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第1話

 『淫花廓(いんかかく)』。  高級の上にも超が付く、現代の遊郭。  その敷地は広大で、外界とは川で隔てられている。  唯一、外と繋がれる場所が、通称『戻り橋』。赤い欄干の山なりの橋である。  この橋を渡れる人間は限られており、それは即ち、淫花廓の会員資格を満たしている者ということだ。  上流階級に所属する者の間では、この淫花廓の会員であるということが一種のステイタスにもなっているのだった。  ……と、外の世界では仰々しく囁かれている淫花廓であるが、内側を開けてみれば、そこで暮らす男娼はさほど特殊でもない。  この淫花廓には、二つの建物が中心に据えられている。  『しずい邸』と『ゆうずい邸』。間に2メートルほどの川を挟んで隣同士に立つその建物は、古い旅館のようでもあり、外壁の赤や緑の色遣いは、旅館ではあり得ないみだりがましい気配を濃厚に漂わせていた。  『しずい邸』は、その名の通り雌蕊(めしべ)……雌の役割をする男娼が。  『ゆうずい邸』には、雄蕊(おしべ)……雄の役割をする男娼が住み込み、日々の生活を送っている。  ゆうずい邸の男娼は、しずい邸への立ち入りが固く禁止されており、また、地上にも隣の建物へと渡るための橋は存在せず、セキュリティが万全の地下通路しか用意されていないため、事実上禁止されるまでもなく立ち入ることは不可能なのだった。  だから、しずい邸のことはまったくわからないが、ゆうずい邸に限って言えば、ここはただの男子寮である。  雄の中の雄だけが集められた、男子寮。  字面だけ見ればむさくるしいことこの上ないが、しかし、そこはさすが遊郭。集められた男娼たちは、皆、タイプは違えど見目が整っている者ばかりだ。    だが、いくら容姿が良かろうと、男が数十人集まればそこに序列は生まれる。  おまけにここは、最も本能的な『性』を売り物にしている場所である。  どれだけ相手に対してマウントを取れるのか、どれだけの客を虜にできるのか、どれだけの額を稼ぎ出すことができるのか……。    ホストクラブのように、序列は売上額で決まる。  五本の指にでも入れば、広く快適な部屋が与えられ、タバコや甘味などの嗜好品も制限なく手に入るのだった。  ヒエラルキーの上位の人間には、鷹揚で、貫禄があり、下の者からも慕われるような傑物が存在するが、下位の男たちは上にのし上がろうとする野心に溢れ、ぎすぎす尖っており、彼らの間での小競り合いは、ほとんどゆうずい邸の名物のようにそこかしこで勃発するのである。  今日もまた、廊下に怒声が響いた。 「またかよ」  火を点ける前のタバコを唇に挟みながら、ゆらゆらとそれを揺らして、漆黒(しっこく)は呆れた目を向けた。  火事と喧嘩は江戸の華、というが、ここは江戸ではないし、時代も現代だ。……まぁ、和服姿の男ばかりが暮らしているので、パッと見は江戸時代に見えなくもないが。  茶に黒の紋様の入った、長着と揃いの羽織りの腕を組んで、窓枠にもたれかかりながら漆黒は男娼二人の喧嘩を傍観する。  敢えて止めないのは、その労力が無駄だからだ。  漆黒が止めずとも、どうせすぐに男衆(おとこしゅう)の横槍が入る。     そう思った傍から、怪士(あやかし)の面を着けた黒衣の男衆が廊下の奥から走って来るのが見えた。  男衆、というのは、ゆうずい邸の下働きの男たちの総称である。彼らは皆、逞しい体つきをしており、揃いの黒装束に身を包み、髪は綺麗に剃り上げ、顔には面を装着している。  だから、見た目だけでは個人の区別がほとんどつかないのだった。    男衆たちの鎧った筋肉は、見掛け倒しではなく、その体術も中々のものである。  漆黒も、柔道と剣道には腕に覚えがあるのだが、男衆たちに徒党を組まれると確実に負けるだろう。  その男衆が、太い腕を振りかざしながら、胸倉を掴み合っている男娼たちの間に割って入ろうとする、直前に。 「おまえたちっ、終わり終わりっ、はい、解散っ」    パンパンパンとよく響く音をてのひらで打ち鳴らしながら、濃い青色の単衣(ひとえ)姿の青年が仲裁の声を上げた。  彼は二十歳そこそこの若者で……名を、青藍(せいらん)と言う。  ゆうずい邸の男娼にはすべて、色の名前が与えられているのだった。 「ひっこんでろっ」 「邪魔すんなっ」  喧嘩をしていた二人が同時に青藍へと罵声を飛ばしたが、青藍は涼しい顔でにこにこと笑っている。 「まぁまぁ。なにが原因で喧嘩になったんだよ? ほら、話聞いてやるから言ってみ?」  小さい子どもに言うような彼の口調に、カチンときたひとりが青藍の胸をドンと突き飛ばした。  その腕を、背後から近寄って来た男衆が掴み、ちから尽くで引き剥がした。 「そこまでです。いますぐ引かないと、楼主へ報告しますよ」  能面越しに男衆にそう(たしな)められたが、2人は険悪な目をしたまま互いに引こうとはしなかった。  ふと周囲を見ると、見物人がいつの間にか増えている。  漆黒はタバコを唇で弄びながら、部屋へ戻ろうかと考えた。  そのときだった。   「なんの騒ぎだ」    鋭い鞭のような声が、ぴしゃりと空気を切り裂いた。  全員が、ハッとしたように顔をそちらへと向ける。  そこには、廊下を悠々と歩いてくるひとりの男の姿があった。

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