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第38話

 言うつもりはなかった。  困らせるだけだと、知っていたから。  告げるつもりなんて、なかった。    それなのに。  胸に湧き上がって来る様々な思いが、もう抑えきれなくて。  (あずさ)の喉から勝手に言葉がこぼれてしまった。 「……あなたが、好きです……」  梓の両手を包んでくれている、漆黒(しっこく)の。  男らしく骨ばったその手の甲へと。  梓は唇をつけた。  ちゅ、とささやかなちからで吸って、離れる。  けれどまたすぐに恋しくなって……タバコの香りのする漆黒の指へと、梓は再びキスをした。  漆黒の腕が、ぴくりと動く。  振り解かれるのだろうか。  繋がれているぬくもりを取り上げられる恐怖に、(にわ)かに身が竦む。    伏せた顔を上げられなくなった梓の髪を、漆黒の嘆息が揺らした。 「俺なんかの、なにがいいんだ」  苦く響くバリトンの声。  その声も。  硬い感触の指も。  タバコの香りも。  ぜんぶ、好きだけれど……。 「……漆黒さんは、僕に……やさしくしてくれました」  口にしてしまえば、チープで薄っぺらくて。  でも梓は、他の言葉を知らないから。 「やさしいあなたを、好きに、なりました」  好き、という音の連なりを。  梓は大事に大事に舌の上に乗せる。  明日、梓が淫花廓(ここ)を出たら、もう二度と会えないひとだから。  いまはどうか、梓の手を離さないでほしかった。  漆黒がまた吐息を落とす。  梓の両手を、包んだままで。  男が「梓」と短く名を呼んだ。  梓は涙で濡れた目を、恐る恐る持ち上げた。  顎髭のよく似合う、整った漆黒の顔が、なにか痛みをこらえるように歪んでいて。 「梓。……俺のやさしさは、偽物だって、もうわかってんだろ?」    囁く声音で、漆黒がそう言った。  梓が無言で瞬くと、ぼろり、と目に溜まっていた涙が頬を転がった。  漆黒の右手が離れ、梓の目元をそのてのひらでやわらかくこすってくれる。   「俺がおまえにやったやさしさは……都合よくおまえを使うための、紛い物だ。最初から俺は、おまえを利用しようと思っていた」  笑おうとして失敗したような、苦し気な動きを、男の唇は見せた。  彼の低い呟きは、梓を突き離そうとしてくる。 「おまえに偽物のやさしさを与えて、俺の思う通りに動かそうとしただけだ。こんな最低な男に、好きなんて言うな」    自嘲のように吐き捨てた漆黒が。  一歩を、下がった。    梓の涙を拭った右手が。  梓のこぶしを包んでくれていた左手が。  ゆっくりと、離れてゆく。  開いた肌の隙間の、その温度が失われる前に。梓は遠ざかろうとする彼の手を掴んだ。   「さ、最初って、いつですか?」  漆黒の左手の指を、両手でぎゅっと握り締めて。  梓は喉に詰まる声を無理やりに押し出し、尋ねた。 「ほ、本当の、最初ですか? 僕と、一番初めに顔を合わせたときですか?」    梓の問いに、漆黒が虚を突かれたような顔をした。  眉を寄せた漆黒の、その目がわずかに細まって。視線を中空に漂わせた男が、軽く首を傾げた。 「……どうだったかな? もう、随分前みたいな感じがするな」  目尻に、くしゃりとしわを寄せて。  漆黒が微笑んだ。  空いていた右手が、梓の頭の上に乗せられ、そこでポンポンと弾む。 「楼主のとこで、初めておまえを見たときは……淫花廓(こんな場所)に似つかわしくないガキだなと、思ったよ」  梓に向けられたバリトンの声は、やわらかさを孕んでいて。    男衆に連れられて、最初に応接室に足を踏み入れたときのことを、梓は思い出した。  ローテーブルを挟んで、楼主と向かい合わせに座っていた漆黒。  部屋は、男たちの吐き出すタバコや煙管(キセル)の煙で、白く濁っていて……。 「そうだな、おまえは確かに、最初はただの子どもだった」  梓の記憶と溶け合うように、漆黒の声が鼓膜に滲んだ。  梓が男を見つめると、漆黒の双眸もこちらを向いていて。  視線が、絡み合った。 「……漆黒さんは、やっぱりやさしいです」  梓の言葉に、漆黒が片眉をひょいと上げる。 「なにを聞いてたんだおまえは」  呆れたように口角を上げた漆黒へと、梓も泣き笑いの顔を向けた。  あのとき。  これまでの生活とは無縁だった、遊郭、という場所に連れて来られた梓は、とても緊張していて。  体をカチコチに強張らせていたから、呼吸すらもうまくできなくて。  楼主と漆黒の唇から漏れる煙に、噎せてしまったのだった。  こん、と咳をした梓へと、漆黒は。  ハッとした目を向けて、それから……。  誰もなにも言っていないのに、タバコの火を消してくれたのだ。    見ず知らずの子どものために。  さり気ない動作で、灰皿に喫いかけのタバコを押し付けてくれて……。  その後も梓を部屋へ連れ帰った彼は、換気をしたりと、梓を気遣ってくれた。  ただの、子どものために……。 「漆黒さんは、やさしいです」  彼が梓へと向けてくれたやさしさが、紛い物であったとしても……。  漆黒の言うように、ただ梓を利用しようとしていただけだったとしても。  出会った最初の、あのときだけは。  なんの打算もなかったはずだ。  梓はそれだけで充分だった。    梓は施設で育ったけれど……施設の大人たちの誰からも、あんなふうに心配をされたことがなかったから……。  梓はいつも、親友の理久を心配する立場で……自分自身のことなど、気にかけたこともなかったから……。  漆黒にとってはほんの些細な、取るに足らないやさしさだったのだとしても。  梓にはそれで、充分だったのだ。 「そんなこと言うな」  漆黒が眉根を寄せて、梓の言葉を否定する。  梓は首を後方へ倒し、つま先立ちに伸びあがった。   そのまま、漆黒の、髭のある顎先へとキスをすると、男が小さく身じろいだ。  漆黒の指を握る梓の手が、じわりと汗をかく。  拒絶されるのは恐ろしい。  でも、梓には今日しか残されていないから……。  好きだと言ってしまった勢いで、はしたない願い事を、ありったけの勇気を振り絞って口にする。   「ぼ、僕を、抱いてください……」  語尾がみっともなく震えた。  漆黒の眉がますます寄せられるのを、居たたまれないような思いで見つめて。  梓は男を乞うた。 「僕が、上手くできるようになったか……確かめてください」  言いながら梓は、浴衣の帯をしゅるりとほどく。  開いた(あわせ)に手を掛けて、肩からそれを脱ぎ落した。  緊張と羞恥に心臓が口から飛び出しそうだ。  けれど、漆黒と過ごせるのはこれで最後なのだという焦燥の方が勝り、梓は勢いのままに下着も脱ぎ捨てた。  蜂巣(ハチス)の玄関先で、梓だけが全裸になる。  それを、漆黒が見下ろして……。  男の下瞼が、ひくりと動いた。  苦し気に寄せられた眉間のしわは、なくならない。  梓のことを抱きたくないのだ、と梓は悟った。  当然だ。  漆黒が好きなのは、涼香といううつくしい女性で。  子どもで、男で、漆黒に協力もできないような役立たずな梓ではないのだから。     梓は悄然と肩からちからを抜き、項垂れた。  床に広がった浴衣と……自分で脱いだ下着を拾わなければならない。  拾い上げて、身に着けて、それから、漆黒に。  すみませんでした、と謝って……。  忘れてください、と頭を下げれば……これまでの夜と同じように、今晩も漆黒の隣で眠ることができるはずだから……。  早く、浴衣を着なければいけない、のに。  梓の体は、梓の思う通りに動いてくれなかった。  唇が震える。梓は俯いたままでぎゅっと頬の内側を噛んだ。  泣くな。  泣くな。  泣くな。  漆黒に抱かれないのは、仕方ない。  わかっていたことだ。  泣くほどのことじゃない。  自分に何度も言い聞かせながら。   それでも、梓は。  キスだけでも、してほしいという気持ちを、殺すことが出来なかった……。  タバコの味のする、口づけを。  最後に、一度だけ、してほしかった……。  虚脱に足からちから抜けそうになって、梓は両足を踏ん張った。  嗚咽の漏れそうな唇は、引き結んだままで。  梓はぎこちない動きで、浴衣へと、ようやく手を伸ばすことができた。  身を屈めた梓の肩に……不意にあたたかなてのひらが触れる。  え、と思った瞬間にはもう、梓は漆黒の胸に抱きしめられていた。  梓が驚いて男を見上げると、漆黒は眉間のしわをそのままに、低くぽつりと呟いた。 「痩せたな、おまえ」 「……え?」 「久しぶりに裸を見たから……驚いた。食欲、落ちてたもんな」  言いながら漆黒が、梓の体をひょいと持ち上げる。  爪先が地面から浮いて、梓は慌てて漆黒の首に腕を回した。 「ずっと、調子が悪かったのか?」  梓を抱き上げたまま、漆黒が歩き出す。  向かう先は、部屋の中央にあるベッドだった。 「梓?」  返事を促され、梓は慌てて首を横に振った。  食欲は確かに減退していたが、それはべつに体の調子が悪かったからではない。 「あ、あの……僕、吐いてしまって……」 「え?」 「そ、その……櫨染(はじぞめ)さんに、だ、抱かれたときに……」    櫨染が教育係になって二日目のことだっただろうか。  男に、あまりにも強くめちゃくちゃに突き上げられて、梓は性交の最中に嘔吐してしまったのだった。  汚ぇな、と罵られ、暴力こそは振るわれなかったが、吐物に顔を押し付けられてさらに激しく貫かれたから……それから、食事をするのが少し怖くなった。  また吐くかもしれない、という恐怖が、梓から食欲を奪ったのだ。  梓の話を聞きながら、漆黒がベッドへ腰を下ろした。梓は自然、男の膝の上に座る形となる。 「悪かった、梓」  梓の頬を、やわらかく撫でた漆黒が、梓へと謝罪の言葉を向けてくる。  梓は目を丸くして男の顔を見た。  なぜ漆黒が謝るのか……。 「あんな男におまえを任せた俺のミスだ。悪かった。怖かっただろ、ごめんな」  こつ……とひたい同士が合わさった。  漆黒の目尻がくしゃりと撓んだ。ほろ苦く笑った男が、バリトンの声で囁いた。 「おまえに関しては、俺は間違えてばかりだ……。どうしていいか、いまもわからない。梓。……俺のエスになるか?」  エス……。  スパイの、エス。    漆黒のエスとなって、鬼頭組や柴野組で得た情報を、警察に渡せば……。  その手柄の如何(いかん)によって漆黒は、淫花廓(ここ)での潜入捜査から解放され、外界へと戻り……。  梓を。  梓を、迎えに来てくれる、と……。  男娼としてではなく。   漆黒という名でもなく。  梓の知らない名前の、ただのひとりの男として、梓を迎えに来てくれる漆黒のことを想像したら、胸が甘いような切ないようなものでぎゅうっと苦しくなった。  けれど梓は、静かに首を横に振った。 「できません」  漆黒のために動きたい、という思いは確かにあるけれど。  梓にはそれができない理由があって。  頷くわけには、いかなかった。  そうか、と漆黒が吐息した。  以前にこの話を漆黒からされたとき……梓はいまと同じように彼の申し出を断ってしまい……それから漆黒は、キスをしてくれなくなった。  いまもまた、梓は拒絶されるのだろうか……。  梓の怯えをよそに、触れ合ったひたいは離れて行かなかった。  漆黒の大きな手が、梓の背中を撫でる。  そのぬくもりと感触に、肌が妖しくざわめいた。 「じゃあ俺は、ただの男娼だ。漆黒として……おまえの教育係として、おまえの体を。……それでいいな?」  背筋を這った男の指が、梓のうなじをくすぐるように撫でて、じゃれつく動作で髪を梳いた。  軽く引っ張られる頭皮の感覚にすら、梓の体は反応してしまい……下腹部に熱が集まってゆく。   「はい……」  と、梓が掠れた声で返事をした瞬間。  しっとりと、唇が塞がれた。  タバコの味のする舌が。  梓の口腔を、甘く満たした……。          

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