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プロローグ
赤い欄干の、戻り橋と呼ばれる橋がある。
あの世とこの世の境目、とでも言いたいのだろうか。
馬鹿馬鹿しい。
桃源郷だの治外法権だのといくら御託を並べたところで、ここは現代日本なのだ。地の果てでも海の底でも、そこが日本の国土である限り、日本の法律によって治められるべき場所なのだ。
そもそも、大々的に売春宿(遊郭、と銘打っているが、こう呼んで差し支えないだろう)を経営している時点で違法だ。
しかし、この『淫花廓 』に捜査の手は伸びていない。
それはなぜか。
理由は至極明快で、『淫花廓』の顧客に政財界の大物や、警察の上層部、果ては検察の偉いさんや最高裁の重鎮なども名前を連ねているからであった。
長い物には巻かれろ、臭いものには蓋、君子危うきに近寄らず。
見て見ぬふりをする、身内のスキャンダルをなによりも隠匿したい警察組織の在り方に、異を唱える人間は、少ない。
表立って声高に、黒は黒、白は白だと叫べるのは、新人のときだけだ。
その新人も、警察組織に馴染むにつれて、目の逸らし方が上手くなってゆく。
なにを見て、なにを見ないのか。
それを覚えれば、一人前の警察だ。上司に可愛がられれば、出世の道が開ける。
しかし、ときに正義感の強い、権力に屈しない人間……まさに、正義の味方とでも呼ぶべき人間が、組織に混ざっていることがある。
彼らは自身の保身などはあまり考えない。
己が正しいと思うことを、真っ直ぐに貫き通す。
その姿勢は、本来は称賛されるべきものだが、組織として考えたときには、身勝手なスタンドプレー以外の何物でもなく、彼らの暴走が他の仲間たちの足を引っ張ることとなるのであった。
警察組織に、正しさは不要なのだ。
上に従順で、組織に埋没し、余計なことをしない人間こそが、重宝される。
それは、骨身に沁みてよくわかっていた。
だから、熱血のかたまりである後輩が声高に、淫花廓を捜査すべきだと上司に提案したとき、マズいなと思った。
どこから聞いてきたのか知らないが、迂闊に口にすべき案件ではない。
案の定、上司は苦い顔をして、大仏のように細い目をますます細めていた。
後輩はそれに気付かずに、意気込んでこぶしを握り、熱弁を振るっている。見ていられずに、あ~あとてのひらで目を覆った。
その日のうちに、上司に呼び出しを食らった。
なぜ自分が、と思ったが、後輩の不始末は先輩の不始末。長々と説教されるんだろう。
覚悟を決めて、上司の後に続いた。
普段はあまり立ち入らない、窓のない会議室に連れていかれた。そして、一枚の紙を長机の上に置かれた。
なにが書かれているのかと目を通している内に、顔が強張ってくる。
なんだこれは……。
『身分秘匿捜査に関する誓約書』
整然とした文字が、そう並んでいる。
「淫花廓に、潜ってくれ」
大仏の上司がそう言った。
「あそこに潜って、淫花廓の行っている不法行為の証拠をすべて手に入れて来てほしい。おまえのツラならいけるはずだ」
潜る……つまり、潜入捜査だ。
『警察官』ではない警察が存在するということは、小耳に挟んだことがある。
潜入捜査官とも呼ばれる彼らは、警察官だということがバレないよう、警察官であるという記録すらすべて消される。
警察手帳なんてものはもちろん携行できないし、拳銃の所持だってできない。
彼らが警察であるという証明は、彼らに潜入捜査を命じた人間にしかできないのだ。
その、潜入捜査官になれと、大仏は言っているのだった。
警察官である己を捨て、淫花廓に潜れと。
「言い逃れができないような証拠さえあれば、検挙することができる。要は証拠だ。それを掴むことができれば、淫花廓 をまもっている偉いさんたちも手を引くしかない。顧客には暴力団関係の大物も居るって噂だ。麻薬売買にも使われているかもしれん。上手く動けば麻薬取締部 を出し抜けるぞ」
たるんだ顎を撫でながら、大仏がそう言って笑った。
「……そんなにうまく行きますかね?」
疑わしい思いを隠さずに肩を竦めるのが、いまできる唯一のことだった。
なぜなら、誓約書なるものを目の前に提示された以上、ノーという答えは存在しないからだ。
大仏の胸ポケットに刺さっていた万年筆を拝借して、誓約書に署名する。
名前の最後の一画を書き終える手が、少し震えた。
これでもう、自分は警察官とは名乗れないのだ……。
胸中に湧き起こる感傷と恐怖を少しも理解していない顔で、大仏がうんうんと頷いた。
「きみの新しい名前と生育歴などは追って連絡する。きみの警察手帳は私が預かろう。その書類にも書かれている通り、きみが警察官であった記録は一時 の間破棄する」
「……上手く潜入できなかったときは?」
「そのときは、元の部署に戻れるよう手配する」
「潜入後の遣り取りはどうなります?」
「それも追って連絡する」
唇からため息が漏れた。
要は連絡があるまで、具体的なことはなにもわからない、ということである。
首をぐるりと回して天井を仰ぎ、その一動作ですべてに諦めをつけると、大仏に向かって一礼をした。
今日から自分は、べつの人間になる。
そして、目下の目標は、男娼として淫花廓に潜入することだ。
あまりに非現実的すぎて、いっそ笑えてきた。
大仏に背中を向け、会議室を出た途端、笑いは我慢できないほどになり、肩を揺すりながら小さな声をあげてしまった。
ひと気のない廊下に、自分の笑い声が少しの間、反響していた。
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