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第83話
全身が冷たい汗にまみれる。最初の関門、通用口は無事に突破したものの、先は長い。
裏門は研究施設や倉庫群の向こうに位置し、びくびくしどおしの心理状態を反映して、遙か彼方にあるように思える。
おまけに怪しい荷物を運んでいるように見えなくもないことも相まって、歩調をゆるめざるをえない。
ただでさえ泥縄式に変装した程度では、並外れた美貌を隠しきれるものではない。現にその視線は、見目麗しい作業員とすれ違いざま、うっとりとそそがれたものだ。
だがカイルにしてみれば、背筋が凍る瞬間だった。通りすがりの女性職員に胡散臭いやつと思われた、今にも医局に連絡がいって拘束されるかもしれない──。
皮膚が粟立ち、グリップが汗ですべる。焦れば焦るほど足がもつれて台車が傾き、そこに〝ラウル〟の重みが加わると、ひっくり返りそうになる。
カイル、と大好きな声が耳に甦った。
ラウルはいつか、こう言っていた。狼と一対一でやり合って斃 すコツは相手を吞んでかかることだ──と。
まっすぐ前を向いた。そうだ、おどおどしていると、かえって怪しまれてしまう。
職員と行き合うたびに自分から会釈するように努めつつも、その荷物はなんだ、と問いただされたが最後、ボロを出す予感がして生きた心地もしない。
ようやく裏門にたどり着き、そこをくぐるころには、息も絶え絶えというありさまだった。
くだんののトラックに駆け寄り、運転席のドアを叩いた瞬間、緊張の糸が切れてへたり込んだ。台車に這い寄ったところに運転手が降りてきて、〝ラウル〟を進んで荷台に運びあげてくれた。
運転手の愛想がいいのは、市村が鼻薬 を嗅がせておいてくれたおかげかもしれない。
カイルはそう考えて病室の方向を眺めやり、一礼した。そして箱型の荷台に自分も乗り込み、〝ラウル〟に膝枕をした。
外側から観音開きのドアが閉められると、壁が狭まってくるような圧迫感を覚える。蒸し暑いし真っ暗だが、〝ラウル〟と寄り添い合っているかぎり、肥溜めだろうが天国だ。
トラックが走りだした。ところが、いくらも行かないうちに停まる。発進してほっとしたのもつかの間、同じことが繰り返される。
単なる信号待ちだ、と自分をなだめても寿命が縮む。
見つけたぞ、観念しろ! サミュエル・モローたちが、手に手にメスやドリルを持って荷台に押し入ってくる。そんな場面が今にも繰り広げられるような気がして、鳩尾がぞわぞわする。
〝ラウル〟を抱きしめて、固く鎖されたドアを睨みつづけているうちに、長距離バスの乗り場に着いた。トラックがクラクションを短く鳴らして走り去っていく。
ここまで来れば、ひと安心だろうか。いや、気を抜くのは早い。
カイルは鋭い目つきであたりを見回した。病院の関係者らしき人物が待ちかまえている気配は感じられない、と確信してからチケットを買いにいった。
もっとも早く出発するバスは南に向かう。追っ手を撒くのが第一で、行き先はどこでもかまわない。
〝ラウル〟は車体の下部に設けられた荷室、カイルは一般の座席と分かれてしまったが、ほんの少しの我慢だ。これから将来 、永遠に共に在り、心は時空を超えて通い合う。
程なく発車した。最後の最後までなじめなかった風景が、ぐんぐんと後方に遠ざかっていく。
窓を開けると潮の香 が風に乗って運ばれてきて、海に臨む病院と、そこで過ごした日々のあれやこれやの情景が、切なさと苦みをない交ぜに脳裡をよぎった。
窓を閉めて、前を向いた。ほとぼりが冷めるまで、と市村は言った。
そうだ、ちょっと遠回りをしてから草原に帰り、いつの日か市村が村を訪ねてくることがあれば、手塩にかけて育てた羊の丸焼きで歓待しよう。
腰にくくりつけてきたスケッチブックを開いた。そして、あるページをめくったせつな、胸がいっぱいになった。
水彩の色鉛筆を用いて、優しいタッチで描かれた絵のモデルはカイルだ。
このうえなく幸せそうに微笑むさまが写し取られていて、ページの隅に記された日付は、手の指がねじくれていっている最中のもの。
つまり、この絵はラウルの絶筆にあたるとともに、愛の証し……。
涙が一滴、したたり落ちて描線がにじむ。スケッチブックを閉じて、ぎゅっと抱いた。
どこかの街に落ち着いたら真っ先に特大の植木鉢を買おう。漆黒の髪を髣髴とさせる、黒光りがして上等のものを。
そう、〝ラウル〟がくつろぐにふさわしい逸品を。よく肥えた土を入れて、陽当たりのいい窓辺に鉢を置こう。
縁 の髪の毛をロケットから取り出し、くちづけると、こんな光景が瞼に浮かぶ。
ラウルが言い残したとおり、樹影の美しい木が草原の真ん中にすっくと立ち、果実が鈴なりになっているところが。
おれは、その木の幹に頬ずりをする。愛している、と朝な夕なに囁く。
そして二万八千八百回どころか数えきれないほどのキスをして、ラウルと抱擁を交わしているという歓びを味わうだろう。
背もたれに上体をあずけて目をつぶる。口辺に幽 けし笑みを漂わせて。
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