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第80話

 しんと静まり返って数分後、市村が進み出た。脳波計に今いちど目を凝らしたあとで、苦渋の色を漂わせて首を横に振った。 「ラウル……? ラウル、ラウル……っ!」  カイルは、のしかかるようにラウルに取りすがった。揺さぶられるがままの躰をかき抱いて、喉も張り裂けよとばかりに繰り返し名前を呼ぶ。  二度とくちづけを交わせないだなんて、信じられない、信じたくない。ラウルの魂はまだ病室の中をさまよっているはずで、今なら間に合う、何がなんでもつれ戻してみせる。 「おれの命をあげる。お願いだからラウルを生き返らせて……っ!」  市村を除いて、医師たちは気まずげに顔を背けた。そろって黙禱を捧げたのは、良心の呵責を覚えるものがあったせいなのか。  カイルは、ますますラウルにしがみついた。〝ラウル〟は草原の古い言葉で風を意味するから、しっかり抱いておかないとどこかへ飛んでいってしまう。  一旦、ラウルから離れるように、と誰かの手が肩に触れてきたが、力任せに叩き落とした。誰も近寄らせない、ラウルとおれを引き離そうとするやつは、誓って血反吐の海をのたうち回らせてやる。  滅茶苦茶に手を振り回す。痛っ、と呻き声が耳許でくぐもり、肘で何かを弾き飛ばした気がしたものの、ラウル以外のものは何も目に入らない。  猛然と抗ったすえに、ふたりがかりでベッドから引きずり下ろされて、へなへなと(くずお)れた。  カイルの心は空っぽになった。  ラウルが遠い世界に旅立つと同時に、胸の小鳥も永久(とこしえ)の眠りについた。  通常は、しかるべき処置を行ったのちに遺体を霊安室に運ぶ。しかしラウルのケースは異例ずくめとあって、正解はこれというものがない。  しかも市村は陣頭指揮を執るどころか、様子がおかしい。胸中に去来するものがあるのだとしても突っ立ったきりで、そこにつけ込まれた。  サミュエル・モローが、やおら行動に出た。崔、それから楊と目配せを交わすと、彼らは打ち合わせ通りに事を運ぶといった手際のよさで〝ラウル〟を持ちあげ、ストレッチャー型の車いすに乗せた。  そして意気揚々と車いすを押しはじめる。  軽やかに車輪がすべる。つれ立って扉に向かう三人の白衣が、せせら笑うように翻る。 「ラウルをどこにつれていくんだ!」  カイルは我に返るや否や、楊に体当たりをかました。だが寝ずの看病をつづけてきたツケが、ここで回ってきた。突きのけられるまでもなくふらついて、尻餅をつく。  その間にサミュエル・モローと崔が、カイルを迎え撃つ形で車いすの両脇を固めた。  泣き濡れた目が、代わって憎しみにぎらついた。カイルは跳ね起き、いかんせん蹴つまずいて転んだ。しまいには這いずってサミュエル・モローに迫り、白衣の裾を握りしめて、叫ぶ。 「行かせない、どこにも行かせない。ラウルはおれと一緒に村に帰る、邪魔するな!」 「ご冗談を。我々の意見は一致しています。貴重なサンプルは解剖に回す。今後、樹皮症に罹患した患者が運ばれてきた場合の、いわば(いしずえ)になってもらいます」    そう、にこやかにうそぶくと、金髪碧眼の医師はカイルの手をもぎ離した。 「いやだ、ラウルもいやだと言ってた!」 「リー先生、カイルくんは気が動転している。彼に鎮静剤を」  と、崔が指図したのに応じてアイリーン・リーがアンプルを折り、薬液を注射器で吸いあげる。  カイルは、咄嗟に医療用のワゴンを押しやった。ワゴンは勢いよく床をすべっていき、壁に激突すると、脱脂綿や綿棒をまき散らしながら横倒しになった。  ガラスの破片が散乱し、これでは埒が明かないと判断したようだ。カイルに足留めを食わせるのは崔と楊に任せておいて、サミュエル・モローは〝ラウル〟をつれていくほうに専念する。 「市村先生もこいつらの味方をするんだ!」  カイルは破片を踏みくだきながら崔と楊に躍りかかっていった。室内履きの底に破片が突き刺さっても、おかまいなしに拳を振りあげる。

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