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第1話
俺には幼馴染がいる。それこそ物心がついた頃からずっと、共に隣を歩んできた奴だ。
「かおるちゃーん、いるんだろー?」
幼馴染の馨に教えてもらった暗証番号を打ち込み鍵を開けると、インターホンも押さずに部屋の中へと入った。
玄関にはかかとの高い女物の靴。
「かおるちゃーん、真っ最中ですかぁ~」
気にせずズカズカと玄関を上がってリビングへと行けば、そこには誰もいなかった。やっぱり最中なのかもしれない。
「さすがに突入すんのはやめとくか」
ひとりで住むには広すぎる部屋。高すぎる家賃。そんな場所に苦も無く住める馨の懐事情に、俺は随分と昔から寄生している。
綺麗に掃除の行き届いた部屋にはゴミひとつなく、輝く床とテーブルからは馨の神経質さが滲み出ている。ソファに服がかかっているとこなんて一度も見たことがない。そんな完璧に磨き上げられた部屋で、俺は迷うことなく煙草を咥え火をつけた。
ラグの上に腰を下ろし、ひんやりと冷たい革張りのソファに背を預け紫煙を吐き出す。汚れしらずの壁紙が、俺を軽蔑して見下ろしていた。
「裕典(ゆうすけ)、来てたのか」
二本目の煙草を咥えたところで寝室のドアが開いた。
「おちかれー」
気の抜ける挨拶と共に片手を持ち上げた俺に、馨がふっと笑みを漏らした。その表情に俺の鳩尾あたりがざわつく。
少し長めの、緩いウエーブがかかった髪は烏の濡れ羽色。毛先が絡まる首筋は、ちゃんと男らしい太さをしているのに、浮いた筋が色白の肌と相まって妙に艶めかしい。
切れ長でシャープな印象を与える目元は蠱惑的で、思わず躰の自由を奪われてしまう。長い付き合いである俺でさえ、ジッと見つめられればいまだにドギマギする程だ。その瞳が頬に落とす長い睫毛の影と、薄く形の良い唇にどうしようもない程の劣情を煽られるのだと、昔誰かが言っていた。
そんな俺の世界のセックスシンボルである馨の笑みで、一体どれだけの人間が湯煎にかけたチョコレートの如く蕩かされてきたことやら…。
「声をかけてくれれば良かったのに」
「さすがの俺も、それはできねぇわ」
躰の位置をずらして馨の後ろを覗き込めば、やっぱりそこには女の姿があった。
「お、美香ちん久しぶり~」
一度は下げた手をもう一度あげ、ひらひらと振って見せる。が、そうしたところでふと彼女の顔色の悪さに気が付いた。
「あれ、美香ちん…」
美香は、二ヶ月前に馨の彼女になったばかりだ。
性格をそのまま表す強気な目元、ツンと尖った鼻先、瑞々しい花のような色の頬。真っ赤なドレスを纏う口元は純粋さとは真逆な色気を纏い、男なら誰もが一度はそこに〝咥えられたい〟と思うに違いない。俺は、会うたび思ってる。
もしかすると、今まで見てきた馨の彼女の中でもダントツ美人かもしれない。だがそんな彼女の美貌は、今や見る影もない。
思わず馨を見上げれば、その顔にはなんの表情も浮かんでいなかった。
「馨、お前」
「なんだ?」
「また殴ったの?」
美香の顔の左側半分が、青紫色に覆われ腫れている。せっかくの美人さんが台無しだ。
「言う事をきかないから、仕方がない」
「どうせ大したことじゃねンだろぉ?」
馨はいつもそうだ。
自分の部屋のモノを勝手に触ったとか、なんとか。そんな程度のことで直ぐに人を殴る。男も女も関係なく、容赦なくそうするから高校時代は生徒たちにとって恐怖の対象だった。いや、結局憧れの域を脱しないんだから、恐怖ではなく『畏怖』だったのかもしれない。そのお陰で、誰も訴えたりしないから退学にもなんなかった。
それは互いが社会人になった今でも、あまり変わらない。
「美香ちん大丈夫ぅ?」
重い腰をあげると、馨の後ろで俯いたままの美香に歩み寄った。痛々しい色をしたそこに手を伸ばす。だが頬の色を隠そうとする長い髪に手が触れる前に、それは強い力で振り払われた。
「アンタなんかっ!」
涙目で俺を睨み付けると、そのまま美香は走って出て行ってしまった。
「えー、八つ当たり」
「裕典、灰が落ちる」
ぼやく俺の隣から伸びてきた手に、指に挟んでいた煙草を奪われる。テーブルの上に置かれた高級そうなガラスの灰皿に、トントンと灰を落とすと馨は自分の口にそれを咥えた。
すうっと深く吸い込み、深く深く吐き出す。その表情はまるで情事中のように気持ち良さげで、思わずこっちがドキッとする。
「おま…煙草吸うだけでなんつぅエロい顔すんだよ」
「なに言ってんだ」
はっ、と短く笑って、馨は煙草を俺の口に戻した。
「つーか、灰なんか気にしてていいのかよ? 美香ちん出てっちゃったけど」
「ああ、気にすんな。どうせもう終わらせるつもりだった」
「ひでぇな~」
「『愛してるって言って』を何百回も言われてみろ。殴りたくもなる」
「いやいや殴んなよ。で、言ってやったの?」
「言うわけない」
「かおるちゃーん…」
眉をしかめた俺を、馨がジッと見据えた。
「そんな事を話に来たんじゃないんだろう? それで、今度は幾ら欲しいんだ?」
ただでさえ切れ長の目がスッと細められ、射殺すように俺を見る。
「その為に来たんだろ?」
「えっと~」
「エミか、リカか。それともナツミか」
灰を落とされ、少しだけ輝きを失った灰皿にギュッと煙草を押し付けると、俺は飛びつくようにして馨に抱き着いた。
「お願い馨きゅん! お金恵んでぇ~! トモちゃんが今度誕生日らしくて! 当日はお店でも派手にパーティやるから来て欲しいって誘われてさぁ!」
「トモ? また違う女に貢いでんのか」
「うっ…、まぁそれはそれとして。何か小難しい名前のブランドバッグ強請られちゃってさ…その、」
「はっきり言え」
「五十万! 無理だったら十万でもいいから! そこのブランドの何かが買えればそれでいいからお金下さいッ」
冷たい目で俺を見る馨に、両手を合わせて拝み倒す。
「頼むっ! この通り!」
必死で拝む俺に馨は大きな溜め息を吐いて立ち上がり、一度寝室に入り、出てきた時には片手に封筒を持っていた。
「馨っ!」
「一回ぐらいは自分の金で貢いだらどうだ」
分厚い封筒で俺の頭をバシっと叩くと、そのままポイと俺の手にそれを放った。『貸してください』ではなく『ください』と言った俺の言葉の意味を、しっかり理解しているのだ。放ったそれは、二度と馨の手には戻らない。
こうしてかれこれ、何百万出してもらっただろうか。それでも馨は、何故か俺を殴ったりしないで金をくれた。
封筒の中を見れば、言った金額よりも多く入っている。
「ありがとー! 恥かかずに済む!」
握り締めた封筒に、俺は熱い熱いキスを贈った。
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