、モニくんが生まれ故郷を訪ねるという趣旨の番組にきみがちらりと映っているのを見たとたん矢も盾もたまらなくなってね」  まだら模様の犬が、嗅ぎ慣れない都会の匂いに鼻をひくつかせた。 「で、溜まりに溜まった有休を消化しがてら遊びにきたというわけだ」 「大女優さまの凱旋っていうか、撮影隊を引きつれてきたのはともかく演出だとかで未開人っぽくふるまうように要求してきて、ひと悶着あった。おれたちは、あいつの引き立て役じゃないんだ」 「彼女に対しては未だに手厳しいな」 「一応、仲直りはしましたよ、一応」  などと、立ち話をしている間に村人がわらわらと集まってきた。どの顔にも興味深々と書いてあり、とりわけ子どもたちは好奇心にはち切れそうだ。  おまえが話しかけてみろ、おまえが行け、というぐあいに脇腹をこづき合うあたり、市村が質問攻めに遭うのは時間の問題だ。

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