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第36話

 (あずさ)は茫然と、櫨染(はじぞめ)の腕の中から漆黒(しっこく)を見上げた。  着物を着崩した男の手が、馴れ馴れしく梓の肩を抱いている。  その腕の重みから逃れようとする足を、無理やりに床に縫い付けて。  梓は、梓をここへ連れてきた漆黒の顔を見つめた。  漆黒が吐息を落とし、自身の髪をぐしゃぐしゃとかき回す。  櫨染が喉奥でくくっと笑って、梓の方へと軽く体重を預けてきた。梓は足元をよろめかせ、壁に肩を打ちつけてしまった。 「今日から、おまえの教育係は俺だよ」  櫨染の……カラーコンタクトだろうか、灰色味を帯びた目が、じっと梓を映して細められた。  彼の耳たぶにはたくさんのピアスが嵌まっていて、その硬い感触が梓の頬を刺してくる。  梓は、男の言葉の意味がよくわからずに、なおも漆黒へと眼差しを注ぎ続けた。  漆黒が袂からタバコを取り出し、唇に咥えて火を点けた。  櫨染の香水の香りと、漆黒のタバコの匂いが、蜂巣の中で混ざり合う。それは、二人の性格を表したかのように、少しも調和しなかった。  ふぅ、と紫煙を天井に向かって放った漆黒が、眉間にしわを寄せて、ようやく梓と視線を合わせた。 「梓。おまえ、拒んでしまったって、言っただろ」  低いバリトンが。  平坦なトーンで梓へと向けられた。    梓は……成す術もなく、淡々と動く男の唇を見た。 「おまえを俺に、慣れさせすぎたな。梓。悪かった。俺の配慮が足らなかった」    梓を映す漆黒の瞳は、無感動で。    かつて、良い子だな梓、と囁いて……目尻にしわを寄せてくしゃりと笑った男と同じひとだとは、思えなかった。 「梓。おまえが次はうまくできるように……俺以外の男に慣れておけ」 「そういうこと。大丈夫大丈夫。俺だって充分巧いから」  梓の肩に回された櫨染の手が、浴衣の袷に潜り込んできて、無遠慮に皮膚を撫でまわされた。  シャワーを浴びて温まっていたはずの梓の肌は、冷えきっていて。  漆黒ではない男の手の感触に、ざわりと鳥肌が立った。  梓の手が、無意識に動いて。  漆黒の着物を、掴もうとした。  漆黒が一歩後ろへと下がった。  するり、と梓の指から、羽織の袖が逃げてゆく。 「櫨染。日付が変わる前に、毎日必ず俺の部屋へ返せ。傷をつけるのもなしだ。おまえがルールを破ったときには」 「わかった、わかったって。口うるさい野郎だなぁ、漆黒。俺だって楽に稼ぎたいんだ。せいぜいやさしくしてやるよ」  ひらひらとてのひらを振りながら、櫨染が軽薄に笑った。  漆黒は、一瞬ぎらりと櫨染を睨みつけたが、しかしなにも言わずに、さらにもう一歩下がった。 「梓。大丈夫だな?」    問われて、梓は泣きたくなった。  大丈夫じゃない。  全然大丈夫じゃない。    櫨染ではなくて……漆黒に、抱いてほしい。    体だけでも良かった。  漆黒との繋がりが、体だけでも……梓は充分だった。    漆黒が、抱いてくれると思ったから、梓は……。   「……大丈夫です」    ぽつり、と。  唇から言葉が落ちた。  胸が痛くて苦しくて、全然大丈夫じゃないのに。 「大丈夫です」  口を開くと、その言葉しか知らないように同じセリフがこぼれてくる。  漆黒が無言で頷いて、蜂巣のドアを引いた。  入り込んだ夜風が、タバコの煙を内側へと運んでゆく。  漆黒が携帯灰皿に半分ほどの長さになったそれを押し付けた。  立ち昇った煙は、すぐに薄れて見えなくなった。  カツ、と下駄を踏み鳴らして。  漆黒が外へと出て行った。    扉が閉じ切るのを待たずに、櫨染が梓を引きずるようにして室内へと連れ込んだ。  大きなベッドに押し倒された梓は。  着物を脱ぎながら圧し掛かって来る男を、茫然と見上げた。  櫨染が明るい色の髪を後ろへと流し、手首に巻いていたゴムで適当に縛ると、手慣れた仕草で梓の帯をほどき、下着を脱がせた。  梓が体を捩ってその手から逃れようとすると、櫨染が口角を吊り上げて笑った。薄く開いた唇の隙間から、尖った犬歯が覗く。 「聞いてただろ? おまえの教育係は俺なの。ちょっと指名が多いからって、漆黒ばっかり楽しやがって、ずるいじゃん。なぁ? そう思わねぇ?」  梓へ話しかけながら、櫨染がてのひらにとろみのある潤滑油を垂らした。  それを指先に絡めながら、男が梓を見下ろして、目を細めた。 「こんなガキ仕込むだけで売り上げになるって、おかしいだろ、なぁ? だけどアレだよな。あいつ、おまえみたいなのじゃ満足できなかったんじゃねぇの? 俺が代わってやるっつったら、あっさりオーケーしたぜ?」    濡れた男の指が、梓の足の間を探った。  後ろのすぼまりをぬるぬると潤して。つぷり、と二本まとめて挿入される。   「俺がおまえの面倒見てる間、あいつはあいつで別の客と楽しんでんだ。あいつにとっても悪い話じゃないもんな。本命が来たときも、相手できるし。……なんだよ、その目は」  ぐちゅり、と水音を立てて、櫨染の指が梓の中から出て行った。  適当にしかほぐされていないそこに、櫨染が下半身を押し付けてくる。   「漆黒に本命がいるの、知らなかったのか? ありゃいいオンナだよなぁ。熱心に通い詰めてるようだし。そろそろ身請けされっかもなぁ。まぁ俺としちゃあ上の枠に空きができるから、さっさと年増は引退してほしいぐらいだぜ。おい、ちから抜け」    太ももをてのひらで叩かれ、足を大きく広げられた。  ぬち……と櫨染の陰茎の先端が、梓の後孔を割り開く。 「まぁおまえのおかげで、一週間の売り上げは確保されたし、おまえのココを使って鬱憤も解消できるしな。あいつに飽きられたおまえを、代わりに俺が可愛がってやるよ。おら、漆黒に仕込まれたテク、見せてみろ」  肉筒の中を、男がひと息に突いてきた。  無理やりに侵入されて、痛みがつま先まで駆け抜けた。  痛い、と感じた瞬間に、涙が目尻からこめかみに向けて流れ落ちた。  梓は櫨染に持ち上げられた己の白い足先を、茫洋と眺めながら泣いた。  漆黒が悪いではない。  彼は、当然の選択をしただけだ。  梓が鬼頭の愛人の身代わりをきちんと努められるように。  漆黒以外に抱かれても、拒絶することなく、ちゃんと己の役割をまっとうできるように。   教育係として、当然の選択をしただけだ。    けれど。  梓は……。  良い子だな、梓、と言って梓に触れて来る漆黒の指先に。  なにかの……情が、込められているような気が、していて。  漆黒が、警察関係者だと身分を告げてくれる、前も、後も。  梓のことを想って、梓を抱いてくれているのだと、勝手に勘違いをしていて……。  そうか。  漆黒は、男娼だった、と。  梓はようやく、それに気付いた。     男娼は、勘違いさせることが仕事だ。  自分は彼に愛されている、と。  『客』に、そう思わせることが仕事なのだ。    これまでも梓は、ずっと自分に言い聞かせてきた。  漆黒は、仕事で梓を抱いているだけだ、と。  妙な勘違いはするな、と。  言い聞かせてきた。    けれど。  三日を、漆黒と離れて過ごして……。  そして怪我をした梓を介抱してくれた、この一週間。  漆黒は、とてもやさしかったから。  とてもとても、やさしかったから。  梓を労わり、大事にしてくれたから。  梓は、夢の中に居るような気が、ずっとしていて。    自分に、勘違いをするな、と言い聞かせることを少し忘れていたのだった。  梓は泣いた。  静かに、涙だけを流し続けた。  足の間では櫨染が腰を振っている。  少しも気持ちよくない。少しも気持ちよくないけれど……梓がうまくできないと、漆黒が責められてしまうかもしれない。  梓は強張った体から、ゆるゆるとちからを抜いて、震える息を吐き出した。 (下手くそな男に当たったときはな、自分でちゃんと腰を振って、ここに当てるようにしてみろ。そうしたら、おまえも気持ちよくなれるから)     かつて聞いた、漆黒の言葉が耳の内側で響いた。    もう忘れないといけない。  漆黒への想いは、もう忘れて……棄ててしまわないといけない。  そうしなければ梓がつらいだけだ。  そう思うのに、脳が勝手に思い出す。  漆黒の言葉を、勝手に再生してしまう。  そして梓の体は、彼に教えられたとおりに動きだした。 「……んっ、あ、あ、あ」  男の突き上げに合わせて、梓は腰を揺らした。  大丈夫。覚えている。  漆黒の教えてくれた、梓の感じるポイント。そこに、櫨染の太く硬いそれが当たるように、上手くタイミングを計るのだ。 「お? 急に積極的になったな。あ~、すげぇ狭い。さすが、漆黒の躾けた孔だな。いいぜぇ、おまえ」  犬歯を見せて笑った櫨染が、ぐちゅぐちゅと派手な音を立てて腰を叩きつけてきた。  梓は……褒められてホッとした。これで漆黒がこの男に文句を言われることもないだろう。    漆黒ではない男に抱かれながら、漆黒のことばかり考え続けていることに気付き、梓は小さく笑ってしまった。  どうしようもないな、と思う。  どうしようもない。  漆黒を好きな気持ちが、少しもなくなってくれない。    梓は梓の役割を果たすために淫花廓(ここ)へと来たのだから。  漆黒の教えてくれたことを、無駄にしないようにしなければ……。  大丈夫。  淫花廓を出てゆくその日には、ちゃんと笑ってさよならが言えるはずだ。  そのときまでなら、ゆるされるだろう。  このどうしようもない恋心を、胸の中に持ち続けることぐらい。  それぐらいの自由が、梓にもあっていいはずだった……。           

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