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第82話
「窮屈だろうが、しばらくの辛抱だ」
盟友に対してそうするように、市村が包みをひと撫でした。〝ラウル〟を台車に乗せてグリップにロープで固定すると、それじゃ、と手を振った。
人間味に欠ける。それが市村の第一印象で、冷淡な目つきに反感を抱いたものだが、現在 はレンズの奥の双眸に悔恨の色を見て取れる。
彼にとっても〝ラウル〟は得がたい研究対象のはずだが、どんな心境の変化があったのだろう。どうやら、本気でサミュエル・モローたちを出し抜いて逃がしてくれるつもりでいるらしい。
ならば好意を無にすまい、とカイルは急いで作業員に扮した。
荷物は……いらない、ラウルが寸暇を惜しんでパステルを走らせていたスケッチブックがあれば十分だ。帽子をかぶり、だが脱いで市村に向き直り、ぺこりと頭を下げた。
「いろいろ、お世話になりました。だけど、先生的には病院を裏切るんだよね? クビになっちゃうんじゃ……」
「きみの力になる、とラウルくんと約束した以上、信義を重んじるのは当然のことだ」
照れ隠しのようにぶっきらぼうに答えると、ひっきりなしにずり落ちる眼鏡を押しあげる。
「それに、わたしほどの名医ともなれば引く手あまただ。ところで、ほとぼりが冷めるまで最低でも一年は村に帰らないこと」
罪滅ぼしといえば自己満足にすぎるが。ごくごく小声で付け加え、分厚い封筒を作業着の胸ポケットにねじ込んだ。
「当座の生活費だ。持っていきなさい」
カイルは反射的に〝ラウル〟を見つめた。そして心の中で語りかける。
ほどこしは受けない、とラウルはきっと突っ返すよね。おれも借りを作るのは嫌いだ。けれど、意地を張っている場合じゃないよね。
「利子をつけて必ず返します……そうだ、これを担保に預けとく」
狼の牙を鎖から外して渡すと、やんわりと押し返された。代わって、ほっそりした肢体を視線が執拗に這い回ったすえに、蜂蜜色の髪に留まった。
「ラウルくんの髪を肌身離さず持ち歩くきみに倣い、わたしもひと房、きみの髪が欲しい……とは、なかなか言えないものだな」
市村は苦笑交じりに日本語で独りごつ。一転して尊大に顎を反らすと、嫌みったらしいまでに流暢に、この国の公用語で言葉を継ぐ。
「男同士のやり方を手ほどきするにあたって、図らずもぬけがけする形で初々しくあえぐさまを堪能した。あれが借金のカタということで手を打とう」
〝ラウル〟の面前で、あの話を蒸し返すなんてあくどい。カイルは、そうぼやくと帽子を目深にかぶった。
「さて、塀と同じ色で見分けがつきにくいが、四阿 の向こう側に職員専用の通用口がある。そちらが裏門への近道で、解錠に必要な暗証番号は……」
八桁の数字が告げられた。復唱しながら台車を押しはじめ、今ひとたび頭を下げた。
「元気で、先生。さようなら」
「きみはすばしっこそうだが、くれぐれもモロー先生たちに見つからないように」
市村は、引き戸の内側にカイルを待たせておいてポーチに出ると、さりげなく周囲の様子を窺った。
バッタが群立 って跳ねているのが目につく程度で、ふだんと同じ光景が広がっていた。
サミュエル・モローたちは、こう考えたに違いない。ネアンデルタール人のミイラ並みに稀少価値が高い樹皮症の患者を解剖するからには、手順を再確認したい。
第一、市村が裏切るなんて想像だにしないはず。それ以前に〝ラウル〟をつれて遁走を図るのは無理、と高をくくって特段、見張りをつけることもなく医局に引きあげたのだろう。
市村は肩越しにカイルを振り向いた。行け、と中庭の奥を指さす。
台車の車輪は小さくて、思うように進まない。重心も偏りがちだが、頑として動かない羊を追いたてるように、精いっぱい急いで通用口をめざす。
看護師と出くわしたら、と冷や冷やする。もしもその看護師がサミュエル・モローにご注進に及び、包囲網が布 かれることがあれば万事休す。
捕らえられしだい〝ラウル〟は今度こそ解剖台の上だ。
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