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第37話
梓が眠っている。
漆黒の腕の中で。
日付が変わる前には自分の元へと返せ、という漆黒の言いつけを守り、櫨染 は毎日0時前には梓を漆黒の部屋の前まで送ってきた。
大人の男ふたりの間で。
梓が物のように受け渡しをされる。
異様な光景だ。
それは、漆黒自身も重々わかっていた。
けれど。
手前 の仕事を思い出せ、と。
般若 を通して楼主から告げられてから漆黒は、己の立場を……梓の前では何者であるべきかを、改めて考えたのだった。
漆黒は、男娼だ。
淫花廓で働く男娼だ。
梓に身分を告げ、ここから出るための駒に仕立て上げるために、偽物のやさしさを与え、偽物のぬくもりを教え込んだが……それは失敗に終わった。
協力はできない、と梓に拒まれたそのときから。
梓と漆黒の関係は、ただの客と男娼に戻った、はずだった。
しかし、戻りきれてはいなかった。
漆黒の中途半端な振る舞いが、結果的に梓に怪我を負わせたのだ。
漆黒以外に抱かれるのが嫌で、他の男を拒んでしまった、と言って泣いた梓。
彼のその、純真な涙に……。
漆黒は返す言葉がなかった。
梓の傷は漆黒の咎だ。
警察官に戻りたいという己の欲求のみを優先し、梓の気持ちを弄んだ漆黒の罪だ。
悔やんだところで、時間を巻き戻すことなんてできない。
だから漆黒は。
本来の、男娼という立場に戻り、最初に依頼された通りに、梓に性技を教える役割を、果たそうと思った。
ここを出て行く梓が。
これ以上傷つくことのないように。
漆黒以外の男の味を教え、誰に抱かれても応じられる体になるように。
やくざの愛人の身代わりとして使われる梓が……無事に、その役目を全うできるように……。
ふ……、と漆黒は息を吐いた。
疲れ果てたように眠っている梓の、黒くやわらかな髪を無意識の動作で撫でようとして……その指先を握り込む。
いまさら、やさしくなんてしてどうするんだ、と。
自分自身を責める声が耳の奥に響く。
漆黒はただ、仕事として梓に接する。
それ以上も、以下もない。
私情はそこに介在しない。
梓の隣で寝ているのは、『漆黒』という淫花廓の男娼だ。
何度も何度も己に言い聞かせながら、漆黒は梓を起こさぬようにそうっと起き上がった。
ベッドのヘッドボードに背を預けて、タバコを口に咥える。
火を点けないままのそれを、戯れに唇で揺らして……漆黒は苦い気分で瞑目した。
このまま、『漆黒』として残りの期限を梓と過ごす。
それは容易いことのはずなのに、いまの漆黒にはひどく億劫に感じられた。
櫨染 に抱かれるようになっても、梓の態度は、さほど変わりはしなかった。
朝は遅い時間に漆黒とともに起きて、身支度を整え、食堂でブランチを摂る。
正座の姿勢も、箸の使い方も、数週間でうつくしくなっていた。
「青藍より様になってるぞ」
と、漆黒が唇の端で笑いながらそう言うと、梓が可笑しそうにくすりと笑う。
ひたむきな黒い瞳は、無垢なままで……そこに映る己が奇妙に歪んで見えて、漆黒はさり気なく梓から視線を外した。
「美味しいですね」
梓がきれいな箸さばきで小芋の煮物を掴み、唇へと運んだ。美味しい、と言いつつも料理の減りは遅い。
先に食べ終えた漆黒は、タバコを喫いながら見るともなくその箸先を眺めていた。
梓は結局、半分強を減らしたところで箸を置き、食べるのをやめてしまった。
夜は蜂巣 へと梓を送ってゆく。
この蜂巣は、漆黒の部屋だけで抱かれていた『客』のために、他の環境にも慣れさせるため、と適当な理由をつけて、漆黒が翁 面の男衆と交渉し、抑えた部屋だった。
櫨染を使っていることは、誰にも言っていない。
櫨染に渡す金は漆黒の稼ぎから出すつもりだった。
漆黒の行いを知っているのか知らないのか、楼主や男衆からの横槍は入らない。
漆黒と過ごしているときは、にこにこと微笑んでいる梓だったが、蜂巣の扉が開くその瞬間だけ、少年の顔から表情がごっそりと削げ落ちる。
それを漆黒は目の端に捉えたが、黙殺した。
梓を櫨染に預けている間、漆黒は部屋で無心にタバコをふかして過ごす。
気付けば部屋の中に白い煙が充満していて……それがそのまま漆黒の中に溜まる鬱屈のように思え、溜め息を噛み殺した漆黒は窓を開きに行き、換気を行うのだった。
そしてまた、日付の変わる前に梓が戻って来る。
櫨染が馴れ馴れしく梓の肩に手を回している。
梓の強張った顔は、漆黒を見るとほっとしたように緩む。
子犬のように、少し潤んだ梓の目が。
漆黒の方へ向けられ、ゆるゆると……花の蕾のほころびにも似た笑みを浮かべるのを目にする度に。
漆黒の腹の奥には得体の知れぬ熱い感情が、じわりじわりと広がってゆくのだった。
針の筵 のような日々は、長く感じられた。
いや……やはり短いのか。
梓と過ごす、最後の1週間は、6日目を迎えた。
明日の午前中には迎えが来る。
緊張しているのだろうか、梓の表情は朝から硬かった。
ここで摂る最後の夕食を終え、一旦漆黒の部屋に戻った梓が、バスルームで身支度を行う。
ほどなくすると、女物の浴衣に身を包んだ梓が姿を現した。
乾ききっていない後ろ髪が、しっとりとうなじに絡みついている。
大人でも子どもでもなく、男でも女でもないような曖昧な美貌に、漆黒は目を細めた。
最初は……彼と初めて会ったひと月前は、ただの子どもだと思っていた。
けれどいまの梓は、男に抱かれることに慣れたからだろうか……黙って立っていると随分と大人びた印象で、漆黒は改めて梓のうつくしさに気付かされる。
けれど、これだけは初めから変わらない、黒く大きな瞳の……下瞼をひくりと動かして……梓がなにかを言いたげに口をもごもごとさせた。
漆黒は素知らぬふりで梓を手招き、ゆうずい邸を出ると、いつもの通りに蜂巣への道を彼とともに歩いた。
人工の川を挟んで隣同士に建つ、ゆうずい邸としずい邸。その両邸を中心に放射線状に伸びる石造りの通路は、いまは灯籠の橙 色の灯 りで照らされている。
漆黒はふと、遥か昔……子どもの頃に行った神社の夏祭りを思い出していた。
玉砂利の敷かれた参道に立ち並ぶ露店と……提灯の灯。
その賑わう場所から少し外れると、途端にしんと静まり返った暗闇が現れて……異空間の入り口のような出で立ちに恐ろしくなったことを、覚えている。
ぼんやりとその頃のことを考えながら、漆黒は何気なく斜め後ろを歩く梓へと目を向けた。
細い体と。
浴衣の、青い花の柄が……。
橙色の灯りに揺らめいて。
その頼りなさに、漆黒は思わず彼の手首を掴んでいた。
梓がハッとしたように双眸を丸くした。
漆黒は……己に唾棄 したい思いで、細い手首に巻き付けた指をほどこうとする。
くだらない感傷で、馬鹿なことをしてしまった。
自分にいまさら、梓の手を引く権利など、あるはずがないのに……。
けれど離れようとした漆黒の手を、梓の指が追いかけてきた。
漆黒よりも小さな、梓のてのひらが。
漆黒のそれと重ね合わされて……。
漆黒が梓を見つめると、梓が……少しだけ泣きそうな顔で、滲むように笑った。
2人は手を繋いだままで、カラカラと下駄の音を立てながら蜂巣までの道を歩いた。
やがて六角形の建物が見えてくる。
入り口の前に、並んで立った。
中では櫨染が待っている。
漆黒はここまでだ。
手を離して。
じゃあな、頑張れよ、と言って。
いつものように、背を向ける。
それだけの、単純な動作が、なぜだか出来なくて……。
絡んだ指すらも離せなくて、漆黒は立ち尽くした。
梓がこちらを見上げてくるのが、目の端に映る。
中々入って来ないことに焦れたのか、室内から粗雑な足音が聞こえ、乱暴に扉が開かれた。
明るい金の髪を無造作にひとつに束ねた男が、怪訝に眉を寄せ、
「なにしてんだ。さっさと来いよ」
と、梓へと腕を伸ばしてきた。
浴衣の袖を、乱暴に掴んだ櫨染が、梓の体を漆黒から引き離す。
「あ……」
梓の唇から、あえかな声が漏れた。
その音に、失望の色が混じったような気がして、漆黒は……。
咄嗟に2人の間に割り込んでしまっていた。
漆黒に突き飛ばされる形となった櫨染が、イライラと舌打ちを漏らす。
「……なんのつもりだ? 漆黒」
問われて、漆黒は言い淀んだ。
本当に、なんのつもりなのか……。
込み上げてきた苦笑いに、口角が引き攣る。
「悪いな、櫨染。今日は俺が相手するわ」
顎髭を指先で弄りながら、漆黒はへらりと笑った。
櫨染だけでなく、梓までもがポカンとこちらを見つめてくる。
「はぁ? てめ、ふざけんなよっ」
「よく考えりゃあ、今日で終 いなんだ。おまえがこの数日梓に教えてきたことを、最後に俺がチェックするのが当然だよな? 本来の教育係は俺だろう?」
「てめぇが一週間だっつったから、俺は明日までスケジュール空けてんだよ」
「明日までの分の金はちゃんと払う。見世 に立ったところでどうせお茶挽きだろうがおまえは」
「なんだと?」
「なにもせずに楽して稼げるんだ。なにを怒る必要がある?」
漆黒が両手を広げて肩を竦めてみせると、櫨染が襟首を強いちからで掴み上げてきた。
そのままぎりぎりと締めあげられたが、漆黒が無言でじっと男を見ていると、櫨染は鋭い舌打ちをしてから、乱暴に漆黒の胸をどんと突いた。
「くそっ。死ねっ」
まるきりチンピラの風情で右手の中指を立てた櫨染が、そう吐き捨てて足音も荒く蜂巣を出て行った。
あれでよく淫花廓 に雇われたな、と漆黒は半ば呆れる気持ちで怒れる背を見送った。
楼主の目利きがなっていないのか……それとも櫨染のような男娼でも売れると思っているのか……。
「あ、あの……」
おずおずと、横から声をかけられ、漆黒の意識は櫨染から梓へと引き戻された。
彼の両手は胸の前でグーの形に握られており、漆黒の真意を見透かそうとでもするように、大きな瞳がひたと漆黒を映していた。
その、背が。
久しぶりに、丸まっていて……。
「梓、背中」
と、漆黒はてのひらで、梓の背中を叩いた。
大したちからではなかった。
ゆるやかに、とん、と手を弾ませただけなのに。
梓の黒い眸子から、ぼろり、ぼろり、と大粒の涙が立て続けに落ちた。
こまかな震えを見せる梓のこぶしを、漆黒は己の両手に包んだ。
彼の手の震えを止めようと、漆黒は包んだそれにぎゅっとちからを込めた。
小さく身じろいだ梓が、項垂 れるように顔を俯ける。その途端にまた雫が落ちて……梓の手を包む漆黒の手の甲で、弾けた。
漆黒の、手の。
曲げた中指の付け根の、浮き出た骨の、その尖りへと。
静かに、梓が唇を寄せてくる。
ちゅ、と吸われる感触に、漆黒の腕がぴくりと揺れた。
ちゅ、ちゅ、と手の甲に、ささやかなキスを落として。
梓が顔を伏せたまま、涙声で、言った。
「……あなたが、好きです……」
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