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1-2 崖っぷちとボンクラ
人間は大人になり、社会という海に解き放たれる。
広大な社会、ふつうだとか常識だとかいう岩礁にぶつかって
何かをすり減らし、何かが削がれていっても
構うことなく押し寄せる波に、藻屑みたいに漂って
それでもどうしても譲れないものを隠し持ってしまったがゆえに
気付けば自分でもよくわからない所に流れ着いて
今もなお翻弄されている。
「…私こんなの初めて…」
どこか熱っぽい吐息混じりの声に、袖野は内心ため息を溢しながらも
社会という海を航海して得た愛想笑いを浮かべた。
日本家屋の畳張りのその部屋は、いい感じの侘び寂び空間で
茶でも嗜めば実に風流な気分に浸れそうであったが
背後ではバタバタと忙しなく働く大人達の気配もあり
対極の空気が流れていた。
袖野は薄い着物一枚身に纏った女性からなるべく身体を離すように意識しながらも
その肉体に縄を巻き付けていた。
「痛かったらすぐいうてください」
「ええ、見た目より痛くないんですね」
「まあ痛くもできるし、痛くなくもできるし…」
「えーそうなんだ…」
女性は小さく頷きながらも、大人しく縛り上げられていて
その様子をニヤニヤしながら男達が見守っていた。
「いいねえゆりえちゃん、色っぽいよー」
「えー?本当ですか?」
「ね、袖野っち。腕がなるでしょ」
無駄に巨大なカメラを覗き込みながらも初老の男が話しかけてくる。
袖野は、こっちにふるなや〜、と思いながらも苦笑した。
「あー…はは、まあそうですね…ハイ」
老舗出版社が発行する官能小説雑誌“特選NOVEL”の編集部に所属している袖野は
数々の賞を受賞し官能小説界の星と謳われる“五虎七瀬”を始め
官能小説家達を担当している編集おじさんであったが
時々このような”緊縛“の仕事が乱入してくることがあった。
本日もグラビアアイドルの撮影に急に呼び出され
ノリ気がしないまま嫌々赴いた次第であった。
同じ出版社で、大枠で囲えば同じような目的のユーザーに訴えかける部署であるとはいえ
小説と実写では全くの畑違いだと思っているのだが
一応専門技術が必要とされる事柄であるし、
近場で安く使えてすぐ呼び出せる便利な人材だとでも思われてるに違いない。
ゆえに全くの思いつきだろうというような状況で呼び出されることもあり辟易しているのだが
たかだか平社員に口答えする権利などないのであった。
「…はい、じゃあ一旦こんな感じで…」
袖野はひとまず仕事を終え、彼女からさっさと離れ部屋の端っこに移動した。
始めるぞーとスタッフ同士が連携を取る様を観察しながら
小さくため息を零す。
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