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第1話

 扉を押すと、オールドロックが耳に流れ込んできた。  乾いた声音のシャウト。唸るようなベースと、ドラムが刻むビート。華やかなギターのリフ。  若い頃、レコードがすり切れるほど聴いた曲だ。  今日という日に相応しいとは言えない。が、この店らしい。  そんな『らしさ』が、ふわっと身を包む暖気が、瀧澤浩志の心身を締め付けていたものを緩める。  視界がまっ白になると同時、ほう、と息が漏れたのは無意識。くちもとが緩んでいる自覚も無いまま曇った眼鏡を外した。それを片手で持ったままマフラーを解く間にも、鼻の先や耳に、じわじわと血流が戻ってくる。  ここに到着するまで、雪片を含んだ、凍り付くような風に苛まれていたのだ。 「いらっしゃい」  声に目を向けると、赤や緑の色彩が散らばった店内を背景に、金髪の青年がニッと笑んでいる。紙製の三角帽子をかぶっているが、まったく似合っていなかった。 「寒かったでしょ」  瀧澤から奪ったマフラーを自分の首に掛け、三角帽子の青年はコートも寄越せと手を伸ばしてくる。 「ありがとう」  慌てて脱いだコートを渡し、畳んだ眼鏡を胸ポケットに突っ込んだ。 「眼鏡、拭きますよ」 「いや。いい」  苦笑しながら首を振る。  半年ほど前に買った老眼鏡だが、元々の視力はそう悪くないので、細かい文字やモニター画面を見るので無ければ、裸眼でも支障ない。いちいち外すのが面倒で常に身につけているだけだ。  奥へ進む間も、馴染みある声がかかる。 「おお~、タキさん」 「今日は遅かったな」 「残業かい?」 「こんな日なのに」  常連たちに片手振りつつ苦笑を向け、カウンターの定位置に腰を落ち着けた。  柿渋色に染められた作り付けの棚やカウンターは、通常、並んだ酒瓶やグラスをダウンライトが照らすのみ。整頓されているが、素っ気ないほど余計な物の無い、シックな装いだ。  しかし今日は赤い実や松ぼっくりが密集するリース、柊の葉を象った緑や金の飾り、テラテラ光る星が連なった紙、サンタやトナカイの置物などで彩られ、華やいではいるが雑然としている。そしてカウンターには小ぶりなクリスマスツリーが置かれていた。 「お疲れ」  声と共に、生ビールの中ジョッキが置かれ、目を上げると、顎髭を生やしたチョイ悪オヤジが、ニンマリと笑んでいた。  この店、『Last romance』の店主、芝草瑛太郎。  高校時代からの腐れ縁。そして……  ついさっき、瀧澤の最も親しい人間は、こいつになった。 「ずいぶん様変わりしたな。昨日までは普通だったのに」  声をかけてジョッキに口をつける。ごくごく喉ごしを楽しんで、プハッと息を吐くと、カウンターの中で芝草が苦笑していた。 「俺もビックリしたよ。店に来たらこんなコトになっててさ、イケが勝手に」 「だろうな。おまえのセンスじゃないとは思った」 「あー! なに人のことディスってるんですか!」  常連たちと賑やかに乾杯していた三角帽子の金髪、池垣が大声を出した。カウンターと椅子席が四つほどの狭い店だ。たいして抑えていない声は、当然聞こえる。 「ていうかエータロさん、この帽子かぶってくれないんですよ?」  他の常連たちがかぶっている三角帽子を指さしながら言ってるが、 「いや、さすがにそれは無理」  即座に真顔で言う芝草を見ながらクッと笑ってしまう。あれをかぶれなど、芝草がうけがうわけが無い、と瀧澤も首肯する。自分だって絶対に嫌だ。 「……いい匂いだな」  それより気になることを言うと、芝草は嬉しそうに目を細めた。 「遅かったけど、食ってないの?」 「ああ、腹ぺこだ」 「ちょ、無視とか酷くないすか?」  池垣が騒ぐのはいつものことだ。瀧澤は芝草を見たままニヤニヤ続ける。 「今日はなんだ」 「当ててみな?」  咥えタバコで片目を瞑ってみせる友人に、苦笑しながら「鯖味噌か」と返した。 「あたり」  芝草は目を細めて片頬で笑い、 「しばしお待ちを、ティアーモ」  ひらひらと片手を振りながら、カウンター奥の右端にある厨房へ消えていった。  昔からキザっぽい男だったが、年齢を重ねてキザに磨きがかかっている。セリフといい仕草といい、イタリア男のようにサマになっているなと思いつつ、ゴクゴク喉を鳴らしてジョッキの中身を減らしていると、池垣が寄ってきた。 「まるっと無視って」  ぶつぶつ言いながら、おしぼりを渡してくれる。 「ありがとう。まあ、気にするな」 「だって今日、クリスマスっすよ? 少しはそれっぽくしないと」 「なに、明日には全部無くなってるさ」  苦笑交じりに瀧澤が言うと、池垣は、はあっ、と身体全体を使って大袈裟にため息を表現した。 「ですよね、分かってます。どうせ一晩の命なんだろうなって」  唇を尖らせているのを横目で見やりつつ、暖かいおしぼりで頬や鼻を包んだ。 「分かっててやったのか。金もかかっただろうに」 「全部百均ですよ。全部で三千円もかかってないです」 「百均ね。こんなもんもあるんだな」  店のあちこちを彩るクリスマスカラーに視線を巡らせ、感心したように言うと、青年は耳を飾るいくつものピアスを揺らしながら吹き出した。 「タキさん知らないんですか。イベントの飾りは百均の得意分野ですよ? ていうかクリスマスなのに、味噌とショウガの香りって」  箸やつきだしを並べながら続く声が、不満げになっていく。 「せめてチキン焼こうって言ったのに。エータロさん、なんで鯖味噌なんて作っちゃうかな」 「俺はチキンの足より、こういうのの方が助かるが」 「うわ好み把握してる的な? ま、エータロさんが料理出すの、タキさんだけだし」 「俺は料理人じゃないからな」  戻って来た芝草が、鯖味噌の小鉢と飯椀をカウンターに置く。 「コイツに食わせるモンくらいしか作れないんだよ。そもそも、うちの店は酒とつまみしかやってない」  艶ある味噌だれに包まれた鯖の匂いが鼻を擽った。香ばしさに食欲をそそられ、おのずと緩んだ頬のまま箸を取る。 「……うまそうだ」 「味噌汁欲しいなら作るよ」 「いや、いらない」  早速ひとかけくちに運び、すぐ飯を押し込む。 「ほんと、初めて見たとき、なんで厨房あるのに料理出さないのかって不思議でしたよ」  かっこみながら 「俺はありがたいが、芝草、料理人を雇わないのか」 「んん? それって俺の手料理じゃ不満があるってコト?」 「違う違う」  眉寄せた芝草から流し目を送られ、瀧澤は慌てて言った。 「そうじゃない、経営上の話さ。素人考えだが、料理を出した方が売り上げも上がるんじゃないか、てな? おまえの飯は、毎日うまいよ」  瀧澤は十年以上、ほぼ毎日、芝草の手料理を食っている。  独り身の常連が集まっている中。池垣が声を上げる。 「クリスマスです、みなさん盛り上がっていきましょう!」  この店らしくない大騒ぎになり、食事を終えた瀧澤も、漏れなく乾杯に参加した。  ……疲れていたのだろう。  このところ満足に眠れていなかったから……などと自分に言い訳しつつ、いつしか意識を落としていた。

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