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第81話

 そこで、市村がようやく動いた。目尻に走るみみず腫れをこすり、フレームがゆがんだ眼鏡をかけなおす。  凛と背筋を伸ばしてドア口に立ちはだかると、 「きみたちは、医は仁術という基本を忘れたのか。愛別離苦のただなかにある青年をいたわってあげよう、という情はないのか」    白刃のような凄みをたたえて一喝した。そしてカイルに視線を移す。 「彼には惜別の涙を流す時間が必要だ。しばらくラウルくんとふたりきりにしてあげる、これは指示ではない命令だ」 「さんざん無能ぶりをさらしてきたくせに今さらリーダー面とは、嗤えますね」  サミュエル・モローが強引に前に出ると、 「無能でけっこう。だがチームの裁量はわたしにゆだねられていることを忘れてもらっては困る」  市村は丁重に車いすを押し戻し、さらに冷厳と言い渡した。 「功名心に逸って、ラウルくんならびに彼の大切なパートナーの気持ちをないがしろにするものは放逐せざるをえない。即刻、だ」    樹皮症の病因を突き止めれば歴史に名を残すことも夢ではない。お払い箱になるのと、ここは譲歩して市村に貸しを作っておくのと、どちらが得か算盤をはじいたのだろう。  強硬派の三人は首を横に振ったり、うなずき合ったり、と無言の協議を重ねたすえに肩をすくめてみせた。  カイルは、すかさず車いすに飛びついた。後ろ向きに、なおかつ〝ラウル〟に振動を与えないようにと、すり足でベッドのそばまで引っ張っていく。 「市村先生の顔を立てて、三十分だけ待ちましょう。その間に気持ちの整理をつけるなり悲嘆に暮れるなり、ご自由に。ただし、その後もごねた場合は……」  と、サミュエル・モローは思わせぶりに言葉を切った。  ことさら優美な手つきで正中線にメスを入れる真似をして本気度を示してから、彼と(こころざし)を共にする医師たちと誘い合わせて出ていった。  市村は後につづくと見せかけて施錠をすませた。寝室に取って返すと、 「ラウルにさわったら、ぶっ殺す」  車いすを背中にかばうカイルを、静かに、と仕種で制しておいて、こっそり運び込んであった台車を物入から取り出した。  そして✕✕公司と胸に縫い取りがある作業着と、そろいの帽子を投げてよこす。 「それに着替えたまえ。出入りのリネン業者にきみたちを長距離バスの乗り場まで送り届けてもらうよう話をつけてあって、トラックが裏門で待機している」    カイルは目をぱちくりさせた。願ってもない話だが、裏があるに決まっている。作業着を投げ捨てて、台車も蹴りやる。 「だまされるもんか。トラックの本当の行き先は研究所か何かで、サミュエル先生たちが先回りしてるんだろう」 「他意はない。きみは変装して逃げる、ラウルくんには少し我慢してもらう」  そう語勢を強めて、ベッドから剝ぎ取ったシーツを床に広げた。カイルが車いすとともに後ろにずれると、 「ラウルくんを切り刻まれたくなければ、わたしを信じなさい」  厳然とうなずきかけてきながら〝ラウル〟に腕を回し、抱きあげようとした。  筋肉の量が減るのにともなって、ひと回り萎んだとはいえ、元は屈強の若者だ。〝ラウル〟を抱きかかえるどころか派手によろけて、結局、カイルは不承不承手伝う羽目になった。  シーツの上に〝ラウル〟を横たえ終えると、市村は手早く、さしずめ太巻きをつくる要領で〝ラウル〟を筒状にくるみ、さらに梱包材でぐるぐる巻きにした。  最後に要所要所を紐で縛る。やがて、俺は配達中の絨毯か、ラウルが苦笑いを浮かべそうな按配ものができあがった。

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