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第78話
病棟の屋上から一望のもとに見渡す海が日ごとに藍色がかっていき、秋の気配がゆっくりと忍び寄ってくる。
夏が終わりきらないうちにケリをつけるとばかりに、維管束が顔面を食い荒らしていく。
人工呼吸器のチューブを差し込むために鼻の穴が露出している他は、目許から下は樹皮状のものに覆われ尽くした。次いで耳が隠れた。
ラウルという蠟燭が燃え尽きるのは、時間の問題だった。
ラウルが聴覚を失って以来、モニターを介して言葉を交わすさいにも工夫を凝らす必要が生じた。カイルは絶えずラウルに話しかけながら、他愛もないことを書き記した紙を彼の眼前に翳す。
たとえば、こんなふうに。
「村の言い伝えを憶えてるよね。黄身がふたつの卵は、幸運の女神さまがメンドリの姿を借りて産んだもの。朝ごはんのゆで卵が、黄身がふたつだったんだ。だから……」
思わせぶりに紙を後ろ手に隠し、瞳をくるりと回した。焦らされると興味をかき立てられるものだ。脳に刺激を与えつづけていれば、思考力が低下するのを食い止められるはず。
カイルはそう考えて、好奇心をくすぐるように努めていた。
だから、と歌うように繰り返す間も、ともすれば笑顔にひびが入る。頭にこびりついて離れない光景が、鮮明さを増すせいだ。
二日前、ラウルの母親が長旅のすえに会いにきた。息子は快方に向かっている、便りがないのは元気な証拠、と信じて疑わなかったようだが現実は残酷だった。
病室に案内されてくるなり、
「悪霊が息子にとり憑いた!」
ひと声叫んで卒倒した。市村が呼ばれて、病症とその経過について嚙みくだいて説明したものの、母親はかえって頭の中がこんがらかったようで、ラウルを胡乱げに睨 めまわした。
──こんな、こんな木の出来損ないみたいな妙ちきりんなものが息子だなんて、ぬけぬけと。嘘つき、嘘つき、嘘つき……ラウルをどこに隠したんだい!
やむをえず市村は、樹皮状のものがはびこっていく過程を記録した動画を母親に見せた。
インチキだ、と母親は再生がはじまって早々にパソコンにバッグを投げつけると、悄然と帰途についた。
あのひと幕で、ラウルはどんなに傷ついただろう。せめてもの慰めになれば、とカイルはことさら陽気に振る舞う。
クイズ番組の司会者ぶって、だからと、もうひと呼吸おいてから唇の痕跡に接吻した。
「だからね、幸運のお裾分け」
ラウルがまばたきで応えたとたん、胸の小鳥が撃ち抜かれたようにバサバサと羽音を立てた。カイルは精いっぱい顔をほころばせると、用事を思い出したふうを装って病室を飛び出した。
鈍色 の雲が垂れ込めているようなカイルの心にひきかえ、空は青く、トンボがすいすいと飛ぶ。
四阿 に駆け込んだ。欠けてしまうほどに歯を食いしばっても嗚咽が洩れて、ついには唇を嚙み裂き、鮮血がにじんだ。
「我がままだって、わかってる。だけど、あと一回、あと一回だけ『愛している』ってラウル自身の声で囁いてもらえたら死んでもいい……!」
胸をかきむしり、砂埃にまみれてのたうち回るさまは、殺人鬼ですらもらい泣きに瞳を潤ませるだろう悲愴感にあふれていた。
現に、ちょうど別の病室から医局に戻る途中に通りかかった市村が、眼鏡をずらして光るものがある目許をぬぐった。
ひとしきり黙考していた彼は、今いちどカイルを痛ましげに見やると、にわかに肚をくくった様子だ。そして策を練った。決然とした面持ちで、とある工場に電話をかけて、間近に迫ったその日のために手筈を整えた。
冀 くは時間よ、停まれ。
太古から数多 の人がそう念じてきたように、カイルも朝な夕なに念じる。だが、運命の歯車は無情に回りつづけ、白菊の花が咲き初めし朝、黒曜石のように美しい瞳にとうとう魔手が伸びた。
しかも、よりによって脳が発する電気信号を人工音声に変換するシステムが、稼働しはじめた矢先に。
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