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第40話
その日は雨だった。
窓に打ち付けるささやかな雨音を聞きながら、漆黒は隣の子どもを見下ろした。
ひと晩を、抱き合って眠り。
梓は穏やかな表情をしていた。
子犬のような印象の、黒い瞳がちらと漆黒を見上げ、にこりと微笑む。
漆黒は小さく笑い返し、梓の薄い肩に手を置いたままで、ゆうずい邸の正面玄関へと梓を伴って歩いた。
車寄せにはすでに、梓の迎えが来ている。
スーツに身を包んだ佐和山と、その舎弟だ。
漆黒と梓が並んで外へと出ると、すぐに能面をつけた男衆が大きな番傘を差し掛けてくれた。
「いい。俺がする」
漆黒は黒装束の男の手から傘を奪い、梓が濡れないようにぐいと内側へ引き寄せて、彼を待つ車へと足を運んだ。
黙ってこちらを見ていた佐和山が、爬虫類のような目で合図すると、舎弟のひとりが機敏に反応し、後部座席のドアを開いた。
「乗れ」
歩み寄ってきた梓へと、佐和山が短く命じる。
梓がこくりと頷き、一度漆黒の方へ顔を向けた。
「……漆黒さん。ありがとうございました」
傘に落ちる雨粒に、負けそうなぐらい微かな声で、梓がそう言った。
漆黒は、なんと答えて良いかわからずに……ただ黙って首を振った。
梓の華奢な体が。
漆黒の手の中から出ていこうとする。
漆黒は思わず、その肩を掴んで引き留めてしまった。
梓が目を丸くして振り返り……それから、滲むような微笑を見せた。
車に乗り込もうと踏み出していた足を戻して。
くるりと向きを変えた梓は、漆黒と向かい合う形になると、冷えた指先で、漆黒の頬へと触れてきた。
背伸びをした、梓の唇が。
やわらかく、漆黒のそれへと押し当てられて。
すぐに離れた。
「さようなら」
潤んだ黒い瞳を、ゆっくりと瞬かせて。
梓が別れの言葉を口にする。
漆黒の胸が、引き絞られるかのように痛んだ。
行かせていいのか。
この子どもを、このまま行かせていいのか……。
息苦しいほどの葛藤が、漆黒の喉を塞ぐ。
けれど梓を引きとめたとして。
一体漆黒になにができるというのか。
漆黒は無力だ。
男娼としても、警官としても、梓ひとりすら救えない、無力な男だ……。
するり、と漆黒のてのひらから肩を引いて。
梓が、黒塗りの車の中へと姿を消した。
佐和山が続いて梓の隣へと乗り込もうとする。
足を掛けて、身を屈めた男の視線が、束の間漆黒の上で止まった。
ざあざあと雨が降る。
横風とともに傘の内側へ入り込んだ飛沫 が、漆黒と佐和山の体を僅かに濡らした。
佐和山は無言で目を逸らせ、座席へとどさりと座った。
すぐさま舎弟がドアを閉め、自身は助手席へと回る。
梓を乗せた車が、ゆっくりと動き出す。
窓ガラスはスモーク加工がされており、内側の様子は窺えない。
それでも漆黒は、梓が自分を見ているのではないかと思えて……見えもしない梓の姿を探した。
伸ばした手が、窓ガラスに触れた。
しかし、それは一瞬で。
徐々にスピードを上げる車は、みるみるうちに遠ざかってゆく。
「梓っ」
漆黒はたまらず彼の名を呼び、数歩を走った。
ばしゃばしゃと下駄の足元で雨水が跳ねた。
いつの間にか傘は手放していた。
降りしきる雨の中、漆黒は追いつくはずもない車の後を、追って走った。
しかし、不意に背後から腕を捉えられ、動きを阻まれる。
振り向くと、怪士 面の男衆二人が、左右から漆黒を押さえつけていた。
そうだ。
漆黒は、淫花廓の男娼で……。
どう足掻こうがここからは出て行けないのだ……。
そんなことは百も承知だったはずなのに、愚かにも車を追いかけようとするなんて……。
自分の行動が信じられずに、漆黒はしばし呆然としてしまった。
男衆たちの能面をぼんやりと眺め、それから視線を前へと戻す。
そこにはもう、車の影はなく。
細かな雨が、漆黒の視界を白く霞ませた……。
濡れた着物を体に貼りつかせながら、漆黒はゆうずい邸へと戻った。
雫を滴らせる髪を、無造作に後ろへと掻きあげる。
虚無感、というのだろうか……胸が、奇妙にスカスカとしていた。
漆黒は着替えのために、一度部屋へと戻った。
ドアを開けて、自室へと入る。
当然のことながらそこに梓の姿はない。
漆黒さん、とやわらかな声で漆黒を呼ぶ梓の存在は、失われてしまった。
けれど、玄関の靴脱ぎ場には漆黒の足よりも小さな靴が数足並んでいたし、クローゼットには梓の服がまだ掛かっている。
漆黒は込み上げてくる感情を見ないふりで、着物の袂を探り、タバコを取り出した。
一本を、引き抜いて。
唇に挟もうとしたところで……漆黒は動きを止めた。
梓の唇の感触が。
薄くて小さな、梓の唇の感触が、そこには残っていて……。
漆黒はぐしゃりとタバコを握りつぶした。
「くそっ!」
タバコの箱ごと床にそれを叩き付け、漆黒は踵を返す。
慌ただしい動作でドアを開け、廊下を走った。
階段を駆け下り、飛ぶ勢いで一階へ戻ると、手近な男衆を掴まえて怒鳴った。
「楼主はどこに居るっ?」
漆黒の迫力に男衆は驚いたようだったが、帰って来た返事は素っ気ないものだった。
「存じ上げません」
淡々と応じられ、漆黒は舌打ちを漏らした。
「用事があるんだっ。いますぐ繋ぎを取ってくれ! いますぐにだ!」
大声でわめきながら、漆黒は掴んだ男の襟首を揺さぶった。
「店先でぴーぴー騒いでんじゃねぇ」
不意に、冷ややかな声が飛んで来た。
ハッと顔を巡らすと、着流し姿に煙管を咥えたいつものスタイルで、楼主が腕を組んで立っていた。
漆黒は突き飛ばすように男衆を解放し、楼主と対峙する。
感情の読めぬ沼のような男の目が、漆黒を映して細まった。
「水も滴るいい男じゃねぇか、漆黒」
「うるさい。ちょっと顔を貸せ。話がある」
「俺もちょうど、手前 と話したいと思ってたところだ。来な」
男がクイと顎を動かして漆黒を招いた。
漆黒は急くような焦りを押し殺し、楼主の背を追って足を踏み出したのだった。
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