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第79話
亀の歩みのように緩慢な反面、樹皮状のものは着実に瞼を押し固めにかかる。
カイルは丸一昼夜どころか一週間あまり、ラウルのそばから片時も離れなかった。脱水症状を起こしたあげく点滴される羽目に陥っても、二万八千八百回くちづけるという約束を果たすほうが大切だったから。
枕元に張りついている間中、決して微笑みを絶やさない。まじろぎもしないで、そしてありったけの愛を捧げるようにラウルを見つめつづける。
〈カイル、カイル、愛しいカイル。おまえの顔がぼやけてきた、もっと近くにきてくれ。キスができるように……〉。
デジタル化された声が一本調子で、それでも、たぎる想いを縷々 つむぐ。
担当医たちが交替で病室に詰めていた。カイルは、そのとき番にあたっていた楊を押しのけてラウルにむしゃぶりつき、
「これが一万七千回目のキス、これが一万七千一回目のキス……」
そこかしこに唇を押し当てた。視界が鎖されて五日後、いよいよ頭頂部が樹皮状のものに吞み込まれはじめた。
危篤状態の患者は通常、あらゆる蘇生術がほどこされる。ところが事、ラウルに対してはなす術がない。
市村を除く担当医たちは、どことなく手持ち無沙汰な様子でベッドを取り巻く。
ひとり市村は、せめて心臓マッサージを試みようと、汗だくになって努力をつづけていた。もっとも徒労に終わり、彼は眼鏡をむしり取ると、くやしげにゆがんだ顔をひとこすりしてから掛けなおした。
すべての生命維持装置が示す数値を検 め、それから、あえて事務的な口調でこう告げた。
「脈をとるのは不可能。ただし、きわめて微弱ながら脳波が認められる……」
レンズの奥の目が見開かれた。
「諸君、ラウルくんに敬意を表したまえ。執念の勝利、いや、愛の勝利か。言語中枢はまだ無事だ」
遺言、と人工音声が発したせつな、どよめきが起きた。カイルはベッドにかがみ込むと、木の枝そっくりに筋張った手を握りしめた。
維管束に脳を乗っ取られて、意識が混濁しつつあるなかで、ラウルは最後の力を振りしぼっているのだろう。
情感たっぷりに、と評するにふさわしいほど、人工音声が愛という結晶を降りこぼす。
〈カイル、俺は、おまえに安らぎを与える花を咲かせるだろうか。空腹を満たしてやれる実をつけるだろうか。青々と葉を茂らせて、おまえを雨や陽射しから護ってやれるだろうか。生まれもつかない躰になっちまったが、おまえが憩う場所になるって形で第二の人生を送るのは満更捨てたものじゃないかもな。生まれてきた甲斐があるってものだ〉。
機械が魂を宿したように、デジタルの声が詩情豊かに語りかけてくる。カイルはもちろん、医師たちも息をひそめて、類い稀に美しい〝遺言〟に聞き入って動かなかった。
待合室は外来患者でごった返し、入院患者は微睡む。こちらの分娩室では新生児が産声をあげ、こちらの手術室では無影灯が灯る。
病院を舞台に、生と死が織りなすドラマが幾編も描かれてきた。そして、またひとつの物語が完結する。
微弱という次元を通り越し、脳波はもはや平らかな一本の線にすぎない。ラウルはそれでも最期まで粘りに粘って、こう言い残した。
〈カイル愛して……〉。
ピッ、と電子音が鳴ったせつな、数奇な生涯に幕が引かれた。かつて右手の親指だったところから薄片が剝がれ落ち、翠緑色のそれは、蜂蜜色の髪に止まった。
元気でな、とカイルの頭を撫でるように。
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