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第29話

 こんな気持ちになったのは産まれて初めてのことで、自分の心が自分のものでないような心もとなさを感じながら。  秀でた眉を僅かに顰めているのはきっと騎兵隊の隊長に宛てた指令書の文面を考え考え書いているからだろう。この神殿を含む丘陵地帯は聖カタロニア国の領土だし、フランツ王国も――そして宰相自らが禊ぎに参ったので、彼自身からキリヤがそれとなく聞き出したので確かな情報だろう――エルタニア王国軍も未だ動いてはいないので、敵が侵入していても斥候《せっこう》程度のハズだし、ファロスや彼の従者ではなく――キリヤは見ていないが当然連れて来ているだろう――神殿の者であれば中立だと判断してくれるために狙われる危険性がより低くなるが、物事には念には念を入れた方が良いと判断したのだろう。  それに、高い鼻梁が灯火の火を受けて、片方に影を落としているのも何だかとても目を惹かれる。そして筆記具を持った長くて節高い手が、キリヤの素肌に触れていた時のことを想い出してしまって身体の奥が熱くなる。  今は流麗な文字を綴っているだけの指が、そして参謀とはいえ一通りの武術の心得を当然持ち合わせていると思わせる引き締まった身体とか、キリヤの身体の中の一番敏感な場所に挿れた熱い塊を、脳裏から離そうとすればするほど逆効果だった。  今までは「神事」として、聖なる務めだと教え込まれて来た行為が、ファロスとの時だけはまるで色がついたように鮮やかに心と身体に蘇っては拍動を早めてしまう。  そんなことを一度も感じたことはなかったというのに。  そして、エルタニアの宰相との――こちらは武道の鍛錬など数十年も前から止めて美食に明け暮れている毎日であろうことは想像に難くない身体だった――禊はただ天井を眺めて早く時間が経ってくれないかと思うほど苦痛だった。  キリヤの務めの「神事」が、ファロスとの時だけは何だか異なった感じで、身も心も溺れてしまっていた。  ただ、ファロスの望みが単なる戦勝祈願ならこうまで心が揺れ動かなかっただろう。その気持ちの揺らぎがキリヤ自身のものであるのか、それともこの神殿の神でもある古の英雄の霊がキリヤの身体を憑り代として言わせたものなのかも判然としない。
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