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歪な恋は聖夜に始まる01
『今日は冷え込みも厳しく、夜になると雨もしくは雪も予想される見通しです』
『それじゃあ今年は関東でも、雪が恋人たちの前夜祭に華を添えてくれそうですね!』
『そうですね。ただ、足元が滑りやすく…』
聞こえてくる賑やかな音声を途中で遮るように、設楽尊(したらみこと)はテレビを消した。十二月二十四日。夕方からの降水確率は八十パーセント。そして確かに、今日は朝から冷え込んでいた。
万が一雪になる事を考えれば、あまりゆっくりはしていられない。テーブルの上に置いていた携帯電話を取り上げると、設楽は後輩へと電話をかけ始めた。
『お疲れ様ですッ』
こちらが名乗る前から行儀よく挨拶をする後輩の名は、青木(あおき)といった。職業は、小さいながらも自動車の整備工場を営んでいる。設楽は、自分の乗る車の整備をすべて青木に任せていた。
「タイヤ、すぐに交換できるか」
『あー、スタッドレスっすか? 今日寒いっスもんね! ちょっと待ってください、今予約確認してきますんで』
「ああ」
待てと言いながらも電話は持ったままなのだろう、バタバタと走る足音と、ガサガサと紙を捲る音が丸聞こえで設楽は苦笑する。
『お待たせしました! 先輩今から来られます?』
「ああ」
『じゃあ、用意してお待ちしてます!』
返事もせずに電話を切り、設楽は立ち上がった。住み慣れたアパートの鴨居をくぐり、玄関をくぐる。幾度となくカギを交換したせいで、そこだけは新しいドアノブにカギを差し込んだ。
築うん十年の安アパート。そのすぐ隣には、表通りに面した場所に出入口がある機械式の立体駐車場があった。管理人常駐で、駐車場の月額使用料は設楽の住むアパートの家賃と然程変わらない。
路地というよりは建物の隙間を通り抜け、駐車場の入口へ回れば顔馴染みの管理人が手をあげた。
「おはようございます。設楽さん」
「おはようございます」
「今日は寒いですねー。タイヤは替えられましたか? 雪になるそうですが」
雑談をしながらもしっかりと手を動かす管理人は、元警察官だという。設楽の職業が極道である事は車を見ればすぐに分かる筈だが、下手な一般人のように好奇の視線を向ける事もなく接しやすい。
「ちょうど、これからです」
「そうですか。気を付けて運転なさってください」
「はい。ありがとうございます」
駐車場の扉が開くと見慣れた車のテールが見える。些か狭い通路から乗り込んで車をバックで出せば、ターンテーブルがくるりと向きを変えた。小さく管理人に頭を下げてから、設楽は車を出した。
車の見た目が明らかに威圧感を放つおかげか、斜線を譲られ、邪魔をされる事も滅多にない。ストレスもなく設楽は目的地である青木の営む工場へと辿り着くことが出来た。
「お待ちしてました先輩ッ。今日寒いっスね!」
「ああ、そうだな」
「事務所にお茶用意してありますんで!」
車から降りる設楽と入れ替わるように運転席へと収まった青木は、すぐに工場の中へと車を移動させる。三十分足らずでタイヤの交換を終え、青木は事務所へと顔を出した。設楽が腕の時計へと視線を落とす。
「遅かったな」
「オイルの交換もそろそろだったんでついでにしときました」
「そうか」
◇ ◇ ◇
世間がクリスマスで賑わう中でも、設楽の職場である事務所にはそれらしい飾りは一切ない。土地柄、表を歩けばそこかしこで軽快な音楽が鳴り響き、辺りが暗くなれば一カ月ほど前から事務所にもいつもよりも華やかなネオンの光が差し込んできていた。だが、それだけだ。それもあと二日もすれば元に戻るだろう。
年末で色々と雑多な業務が増えてはいたが、設楽は時計の針が午後六時を指した時点で仕事を切り上げた。今日は、離れて暮らす妹、鏑木真衣(かぶらぎまい)との約束がある。三十一歳の設楽より一回りも年下の妹は、両親が離婚した時に父親が引き取った。とは言え、今の設楽と同業者だった父親は四年前に他界し、その年から真衣の面倒を見てきた設楽にとっては娘のようなものでもある。
十九にもなればそろそろクリスマスなどは男でも作って一緒に過ごせばいいとは思うものの、何故か今年もどこかに連れて行けとせがまれた設楽である。
『どうせお兄ちゃんだって彼女いないんでしょ? クリスマスくらい付き合ってあげるよ』
ケラケラと笑いながら言われてしまえば実際彼女もいない設楽には無理に断る道理もない。かくして設楽は仕事を切り上げ、事務所を後にした。
一歩表に出れば、賑やかな音楽が耳に流れ込む。設楽は車を取りには向かわず、待ち合わせの場所へとそのまま足を向けた。あまり事務所の近辺を真衣を連れて歩きたくはなかったが、当の本人がそれを承知の上で待ち合わせの場所を新宿にしているのだからどうしようもない。
客引きが声を掛けようとして、相手が設楽である事に気付くとペコペコと頭を下げながら去っていく。それを無表情に見遣り、辿り着いた先には既に真衣の姿があった。
「待たせたか」
「ううん。今来たとこ」
するりとナチュラルに腕に絡みつく真衣を、設楽はちらりと見遣る。
「そういう事は男にやれ」
「お兄ちゃんも男じゃん」
「そうじゃなくてな…」
「ははぁ~ん? さては照れてるね? あたし胸おっきいからね~♪」
はしゃぐ真衣を無言で見下ろして、設楽はさっさと歩き始めた。相手にするのも面倒臭い。血の繋がった妹に胸を押し付けられたところで欲情する筈もなく、させたいようにさせておけば機嫌が悪くなる事もないのだ。
腹が減っているという真衣を食事に連れて行き、クリスマスプレゼントが欲しいと強請られ女が好みそうな店を設楽は連れ回された。ようやく買い物を終えて店を出れば、チラチラと白いものが視界を通過していく。
「雪だ。ホントにホワイトクリスマスだね!」
「そうだな」
「今日寒かったもんね~」
そう言いながら腕に身を寄せる真衣が、無邪気に見上げてくる。傘が必要なほどではないが、そろそろ真衣を送った方が良いかと設楽は考えながら歩く。
「くっついてると温かいね」
「まあ…」
「ねぇねぇ、近くにパンケーキのお店が出来たんだけど、そこ行こ?」
「お前さっきケーキ食っただろう」
呆れたように言えば、誤魔化すように真衣が笑う。その瞬間、ゴトンッと異様に重そうな何かが落ちる音が聞こえ、何気なく視線を向けた設楽は思わずその場に足を止めた。
「お兄ちゃん…?」
「真崎?」
「え? 知り合い?」
「まあ…」
真崎潤(まさきじゅん)。痩身で、如何にも仕事ができる男といった雰囲気を纏う真崎は、実際大企業の会長を務めた男の私設秘書という肩書を持つ。
どうやらさっきの物音は、真崎の足元に落ちているアタッシュケースがたてたものらしい。だがしかし、アタッシュケースを取り落とすなどらしくもない…と、そこまで考えた時、真崎の視線が真衣が抱きついている腕を凝視している事に気付く。
「ちょっと待ってろ」
そう真衣へと言い残し、設楽は真崎へと近付いた。
「いったい何をやってる」
「設楽様…」
「っ!?」
足元に落ちたアタッシュケースを拾い上げた設楽は、真崎の表情に思わず息を詰めた。どうしてそんなに悲しそうな顔をしているのか。どうして、今にも泣きそうなほどか細い声で名を呼ぶのか。
何故か、目が離せなくなる。
「申し訳ありません…。邪魔をするつもりはなかったのですが…、わたくしとした事が取り乱してしまって…」
「邪魔? 何の事だ」
「あぁいえ…。っ失礼します…!」
そう言って踵を返した真崎は、設楽が声をかけても立ち止まる事なく走り去った。それも、設楽の手の中にアタッシュケースを残して…だ。
「何なんだ?」
呆れたように呟き、設楽は残されたアタッシュケースを見て溜息を吐く。その後ろから、真衣が手元を覗き込んだ。
「え? 今の人鞄忘れてっちゃったの!?」
「ああ」
「ふーん…? てかあの人、お兄ちゃんとあたしの事、きっと誤解してるよ?」
「誤解も何も、俺がどうだろうとあいつには何の関係もない」
そう。関係などないはずだ。少なくとも、設楽にとっては。だが、つい今しがた真崎が見せた表情を、何故か設楽は忘れられずにいた。
設楽と真崎の関係は、どうにも異様なものである。元々当人同士に接点はないのだ。そのくせ、顔を合わせる機会は腐るほどある。それは設楽と真崎の仕える者同士が恋人だからに他ならないのだが、ひょんなことから設楽と真崎まで関係を持ってしまった。
とは言えど、設楽自身は真崎を恋人などとは思っていない。真崎も、そう思ってはいないはずだ。だが…。
――どうしてあんな顔をした?
答えが分からないほど、設楽は鈍感ではなかった。はぁ…と、小さく吐いた白い溜息は、あっという間に掻き消える。
「悪いな真衣、今日はここまでだ」
「うん。お詫びはパンケーキでいいよ」
「分かった」
大通りまで出たところでタクシーを捕まえ、真衣を乗せる。物分かりの良い妹の頭を設楽はさらりと撫でた。
「気を付けて帰れ」
「はーい」
運転手に住所を告げ、釣りは要らないと金を渡して設楽はあっさりと踵を返した。
◇ ◇ ◇
設楽が真崎のマンションを訪れた事は、たった一度しかない。だが設楽は、そのたったの一度でマンションの住所と真崎の部屋の番号を、しっかりと記憶していた。
その時に個人的な繋がりを持ちたいと、そう言った真崎に設楽は連絡先のひとつも教えていなければ、聞く事もしなかった。助手席に置いたアタッシュケースをちらりと見遣り、設楽は溜息を吐く。
願わくば、わざと置いて行ったと思いたい。そうでなければ困るのだ。誰かに恋愛感情を向けられるのなど、設楽は御免蒙りたかった。
その反面、真崎の表情を思えば答えは予想がつく。そして、それを見た瞬間、自分の中に沸きあがった感情も、設楽は自覚していた。
オートロックの自動ドアの前に立ち、迷うことなく四桁の番号を打ち込めば無言でガラス戸が動く。遥か数十メートル上へと画像を送っているだろうカメラを一度だけ見遣り、設楽は自動ドアをくぐった。
エレベーターを降りれば広い間隔でドアが並んでいる。その一番奥が、目的である真崎の部屋だった。個別に設えられたインターホンを押すまでもなくドアが内側から開かれる。
「設楽様…」
「どういう事だか説明しろ」
アタッシュケースを突きつけるように差し出せば、項垂れながら真崎が小さく囁いた。
「申し訳…ございません…」
「謝れなんて言ってねえんだよ。入るぞ」
真崎の返事を聞くまでもなく設楽は玄関へと足を踏み入れる。受け取る気配も動く気配もない真崎の横をすり抜け、あっさりと部屋へと上がり込んだ設楽がリビングに入っても、部屋の主は玄関から動こうとはしなかった。
「今すぐ来い」
苛立ちを隠そうともしない設楽の声に、とぼとぼと真崎はリビングへと姿を現した。項垂れるように床に正座をし、覇気も何もない真崎の姿は見ていて面白くもなんともない。
「いい加減にしろよお前。取り乱すって何だ。どうしてあんなモン置いてった」
「……申し訳ありません…」
真崎の態度は、設楽には判断が付きかねた。元より極端に偏った性癖を真崎は持っている。それは所謂マゾヒズムと呼ばれるもので、相手に罵られたいがために話そうとしない可能性もある。
無理に吐かせたとしても、その場の快楽に流されて口にした言葉など設楽自身が信用できない。本当に、面倒臭い相手だと、そう思う。
「謝るんじゃねえ。俺は話せって言ってんだ」
「わたくしは…わたくし自身も…、戸惑っているんです…。こんな、玩具にあるまじき気持ちなど…。設楽様が他の誰かのものだと思うだけでわたくしは…嫌で嫌で堪らなくて…。感情など…不要なはず…なのに…」
途切れ途切れながらも言葉にしながら、真崎自身も頭の中を整理しているかのようだった。そして言葉を重ねるごとに真崎は自分自身に幻滅し、落胆し、意気消沈していくのがはっきりと分かる。
初めてだと、真崎は言った事がある。自分を最後まで玩具のように扱ったのは、設楽が初めてだと、そう言ったのだ。それも、頗る嬉しそうにはにかんで。優しくされると萎えると、そう言った真崎に変態と罵ったのは設楽なのだから忘れようはずもない。
そんな男が妙な人間臭さに取りつかれて平然としていられる筈がない事は、設楽にも分かる。それほどまでに、真崎は異常だと、そう思ったのだ。けれど真崎は、その異常な性癖と通常時の境界はしっかりしている筈だった。
表向き仕事をしている時の真崎は、どこから見ても非の打ちどころのない有能な男である。事実真崎が秘書を務めるのは、今は引退しているとはいえ国内でもトップクラスのアパレル系企業グループの会長だった男だ。会社付きから私設秘書になりたいと頼み込んでなったのだと、どこか誇らしげに話す真崎の気持ちは、同じく仕えるべき者を持つ設楽にも理解が出来た。
だがしかし、一歩仕事から離れ、欲を剥き出しにした真崎の姿は設楽にとって理解できるものではない。自らを無機物のように扱って欲しいなどという異常な欲求は、理解したいとも思わないものだった。が、現在の真崎の姿を見ていれば、分かる事くらいは設楽にもある。
不愛想ではあるが、けっして鈍感ではない設楽には、真崎のそれが恋愛感情だという事くらいは理解できた。真崎本人は、気付いていないのだろうけれど。
――欠陥品だな。
床に蹲る真崎をこのまま放置しておけば、そのうち壊れるだろうと思う。
今の真崎は性癖だけに囚われ過ぎて、例え無機物のように扱われたいという強烈な欲求を抱こうとも自身が生身の人間だという事を忘れている。
設楽が真崎を異常だと思った理由は、そこにある。例えマゾヒストだろうと、感情のない人間などいないし、これまで設楽は見た事もない。真崎とて、現にこうして感情はある。
ただ、真崎の場合は性癖の向かっている方向が悪すぎたとでも言うのだろうか。真崎の欲求は、あまりにも人とはかけ離れたものだった。それ故に、抱えている欲求が強ければ強いほど、人らしい感情をいだけば混乱する。そう、今の真崎のように。
『だから貴方を選びました。貴方なら…わたくしをそこの玩具と同じように扱ってくださるでしょう?』
あの晩、挑発とも懇願ともつかぬ態度でもたらされた真崎の言葉が脳裏を過る。確かに、真崎が自分を選らんだのは正解だろうと設楽も思う。設楽は、人を壊して遊びたいとは思わない。
ふぅ…と、小さく息を吐けば、真崎の肩が小さく震えるのが分かる。
「お前は自分を何だと思ってやがる?」
「っ…わたくしは……設楽様の玩具です…」
「そうじゃねぇ。お前は何だって聞いてんだよ」
質問の意図が理解できないとでも言うように、怪訝な顔付きで真崎が見上げてくる。再び溜息を吐けば、恥じ入るように真崎は床へと視線を落とした。
「なあ真崎。お前は人であってモノじゃねぇよ。感情があんのは当たり前だろうが」
「ですが…こんな感情をいだいた事などわたくしはこれまで一度も…。それどころか…これまでわたくし自身が嫌ってきたものなんです…」
「まあ、確かにモノは恋なんぞしねぇだろうな。人を好きにもなりゃしねえよ。だがお前はモノじゃねえ。お前が嫌おうがどうしようが、それが人ってもんで、お前も人だ。おかしなことは何もねぇよ。混同すんな」
「ひ…と…?」
まるで幼子のように呟いて、真崎が黙り込む事数十秒。一度がばっと顔をあげた真崎と視線が合ったかと思えば、すぐに再び床へと突っ伏す様子に苦笑が漏れる。
真崎とて馬鹿な訳でもなければ鈍感な訳でもないだろうと設楽は思う。ただ、境界線を上手く引けずに混乱し、混同し、浮上する糸口を見失っていただけだ。
「わたくしは…わたくしとした事が…何という失態を…っ」
「ちっとは可愛げがあんじゃねぇか」
わたわたと慌てふためく姿に笑いながら言ってやれば、真崎の頬が微かに朱に染まる。戸惑うように視線を泳がせ、堪えるように唇を噛み締め、思案するように眉根を寄せた。そうしてようやく顔を上げた真崎を、設楽は静かに見つめる。
「設楽様、わたくしは…貴方に感情まで押し付けてしまってもよいのでしょうか…? それでも…、貴方はわたくしの所有者でいてくださいますか…?」
「元より所有者になるなんて言った覚えはねぇな」
「ぁっ…ああっ、そんな事を仰らないでください…! どうかっ、どうかわたくしを…っ」
縋るように脚を掴む真崎を、設楽は無表情に見下ろしていた。どうすれば真面(まとも)な言葉をこの男から引き出す事が出来るだろうかと思案する。歪にゆがんだこの男の口から、真っ直ぐな言葉を吐かせてみたい。
「いいか真崎、普通に、はっきり言え。俺はただのモノになんざ興味はねぇんだよ。欲しいってんなら同じ場所まで上がってこい。後で幾らでも蹴落としてやる」
立ち上がり、裾を払い、凛とした佇まいで見上げる真崎を綺麗だと思う。この男になら、囚われてもいいとさえ。否、既に囚われている自覚はある。
最初から折れている物を折り曲げたところで何が面白いというのか。どうせなら、真っ直ぐなものを圧し折りたいと、そう思う設楽もまた歪んではいた。
「設楽様、お慕い申しております。どうか、わたくしのこの気持ちを受け入れてはくださいませんか?」
「それだけか?」
ニッと可笑しそうに口角を上げる設楽は、首へと腕を伸ばす真崎の腰を自ら引き寄せる。痛みを感じるだろう程に力を込めれば、真崎の唇から艶やかな吐息と声が漏れた。
「っぁ…設楽…様っ」
「蹴落として欲しけりゃ蹲るんじゃねえ。面白くもなんともねぇからな。玩具でいてぇなら、持ち主をきっちり楽しませろよ」
「は…ぃ…。はいっ」
「それとお前、誤解してるようだから教えておくが、あれは俺の妹だぞ」
腕の力を僅かに緩めて設楽は言った。きょとんとした顔で真崎が見上げてくる。
「妹さん…ですか?」
「ああ。まあ、娘みてぇなもんでもあるがな」
かあぁ…と、一瞬にして赤くなった顔を俯ける真崎に苦笑を漏らす。こんな態度でずっと居るのなら、少しは真面に可愛がってやってもいいとは思う設楽である。だが、残念かな真崎が変態である事に疑う余地はなかった。それも、弩が付くと言っても過言ではないほどの…。
腕を離し、ソファに腰を下ろしながら短く『服を脱げ』と命令すれば、真崎の胸の突起をしっかりと穿ったピアスが目に入る。それを付けたのは、設楽自身だ。
足元に這い蹲り、何かを命じてくれと言わんばかりに目を輝かせる真崎を見れば、設楽らしからぬ僅かな後悔が頭を擡げてくるから困ったものだった。浅慮だったかと。
「二度と情けねぇ面を晒すなよ。言いてぇ事ははっきり言え」
「はい…。見苦しい真似をして申し訳ありません…」
しゅんと項垂れる真崎のさまは、耳があったら確実に垂れているだろうと思う。だがしかし、それだけで済まないのがこの真崎という男がド変態と言われる所以である。
「あぁ…設楽様、蒙昧なわたくしを罰してください…」
頭を垂れ、卑屈に振舞いながらもその実、悦びを隠せずにいるその声に、設楽は意識せず冷たい視線を向けていた。ついでのように湧き上がる悍ましさはまごう事なき本心だ。
「目の当たりにするとやっぱり気持ち悪ぃなお前…」
「ああ設楽様…っ、そんな心の底から蔑むような目を向けられたら…わたくしはもう耐えられませんっ」
「…離れろてめぇ」
唸るような設楽の低い声に、ぴくりと肩を震わせて真崎がおずおずと床の上を退がる。
「設楽…様…、貴方に触れられないなど…」
「それ以上気色悪ぃ科白を吐くんじゃねぇ」
「…っ」
ぴしゃりと言い放ち、床の上の真崎を嫌そうな顔で見る。全裸でふるふると肩を震わせ両手をついたまま、うっとりと視線を向けられると心の底から後悔したくなる。もはや真崎自身がそう仕向けているのだとしたら…と、唐突に浮かんだ可能性が案外的を射ていてそうで設楽は慄然とした。
――無意識なら無意識で、天晴だがな…。
拘束も何もないのに健気に言う事を聞いている事だけは感心できるが。
不意に短い着信が胸元の携帯から聞こえて、取り出してみれば真衣からのメールである事に気付いた。設楽の手にかかると些かならず押しにくそうにみえる小さなボタンを操作すれば、食事とプレゼントへの礼の言葉と、『応援してるね』という文字とともに何やら小さな絵が動いていて苦笑する。
いったい何を応援するつもりなのだと思い、目の前の真崎に思考が辿り着く。真衣は、昔から周囲の大人の機微に敏い子供だった。きっと真崎が設楽に向ける感情に気付いている。そして、設楽が真崎に向けるものにも。
――応援か…。そんな可愛らしいものか?
さすがの真衣とて真崎の本性には気付かなかったようで安心する。その点の真崎は、今日のような事が起こらない限りは信用できるはずだった。何せ設楽でさえも、幾度も顔を合わせているというのにあの晩までは知らなかったのだから。
僅かに身じろぐ気配に携帯電話の画面から真崎へと視線を移せば、ほんの少しだけ真崎が距離を縮めていた。高く組んだ設楽の足先を物欲しそうに見つめる真崎の顎を、爪先でくいと持ち上げる。
「お綺麗な顔を差し出すなよ。仕事に支障が出る」
「ぁ…あぁ…設楽様…、心得ております…」
「蹴られてぇくせに殊勝なことだな」
吐き捨てるように言い放ち、軽く爪先に乗り、整ったラインを描く顎を設楽は蹴り上げた。
「客人はもてなせよ。酒くらいはあるんだろう?」
「はい。ただいまお持ちいたします」
すぐに立ち上がり、対面式のキッチンへと入る真崎を見ればどうやら世話を焼くのも嫌いではないらしい。それを思えば、職場の若い連中を相手にするのも真崎を相手にするのも、設楽にとっては同じようなものだ。
間もなく戻ってきた真崎の手には、綺麗に丸く象られた氷の入ったロックグラスとウイスキーが乗っていた。随分と小洒落た酒の飲み方をするらしい。
「申し訳ございません設楽様。わたくしはあまり酒に詳しくありませんので、こんなものしかご用意がないのですが」
「俺もこだわりはねぇよ。何でもいい」
「どうぞ…」
床についた膝を揃え、僅かに腰を浮かせて両手を差し出す真崎の手から、ずんぐりとしたグラスを無言で受け取り設楽が口をつける。うっとりと喉元へと注がれる視線に僅かに眉を顰めれば、真崎は恥じ入るように視線を逸らした。どこまでも躾の行き届いた真崎の態度は、設楽にとって好ましい。
「わたくしも、ご一緒してよろしいでしょうか?」
「好きにしろ」
「ありがとうございます」
正座をしたまま美しい所作で礼を施し、グラスを両手で口許へ運ぶのは、今は設楽を主人として扱っているからだろうか。一度、素の真崎と酒を飲み交わしてみたいとさえ思う。だが…。
現在の真崎はといえば、一糸たりともその身には纏っていなかった。どれだけ優雅な仕草をしようともどこか滑稽なその姿に、設楽は服を脱げと命じた事を後悔する。
設楽のそんな心持などつゆ知らず。上機嫌にも見えていた真崎はだが、僅かに顔を曇らせおずおずと口を開いた。
「設楽様…。あの…お願いがあるのですが…」
「何だ」
「おこがましいお願いである事は重々承知しているのですが…、お名前を…お呼びしてもよろしいでしょうか?」
「は?」
随分とへりくだった言い方に、思わず唖然としてしまう。だが、幸いとでも言うべきか、頬を朱に染めて俯いた真崎に気付いた様子はなかった。いじらしいその姿に設楽はわなわなと唇を震わせる。不覚にも、可愛いなどと思ってしまった設楽の前で、なおも真崎は言葉を重ねた。
「で、ですからその…、尊様と…そうお呼びし…」
「様はよせ」
遮るように言い放ったのは、設楽自身が元より苗字でさえも様付で呼ばれる事が気に入らないせいではある。あるのだが…。この時ばかりは少々違う理由がある事に設楽自身も気付いていた。
「お前に名を呼ばれるのなら、他人行儀な言葉を無駄に付けられたくはない」
「っ……尊…と、そうお呼びしても…?」
改めて確認されると赤面ものである。『勘弁しろ』とそう小さく呟いて、設楽はグラスを持つ手を額に当てた。この男は、クソほど自分とは相性が悪い。それなのに何故か惹かれるから困ってしまうのだ。
そもそもどうして、柄にもなく名など呼びたがるのか。ギャップと呼ぶには些か質が悪すぎはしないかと内心で一人ごちる。
「尊、わたくしはとても嬉しいです」
そう言って真崎が視線を俯けるさまは、途轍もなくいじらしい。表情と仕草だけをとって見るならば、それはもう申し分のないほどに。設楽の好みのど真ん中を射抜いているのだ。
だがしかし悲しいかな。そのすべてを台無しにしているのは真崎が全裸であるというその一点だった。しかも、設楽自身の意思によって。
――こんなくだらない事でこれほど後悔する事になろうとは…。
表情に乏しい設楽はだが、心の中で後悔しきれないほどの後悔を噛み締めていた。自らへの怒りとともに手元に触れた真崎のシャツを掴み上げ、頭の上に投げ捨てる。
「尊…!?」
「何でもねぇよ。風邪でも引いたら面倒だから羽織ってろ」
グラスで隠した視界の中で、シャツから顔を出した真崎が驚いたように僅かに目を見開く。胸元へと引き寄せたシャツをきゅっと掴むと、戸惑うようなそぶりを見せた後で微笑んだ。
「尊になら…優しくされるのも悪くはないですね」
「っ……死ね」
低く唸るように零す設楽が、己の浅はかさを呪う。
だがしかし、こんなものなどまだ序章に過ぎないという事に、設楽は気付いていなかった。幸いと言うべきか不幸にもと言うべきか、明日も仕えるべき主から暇を言い渡されている。
世間様では恋人たちが想いを深める聖なる夜に、この二人の関係はまだ始まったばかりだった。
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